第5話 忍び寄る甘美な影
朝陽がベルツの街並みを薄橙色に染め上げていく。
諸島連合の超大型魔導戦艦が、汽笛の音を残してベルツの港から離れていく。甲板の上では、レオンとルチアが、大聖堂の高台に立つエルネへ向けて大きく手を振っていた。
「エルネ! 僕たちは予定通り、オズワルド王の待つレグラリアへ急行する! 緊急会議で諸島連合として君たちの救援を全面的に支持すると約束するよ!」
「エルネ様! 秘薬素材はすべて置いていきましたわ! どうかご無事で……! 会議が終わりましたら、すぐに駆けつけますからね!」
二人の声が風に乗って届く。エルネもまた、感謝を込めて大きく手を振り返した。
「レオン様、ルチア様……! ありがとうございます! お気をつけて!」
アトランティクスの救援物資と温かな絆を残し、双子の王族は国境を超えて王都での外交戦へと向かっていった。
アトランティクス王国の軍艦から大聖堂の地下調合室へと、貴重な海の秘薬素材が次々と運び込まれていく。
重厚な冷温箱から立ち上る清涼な潮の香りと、銀色の柔らかな光芒。
それが、灰色の毒気と異臭に塗れていた救護所の空気を少しずつ清めていくようだった。
「エルネ様、温度管理はこちらの魔導氷結陣で維持いたしますわ。何か必要な物品があれば、私に何でも仰ってくださいね!」
「ブラックさん、助かります! 『深海銀真珠』は砕く直前まで冷やしておきたいので、その温度でお願いしますね!」
調合台の前で、エルネとブラックは息の合った掛け合いを見せながら、刻一刻と刻まれる時間と戦っていた。
エルネの指先からは七色の魔力光線が滑らかに伸び、特級万能鑑定の能力を用いて、極限の精度で素材の属性・純度・魔導伝導率を計測していく。
「ふむ……陸の『銀脈スズラン』と比べて、純度・活性ともに十二倍以上。これなら、毒素のコアを立体的に包み込む中和剤の強度を一段上の層まで引き上げられます!」
エルネの瞳に宿る、誇りと希望に満ちた強い輝き。その凛とした横顔を、アルディスは傍らで腕を組みながら、愛おしそうに見つめていた。
「見事だな、エルネ。……だが、根を詰めすぎるな。少しでも顔色が悪くなったら、即座に抱き上げて休ませるぞ」
「ふふ、大丈夫ですアルディス様。こんなに素晴らしい素材を前にして、疲れてなんていられません!」
「まったく、頼もしい婚約者殿だ」
アルディスは目元を緩めると、エルネの頭を優しく撫でた。
その光景を、調合室の影から静かに見守っていたジュリアンは、胸の奥に灯るような温かさを感じていた。
(……お嬢様の笑顔が、恐ろしい死の街に希望を取り戻しつつある)
かつて、血と泥と毒に塗れた闇の中でしか息を潜めることのできなかった自分。
人の命を奪うことだけを叩き込まれ、感情を殺して生きていた過去の自分。そんな自分に「ジュリアンさん」と温かく名前を呼び、柔らかな紅茶の香りと優しい居場所を与えてくれたのが、エルネであった。
(この方の光を……お嬢様の歩む温かな日常を破滅させようとする者は、何者であろうと許さない)
ジュリアンは燕尾服の袖口に隠された漆黒の鋼糸に触れ、無音で息を整えた。
「ジュリアン、外の警戒はどうなっている」
アルディスの低い声が掛かる。
「ハッ。軍医ブラック殿の指示のもと、帝国の兵士たちが大聖堂の周壁を二重に固めております。また、レオン殿下の連れて来られたアトランティクスの精鋭が港から大聖堂までの搬入路を完全に警護しておりますので、ネズミ一匹侵入することはできません」
「そうか。……だが、油断するな。街の薬草をことごとく壊滅させた手口、並の暗殺組織の技量ではない」
「重々承知いたしております。私自身、周囲の索敵の度合いを極限まで高めておきます」
ジュリアンは静かに一礼すると、気擦れの音一つ立てずに調合室を後にした。
◇◇◇
大聖堂の裏手に広がる、静まり返った回廊。
