第7話 奇跡の特効薬
調合室の重苦しい静寂を破り、アルディスの足音が静かに響く。
一歩、踏み出すごとに石造りの床がバリバリと音を立てて白く凍りついていった。漆黒の長外套を滑らせ、アルディスはジュリアンを冷徹に射抜いている。
ジュリアンは手に握りしめた漆黒の小瓶を覆い隠すように指を固く丸め、深く深く頭を下げた。
「……アルディス様。このような夜更けに、何のご用でしょう」
「問いを誤魔化すな。その手にある不快な毒小瓶……回廊でネズミと接触した時から、私の鼻を突いていた」
アルディスの氷の殺気が、刃となってジュリアンの肌を削ぐ。
「何者に唆されたか知らんが……『お前の過去を暴き立ててやる』とでも揺さぶられたか? ……馬鹿馬鹿しい。エルネがお前の過去を知った上で、手を取り、家族として迎え入れたことを忘れたわけではあるまい」
「……! 知っております……! お嬢様が……どれほど深く、温かなお心で私という存在を受け入れてくださったかなど……痛いほど存じております……っ!」
ジュリアンの声が、激しい感情の波に苦しく震えた。
「だからこそ……だからこそなのです」
ついに感情を溢れさせたジュリアンが、血を吐くような思いで顔を上げた。
その美しい赤い瞳には、深く切ない苦痛と、痛烈な自己嫌悪が満ちていた。
「お嬢様は……あまりにも清らかで、眩しすぎる光です。過去の私を赦し、執事として『ジュリアン』という名前と温かな居場所を与えてくださった。……ですが! かつて私を死に損ないの殺戮兵器へと仕立て上げた旧き影……あの者たちは、私という過去が引き寄せてしまった最悪の毒なのです!」
ジュリアンは自らの指先を見つめ、固く拳を握り締め直した。
「奴らは……お嬢様の目の前で、私の怪物としての血と爪を暴き立て、あの温かな世界を破壊するつもりです。お嬢様が命をかけて築いてこられた穏やかで優しい日々に、私の過去の惨劇や毒殺の記憶が侵入し、その世界を汚してしまう……! 私という毒のせいで、お嬢様に危険と苦痛が及ぶことが……何より耐えがたいのです……っ!」
「だから、一人で毒を受け入れて影に消えるか、敵の条件に乗って己を犠牲にするつもりだったか」
アルディスの声に、氷のような冷たさが混ざる。
「……お嬢様の世界を汚すくらいならば、私が影の中に消えるべきなのです。最初から……私のような殺戮の暗器が、あの温かな陽だまりに居座り続けてよいはずがなかった……っ」
ガツン……ッ!!
一瞬の閃光とともに、鋭い氷の結晶がジュリアンの胸元を強打した。
「くっ……!?」
ジュリアンは衝撃に息を呑み、そのまま壁際まで後退した。
手から滑り落ちた漆黒の小瓶が石畳に転がり、直後にアルディスの放った凍結魔法によって一瞬で粉々に砕け散り、毒素ごと永久に凍結された。
「くだらん」
アルディスは容赦なく言い放った。その瞳に宿るのは、激怒ではなく、己の背中を任せる従者に対する圧倒的な信頼と力強い叱咤であった。
「お前はエルネの選択を愚弄しているのだ、ジュリアン」
「……何、ですと……?」
「エルネはお前の過去を知った上で、お前の手を握ったのだ。お前がどんな過去を背負っていようと、お前が『今のジュリアン』である限り、彼女の覚悟が揺らぐことなどない。それをお前自身が信じずに、一人で悲劇の劇を演じて何になる」
アルディスはジュリアンの胸元を鋭く指差した。
「お前は執事だろう。私とともに、あいつの笑顔と平穏を命がけで護ると誓った男だろう。過去から逃げるな。過去の亡霊どもに怯え、お前自身がエルネの手を解こうとしてどうする!」
「アルディス様……」
アルディスの言葉が、冷たい鉄槌となってジュリアンの迷いを力強く打ち砕いていく。
その時——。
「……アルディス様の仰る通りです、ジュリアンさん」
暗がりから、ランタンの温かな光が差し込んできた。
仮眠室から起きてきたエルネが、小さな足音を響かせて二人の元へと歩み寄ってきた。
その瞳には、大粒の涙が溜まっていたが、そこには一切の迷いも恐怖もなかった。
「お、お嬢様……起きていらっしゃったのですか……」
「……はい。全部、聞いていました」
