第6話 甘い悪夢と執事の迷い
調合室には、昼夜の区別すらない静寂が流れていた。
冷温箱から溢れ出る『深海銀真珠』の澄んだ銀光と、『月光海藻』の柔らかな青白い燐光。
二つの光が重なり合い、石造りの壁面には波底を思わせる神秘的な光の揺らぎ模様が映し出されている。
「——ふぅ……これで『深海銀真珠』の粉砕と魔力抽出の第一工程が完了しました」
エルネが額の汗を袖口でそっと拭い、小さく息を吐いた。
調合台の上では、透明感のある薄青色の薬液が、規則的な魔力の鼓動とともにゆらゆらと波打っている。
「見事です、エルネ様! この抽出速度なら、明朝には中和剤の核となる純結晶が得られますね」
ブラックが魔導氷結陣の出力を微調整しながら、感嘆の声を漏らした。
「ありがとうございます、ブラックさんが完璧な冷却を保ってくださっているおかげです」
「エルネ様にお褒めいただけるなんて光栄です!」
嬉しそうに微笑むブラックの横で、アルディスは腕を組んだまま、静かに地下室の入口付近へと鋭い視線を送っていた。
その視線の先、壁の影と同化するように佇んでいるのは、ジュリアンであった。
姿勢は普段と変わらず隙がなく、洗練された執事そのものの佇まい。しかし、アルディスはそのわずかな空気の重さを見逃さなかった。
ジュリアンの指先が、ほんの数ミリの狂いもなく揃えられたままで固まっている。
文字通りの石像のようだ。彼が何か強い葛藤や苦痛に耐えている時に見せる、無意識の癖であった。
「ジュリアン」
アルディスの低く掠れた声が、地下室の静寂を震わせた。
「……ハッ。何かご入用でしょうか、アルディス様」
ジュリアンは即座に気配を整え、滑らかな動作で頭を下げた。
寸分の狂いもない綺麗な礼。
だが、その声にはいつもの澄んだ透明感がなく、どこか氷の奥に沈んだような硬質さが混ざっていた。
「お前の淹れた茶が切れている。エルネに温かいハーブティーを淹れ直せ」
「……申し訳ございません。直ちに準備いたします」
ジュリアンは深く一礼すると、トレイを持って調合室の奥にある簡易厨房へと向かった。
その背中を見送りながら、アルディスは瞳をいっそう冷たく細めた。
◇◇◇
茶葉をポットに入れ、湯を注ぐ。
立ち上る蒸気とともに、カモミールと薄荷の穏やかな香りが鼻腔をくすぐる。
(……落ち着け。手元を乱すな……)
ジュリアンは己の胸にそう言い聞かせながら、銀のトレイの上に磁器のカップを並べた。
だが、燕尾服の胸ポケットに忍ばせた、あの冷たい小瓶、シェラから渡された漆黒の小瓶の存在が、皮膚を通して心臓を直接凍りつかせるように主張していた。
『調合室に忍び込み、あの海の素材とポーションの原液に、この毒薬を混ぜ込みなさい』
『過去の惨劇を目の前でぶちまけられたくなければ……言われた通りになさい』
シェラの粘りつくような声が、脳裏で何度もリフレインする。
(お嬢様の温かな世界を……私の過去で汚してしまうわけにはいかない……)
かつて、何の疑問も抱かずに人の命を奪う術を学んでいたこと。
幼い手で毒を練り、何百もの命を苦悶の中で無に変えてきたこと。
『最惨の烏』という忌むべき名で呼ばれ、暗黒街の者たちから怪物として恐れられていたこと。
(お嬢様は私の過去を知った上で包み込んでくださった……。けれど、シェラの手によってその醜い惨劇が目の前で暴かれ、お嬢様の平穏な日常が『私という毒』で侵されていくなんて……そんなこと、耐えられるはずがない……)
カチャン。
小さな音が響いた。
ジュリアンがトレイを手に取ろうとした瞬間、指先がわずかに震え、カップとトレイがぶつかり合ったのだ。
ほんの一瞬の手元の狂い。普段のジュリアンならば万に一つもあり得ない失態。
「……ジュリアンさん?」
背後から届いた柔らかな声に、ジュリアンの肩が跳ねた。
振り返ると、調合の合間に様子を見に来たエルネが、心配そうに瞳丸くして立ち尽くしていた。
「あ……お嬢様。お気にされず、このような場所まで……」
「ジュリアンさん、顔色がとても悪いです。……どこか、お体でも痛むのですか?」