かつては聖歌隊の歌声や巡礼者の足音が響いていたであろう石造りの廊下は、今や分厚い黒灰の層に覆われ、静寂と腐敗の匂いに支配されていた。
カラカラ。
風が吹き抜け、壊れたステンドグラスの隙間から灰色の陽光が細い筋となって差し込んでいる。
ジュリアンは無言で歩を進めながら、感覚を研ぎ澄ませていた。
(不自然だ……)
足音が消えているのではない。空気が、重く沈殿している。
皮肉なことに、かつて暗殺組織の「最高傑作」とまで謳われたジュリアンの鋭敏すぎる皮膚感覚は、周囲の空間に混ざり込むわずかな歪みを瞬時に察知していた。
それは、大気中に舞う黒死灰の毒気とは異なり、もっと甘く、陰湿で、脳髄を痺れさせるような異質の毒香。
ジュリアンは脚を止め、ゆっくりと振り返った。
「……姿を現しなさい。姿を隠す手際が、少々古めかしいですよ」
静まり返った回廊に、ジュリアンの鈴を転がすような、冷たく澄んだ声が響く。
次の瞬間——。
「ふふ……あはははは……!」
壊れた柱の影、濃密な漆黒の陰影の中から、艶やかで粘りつくような女の笑い声が湧き出した。
紫煙のような薄絹がゆらりと揺れ、影の中から一人の美女が滑り出すように現れる。
蛇のようなうねりを持つ紫黒の長い髪、透き通るような白い肌。
そして、見る者の精神を狂わせるような妖艶な笑みを浮かべた、緋色の瞳。彼女が身に纏うドレスからは、甘く爛れた毒花のような香気が妖しく立ち上っていた。
暗殺組織『血天秤の蛇』において、毒殺と精神汚染の術式を司っていた幹部『妖毒のシェラ』であった。
「……久しぶりねぇ、私の最高にして最惨の作品……『烏』。ううん、今は『ジュリアン』と名乗っているのだったかしら?」
シェラは赤い唇を歪め、長くて鋭い爪を噛むようにしながら、熱っぽい視線でジュリアンを舐め回した。
「相変わらず綺麗なお顔……そして、その似合いもしない清廉な燕尾服。ふふ、可笑しすぎてお腹が痛くなってしまうわ。暗殺の天才である貴方が、人間の真似事をして執事ごっこ……? 冗談としては最高に質の悪い悪夢だわ」
ジュリアンの赤い瞳が、一切の感情を削ぎ落とした氷のガラスのように硬直した。
「……シェラ教官」
「あら、そう呼んでくれるの? 嬉しいわねぇ。貴方に毒の調合を教え、人の肉体がどのように腐り、どのように絶望して死んでいくかを叩き込んであげたのは、この私だもの。貴方の身体の隅々にまで染み付いた毒の作り方、殺しの作法……そのすべては私の愛の賜物よ?」
シェラは滑らかな動作で数歩踏み出し、ジュリアンとの距離を詰めた。
彼女の指先から垂れ落ちた一滴の紫色の毒液が、石畳の黒灰に触れた瞬間、ジュウと嫌な音を立てて石を溶かす。
「……何が目的ですか。この街の『黒死灰』……やはり、あなた方の仕業ですね」
「ふふ、察しが良くて助かるわ。そうよ、この『黒死灰』はね、我が組織が長年温めてきた最高の『作品』の実験なの。人間が体内から灰となって崩れ去る……なんて美しい絶望でしょう? それを、あの忌々しいヴァルボート公爵と、調合官の小娘が邪魔をしようとしている」
シェラの眼光が、一瞬で狂気に満ちた凶悪なものへと変貌した。
「許せないわぁ……! 私たちの芸術を、あんな青臭い娘のポーションごときで台無しにされるなんて! だからね、ジュリアン。貴方に『お仕事』をあげるために来たのよ」
シェラは妖艶に微笑み、細い指先をジュリアンの胸元、彼の心臓の位置へと突きつけた。
「その調合室に忍び込み、あの海の素材とポーションの原液に、この毒薬を混ぜ込みなさい。そして……隙を見て、あの氷結公爵の喉元をその鋼糸でかっさばくのよ」
「……断ると言ったら?」
ジュリアンの低く冷ややかな声。
シェラはくすくすと狂おしそうに笑うと、ジュリアンの耳元へ顔を寄せ、爛れた毒の息を吹きかけた。
「断る? ふふ、貴方にそんな選択肢があると思っているの? ……思い出してみなさいな、ジュリアン。貴方が幼い頃、最初に殺した人間の肉の感触を。貴方がその手で調合した毒で、何百、何千という人々を苦悶の果てに灰へと変えてきた過去を!」