エルネはすっとジュリアンの目の前まで進むと、背伸びをして、ジュリアンの胸元にそっとその小さな顔を寄せ、両腕で彼の腰をぎゅっと抱きしめた。
「お嬢……様……っ!?」
「ジュリアンさん……。私は、ジュリアンさんの過去を理由に、あなたから離れたりなんて絶対にしません!」
エルネの温かな体温と、優しいハーブの香りがジュリアンを包み込む。
「どんな恐ろしい人が来ようと、どんな過去を突きつけられようと……私の執事さんは、世界で一番優しくて、美味しいお茶を淹れてくれて、私を護ってくれるジュリアンさんです。それだけは、絶対に変わりません!」
エルネはジュリアンの胸に顔を埋めたまま、ぎゅっと抱きしめる力を強めた。
「ジュリアンさんがご自分の過去を悲しむなら、私がその分、たくさん温かな思い出を作ります。だから……一人でいなくなろうなんて思わないでください。ジュリアンさんは、私の……私たちの、大切な大切なご家族なんですから……っ!」
「お……お嬢様……っ……!!」
ジュリアンの瞳から、堪えていた熱い涙がポロポロと溢れ落ちた。
血に塗れた手。
毒に染まった過去。
それらをすべて包み込み、光の中へと繋ぎ止めてくれる、小さな主のあまりにも大きな温もり。
ジュリアンは震える手で、エルネの背中に優しく手を添えた。長年、己の胸を縛り続けていた過去の呪縛が、音を立てて解けていくのが分かった。
「……愚かな迷いをお見せいたしました、お嬢様……アルディス様」
ジュリアンは溢れる涙を拭うと、エルネの前で静かに片膝をつき、胸に手を当てて深く深く頭を下げた。
「私は……もう二度と迷いません。過去の影がどれほど襲いかかろうとも、この命が果てるまで、お嬢様の笑顔と温かな日常を護る『誓いの鋼糸』となってみせます」
その声には、かつての暗殺者としての冷酷さではなく、主への絶対なる忠誠と深い愛に満ちた、気品ある執事の覚悟が宿っていた。
傍らでその姿を見届けたアルディスが、満足そうに鼻を鳴らした。
「ふん……ようやくいつもの顔に戻ったな。行くぞ、ジュリアン。裏で糸を引く鼠どもに、ヴァルボート公爵家の執事を怒らせた代償を叩き込んでやる」
「ハッ……! 謹んで、お供いたします!」
不気味な暗雲は晴れ渡し、調合室には『深海銀真珠』と『月光海藻』が放つ澄み切った銀と青の光が、三人を温かく照らし出していた。
◇◇◇
大聖堂を包む夜霧の底で、かすかな金属擦過音が闇に溶けた。
「……ふふ、まさか私の仕掛けた『毒花糸』を、足音すら立てずに解いてしまうなんてねぇ」
裏回廊の陰影から、妖艶な薄絹を揺らして現れたのは妖毒のシェラであった。
だが、その瞳に浮かんでいた余裕の笑みは、闇の中から静かに滑り出してきた二つの影を目にした瞬間、ぴきりと凝固した。
洗練された燕尾服を纏い、指先から漆黒の鋼糸を放つジュリアン。
そして、その隣に立つのは、全身から絶対零度の殺気を放つ氷結公爵——アルディスであった。
「な……なぜ、ヴァルボート公爵がそこに……!? ジュリアン、貴方……まさか私を裏切ったの……!?」
「裏切る? 筋違いも甚だしいですね、シェラ教官」
ジュリアンの赤い瞳には、もはや一片の惑いも存在しなかった。完璧な執事の微笑みを唇に浮かべながら、その細い指先が幾重もの極細鋼糸を無音で手繰り寄せる。
「私は最初から、お嬢様の忠実なる執事でございます。過去の亡霊に怯え、あのお方の温かな世界を破滅させようとした愚かな自分は、先ほど我が主たちに打ち砕かれました」
「貴方……血迷ったの!? 自分の手で何千という人を殺してきた過去を暴かれてもいいというの!?」
「暴きたくば、いくらでも暴くがいい」
アルディスが冷ややかに割り込んだ。一歩踏み出すごとに、石造りの回廊が白銀の氷床へと変わり、シェラの足元を急速に凍てつかせていく。
「エルネはお前の過去を知った上で手を取った。その覚悟を……お前のような鼠の脅迫ごときで揺らぎはせん。……ジュリアン、手短に終わらせるぞ。エルネが目覚める前に、ネズミ掃除を完了させる」
「ハッ、仰せのままに……アルディス様」
シュバッ……!!
漆黒の鋼糸が夜風を切り裂き、同時にアルディスの氷の刃が空間を絶絶と氷結させていく。