エルネが小さな歩幅で近寄り、気遣うようにジュリアンの顔を覗き込んできた。
その透明感あふれる瞳。自分を純粋に信じ、頼りにしてくれる温かな光。
その光があまりにも眩しくて、ジュリアンは思わず視線を下へと背けてしまった。
「……いえ。お恥ずかしい限りですが、少々長旅の疲労が残っているようでございます。お嬢様にご心配をおかけするなど、執事失格でございますね」
「そんなこと言わないでください! ジュリアンさんは、私たちがベルツに着いてからもずっと眠らずに警護をしてくださっていたじゃないですか……!」
エルネは胸を痛めたように眉をひそめると、ジュリアンの大きな手を、両手でそっと包み込んだ。
「ジュリアンさんの手、こんなに冷たい……。お願いです、少しだけでも休んでください。調合のサポートはブラックさんも手伝ってくださっていますから……」
エルネの掌から伝わる、陽だまりのようなぬくもり。
それがジュリアンの凍てついた心を温めると同時に、強烈な罪悪感となって胸を突き刺した。
(この温かな手……。この綺麗な世界を、私はまた汚してしまうのだろうか。シェラの言う通り、私という存在そのものが毒で……この温もりを享受し続けること自体が間違いなのではないか……)
「……お嬢様」
「はい?」
「私は……もし、私が……」
言いかけて、ジュリアンは言葉を呑み込んだ。
何を言おうとしたのか。過去の影が迫っていることを告げようとしたのか。
それとも、お嬢様の日常を守るために去ることを告げようとしたのか。
自分の弱さと不甲斐なさに、ジュリアンは胸の奥で自嘲の笑みを漏らした。
「……いいえ。何でもございません。すぐにお茶をお持ちいたしますので、お席でお待ちくださいませ」
ジュリアンはそっとエルネの手を離すと、優雅で完璧なお辞儀をして見せた。
エルネはなおも心配そうにジュリアンを見つめていた。
「……無理は、絶対にしないでくださいね」
そういい残し、ゆっくりと調合台へ戻っていった。
取り残されたジュリアンは、静かに拳を握り締めた。手袋の布地がみしりと音を立てる。
(……どうすればいい。私は……どうすればお嬢様を、あの日常を守れる……)
◇◇◇
その夜、月が天空の頂点へと差し掛かる頃。
救護所の大聖堂全体が静寂に包まれ、病床の患者たちの寝息と、窓を叩く冷たい夜風の音だけが響いていた。
地下調合室では、作業を終えたエルネがアルディスの強い勧めで簡易ベッドで浅い眠りについていた。
地下室の暗がりの中、静かに影が動く。
ジュリアンであった。
彼は足音を完全に消し、調合台の上に乗せられた中和剤の原液試作瓶へと歩み寄った。
月光を受け、妖しく輝く薄青の薬液。
ジュリアンは胸元から、あの漆黒の小瓶を取り出した。
シェラの毒薬。
一滴混ぜるだけで、中和環の構造は崩壊し、人々に特効薬と偽って猛毒を撒き散らすことになる。そして、それを口にした者は内臓を激毒で焼き切られるだろう。
(……これを受け入れれば、お嬢様の前に過去の惨劇がぶちまけられることは防げるのかもしれない……。だが……)
小瓶を持つ指が、ガタガタと激しく震えた。
(そんなことをして守った自分に、何の価値がある……!? お嬢様の笑顔を奪い、その信頼を裏切って生き延びて……私は何のために執事となったのだ……!?)
「——迷っているようだな、ジュリアン」
不意に、暗闇の中から冷徹な低音が落ちてきた。
ジュリアンが弾かれたように振り向くと、そこには漆黒の長外套を羽織ったアルディスが、壁にもたれかかって立っていた。
その氷碧の瞳は、暗闇の中で妖しく澄み渡り、ジュリアンの手元にある小瓶を静かに射抜いていた。
「アルディス、様……」
「その不快な毒の匂い……回廊でネズミと接触した時から気づいていた。……いつまで一人でくだらん劇を演じているつもりだ」
アルディスがゆっくりと踏み出す。一歩刻むごとに、地下室の床がバリバリと凍りついていく。
ジュリアンは小瓶を握りしめたまま、言葉を失って立ち尽くした。
漆黒の暗雲が、二人の頭上を重く覆い尽くそうとしていた。