「……っ」
ジュリアンの身体が、わずかに硬直した。
「貴方はいくら綺麗な服を着て、優しい言葉をかけてもらおうと……根底から『毒と血に染まった化物』なのよ。過去は消えないわ。貴方の本性は、人を殺すことだけに作られた暗器なの」
シェラの爪が、ジュリアンの頬を優しく撫でる。
その爪先からは、人の神経を麻痺させ、過去のトラウマを強制的にフラッシュバックさせる極微量の幻覚毒が滲み出ていた。
暗く不気味な記憶の奔流が、ジュリアンの脳裏を駆け巡る。
冷たい地下牢。
血の匂い。
叫び声。
毒の試飲をさせられ、喉をかきむしって死んでいった他の子供たちの姿。そして、己の手を真っ赤に染めて立ち尽くしていた、幼き日の自分の影——。
(……そうだ。私は……元より、影の中の住人だ……)
胸の奥を刺すような冷たい痛みが、ジュリアンの呼吸を浅くする。
「ふふ、思い出してきたでしょう? 貴方のその『光の居場所』なんて、ハリボテの偽物なのよ。あのおめでたい調合官の小娘や公爵が、貴方の本当の過去……何千人も殺してきた惨毒の怪物だと知ったら、どんな顔をするかしらねぇ?」
シェラの言葉は、一筋の毒針となってジュリアンの心の隙間に深く突き刺さった。
「『恐ろしい化物』と蔑まれて見捨てられるか、それとも汚らわしいものを見る目で排除されるか……ふふ、想像するだけでゾクゾクしないかしら? 過去をすべて暴かれたくなければ……言われた通りになさい。そうすれば、貴方の『正体』は黙っていてあげるわ」
シェラは悪魔のような笑みを浮かべると、小さな漆黒の小瓶をジュリアンの手に押し握らせた。
「さあ……選びなさい、ジュリアン。永遠に毒の住人として私と一緒に落ちていくか、それとも……あの大切な『お嬢様』に過去を暴露されて、絶望の中で捨てるか」
シェラの身体が、紫煙の霧となって揺らめき始める。
「今夜の月が頂点に達する頃までに、返事をもらうわ。楽しみにしているわね……私の可愛い烏ちゃん……」
煙が霧散し、シェラの気配が完全に消え去った。
後に残されたのは、不気味な静寂と、石畳に散らばる黒い灰。
そしてジュリアンの手に残された、冷たい漆黒の小瓶だけであった。
「……くっ……っ」
一人取り残された回廊で、ジュリアンは壁に背を預け、膝から崩れ落ちそうになる身体を必死で支えた。
手の中の小瓶が、重い鉛のように感じられる。
(……分かっていたはずだ……)
ジュリアンは自らの掌を見つめた。
薄い手袋に覆われたその指先は、どれほど洗っても落ちることのない、人の血と毒の匂いが染み付いているような錯覚に襲われる。
(お嬢様は……あまりにも温かく、眩しすぎる光だ。……私のような過去を持つ者が、あの温かなお傍にいてよいはずがない……)
もしも、自分の暗い過去がエルネの耳に入ったら。
もしも、自らが犯してきた惨劇の数々を知られたら。
エルネが自分に向けて見せる、あの花が咲くような優しい笑顔が……恐怖と嫌悪に引きつるのではないか。その想像だけで、ジュリアンの心臓は氷の刃で引き裂かれるような激痛に苛まれた。
(嫌だ……。お嬢様に……あの温かな目にだけは、拒絶されたくない……っ!)
ジュリアンは小瓶を強く握り締め、深く瞳を閉じた。
顔を上げれば、回廊の先には大聖堂の明かりが灯っている。
そこには、自分を信じ、お茶を嬉しそうに飲んでくれるエルネと、背中を任せてくれるアルディスがいる。
だが、自らの胸に蘇った過去のトラウマと、シェラの放った凶悪な脅迫は、漆黒の影となってジュリアンの心を冷たく蝕み始めていた。
「……私は……どうすれば……」
消え入るような呟きは、絶望の灰が舞う冷たい風の中に、むなしく消え去っていったのだった。
ジュリアンの周りにはシェラの残した甘美な毒の煙がまとわりつくように漂い続けていた。




