第4話 消えた薬草と海の双子(+プチ人物紹介②)
大聖堂の救護所に満ちていた絶望の空気が、かすかに揺らいでいた。
「——よし、これで第一段階の魔力鎮静剤のレシピ完成です!」
薄暗い調合室に、エルネの明るい声が響いた。
羊皮紙の上には、幾重もの円環と複雑な数式、そして『特級万能鑑定調合』によって解明された毒素の核を捉えるための構造図が、緻密なインクの筋となってびっしりと描かれている。
患者の体内で暴走する魔力を優しく鎮めつつ、毒素の核のみを立体的に包み込んで分解・昇華させる、エルネが考案した奇跡の調合術式であった。
「……素晴らしい。なんという美しさだ……! 毒素の魔力暴走そのものを触媒として利用し、逆位相の波長で中和するなど、帝国のどの薬学論文にも存在しない概念だ……!」
羊皮紙を覗き込んでいた軍医ブラックが、武者震いに身体を震わせ、感極まったように声を上げた。
目の下の隈は相変わらず色濃いものの、その瞳には失われていた情熱と希望の光が激しく燃え上がっている。
「これなら……これなら助かります! ベルツの街の患者たちを、全員救える……!」
「はい! ですがブラックさん、そのためには大量の薬品が必要です。銀脈スズランと蛇の目草。……集まりましたか?」
「幸い、ベルツは国境の貿易都市。大薬屋の倉庫や組合の備蓄庫には、十分な量の薬草が保管されていました! 順次運ばれます、今確認に行ってまいります!」
ブラックは勢いよく敬礼すると、弾かれたように調合室を飛び出していった。
その背中を見送り、エルネは小さく息を吐いた。長時間の集中による疲労で、ふらりと身体が揺れる。
「……無理をするな、エルネ」
倒れる前に、後ろから伸びた頑丈な腕がエルネの細い腰をすっぽりと抱きとめた。冷やりとした心地よい冷気と、凛とした香り。アルディスである。
「アルディス様……」
「徹夜で理論を組み立てていたのだろう。私の膝の上で休みなさい」
アルディスは当たり前のようにエルネを軽々と抱え上げると、近くの革張り椅子に腰掛け、己の広い膝の上に彼女を横向きに座らせた。そのまま大きな手でエルネの背中を優しく撫で、その首元に顎を寄せる。
「あ、アルディス様……ブラックさんや兵士の方々が戻ってこられますから、恥ずかしいです……っ」
「誰も見ておらん。仮に見られたところで、私の愛しい婚約者を労わって何が悪い」
「もう……っ」
顔を赤くしながらも、エルネはアルディスの胸の温もりにそっと身を預けた。彼の体温を感じていると、張り詰めていた緊張が解け、体の奥からじんわりと温かさが満ちてくる。
「お嬢様、ハーブティーをどうぞ。緊張を和らげるカモミールベースでございます」
洗練された動作で銀のトレイを差し出したのは、部屋の隅で気配を消していたジュリアンだった。
「ありがとうございます、ジュリアンさん」
エルネが小さな手でカップを受け取り、一口含む。果実のような甘い香りが鼻を抜け、疲れた体にしみわたっていく。
「ふふ、やっぱりジュリアンさんの淹れるお茶は、どんな時でも心を落ち着かせてくれますね」
「勿体なきお言葉。お嬢様の疲労を少しでも和らげることができるならば、執事としてこれ以上の喜びはございません」
ジュリアンは品格あふれる笑みを浮かべて頭を下げた。だが、その赤い瞳の奥には、かすかな警戒の陰りが潜んでいた。
(……静かすぎる)
ジュリアンは無音で視線を窓の外へ向けた。
街全体を包む灰色の静寂。表面上は沈黙しているが、大気の中に漂う毒気の揺らぎの中に、不吉な魔力の乱れが混ざっている。
(この街に蔓延する『黒死灰』が人為的な兵器であるならば……黒幕が、治療法の完成を黙って指をくわえて見ているはずがない。……必ず、動きを見せる)
ジュリアンが密かに漆黒の鋼糸の手入れを始めた、その時だった。
◇◇◇
「閣下! エルネ様……っ!!」
血相を変えたブラックが、猛スピードで部屋へと飛び込んできた。その顔は蒼白で、唇はガタガタと震えている。
「ブラックさん!? どうなさったのですか!?」
エルネがアルディスの膝の上から身を乗り出した。
「薬草が……街の薬草が、全滅です……っ!!」
「……何だと?」
アルディスの声が一瞬で氷のように冷たく凝固した。
「大薬屋の大型倉庫も、ギルドの保管庫も、さらには街の個人の薬局に至るまで……すべてが破壊されてしまいました! 備蓄されていた薬草も、外からは巧妙に隠されて気がつかず……。全て石や砂のような状態で。薬草だけではなく精油も、何者かによって腐臭を放つ黒い泥と化していたのです!!」
「そんな……っ!?」
エルネは目を見開いた。
「それだけではありません! ベルツ周辺の採取地や農園に生えていた薬草群落も、火を放たれたかのように黒く焼け野原になっておりました……! 街の中に存在する薬素材の九割以上が、完全に破壊尽くされたのです……!」
「……奴らめ。手回しだけは早いというわけか」
アルディスの瞳に、凍てつく殺意が灯る。
「つまり、治療法、レシピは完成しても、それを形にするための材料がこの街には一掴みも存在しない……そういうことですね」
ジュリアンが冷ややかに補足した。
「そ、そんな……! じゃあ、あんなに素晴らしい中和環の理論があるのに……患者さんたちを、助けられないのですか……!?」
ブラックが絶望に打ちひしがれ、両手で顔を覆って石畳に膝をついた。
「うそ…… 持参したものでは到底足りません! そんなの、あんまりです……っ」
エルネは胸が締め付けられ、苦しい顔つきになる。
救護所で苦しんでいた老人の顔、幼い子供の泣き声、灰となって消えていった命の残骸。目の前で失われようとしている命を救う術を手にしながら、材料がないという理不尽。
「……エルネ」
アルディスが抱きしめる腕に力を込め、彼女の頭を優しく胸元へ引き寄せた。
「落ち込むな。私が王都へ戻り、国中の薬草を力ずくでかき集めてこよう。私の氷結魔法で馬車ごと飛べば、半日もかからん」
「ダメです、アルディス様……! ベルツの患者さんたちの容態はひどいです。あと数時間が限界です、明日にはほとんどの人が……。 今から王都へ往復していたら、みんな灰になってしまいます……!」
エルネの瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私……私、悔しいです……! せっかくみんなで、ここまで頑張ったのに……っ!」
絶望の重圧が、調合室の空気を押し潰そうとしていた。
その時——。
ドーーン……ッ!!
腹底に響くような重厚な咆哮が、ベルツの街全体を震わせた。
それは、船の汽笛の音であった。
ブラックが驚愕して窓へ駆け寄る。
ベルツの東側には、巨大な運河を通じて海へとつながる貿易港が存在していた。だが、街の封鎖に伴い、港も完全に閉鎖されていたはずであった。
「ジュリアン、状況は?」
「ハッ……港の方向より、莫大な魔力反応。……ただ事ではございません」
アルディスとエルネ、そしてジュリアンたちは大聖堂を飛び出し、港を見下ろせる高台の広場へと向かった。
◇◇◇
港に漂っていた灰色の霧を切り裂くようにして、一隻の巨大な軍艦が姿を現した。
それは、エルネたちレグラリア王国の王国の船とも、ここガルディア帝国の船とも全く異なる異彩を放っていた。
船体は深海を思わせる瑠璃色に塗られ、純白の帆が靡いている。
海洋の王国アトランティクスの超大型高速魔導戦艦であった。
「諸島連合の旗艦……!? なぜ、あのような国の軍艦がこんな内陸の国境港に……!?」
ブラックが目を丸くする。
甲板の上に、幾重もの巨大な水紋魔法陣が浮かび上がった。激しい水煙とともに、船から清涼な水流の階段が地面へと滑らかに伸び、二人の人影が降り立った。
アトランティクス王国の王子レオンと、王女ルチアであった
二人揃って流れるような薄紫色の髪を持ち、その瞳は波のように揺らめく美しい翡翠色。
最高級のサテンと真珠の刺繍が施された異国の礼服を身に纏い、その姿はまるで海の精霊がそのまま人間の形をとったかのように可憐で、そして気品に満ち溢れていた。
「アトランティクスの双子王子と王女!?」
ブラックが驚きのあまり声も出ずに固まる。
レオンは不敵な笑みを浮かべると、背後の船員たちに向かって大きく手を振った。
「救援物資の搬出を開始しろ! エルネならきっとなんとかするまでだ!」
「「「オーーッ!!」」」
船員たちが次々と押し出してきたのは、巨大な重魔法冷温箱であった。箱が開かれると、周囲に漂う不快な死の熱気が吹き飛び、清涼な潮の香りと、神秘的な銀色の光芒が溢れ出した。
箱の中に敷き詰められていたのは、陸のどんな薬草よりも遥かに濃厚な魔力を放つ、海の秘薬素材——。
深海の底でのみ採集される最高級の魔導鉱石『深海銀真珠』。
そして、満月の夜にしか光を放たない幻の海草『月光海藻』であった。
そのほかにも大量の物資や薬草が運ばれていく。
「あ……あれは……っ!?」
エルネの瞳が、驚きに大きく見開かれた。
『特級万能鑑定調合』の知覚が、その素材の持つ圧倒的なスペックを瞬時に読み解く。
(すごい……! 『深海銀真珠』の持つ極冷の浄化磁力は、銀脈スズランの十倍以上……! 遥かに凌駕している……! これがあれば……これがあれば、なくなった薬草の代わりに、より強力な中和剤を組めるかもしれない……!!)
絶望から一転、奇跡の光を目の当たりにして感動の声を漏らした瞬間、アルディスがエルネをひょいと横抱きに抱え上げ、同時に傍らにいたジュリアンの首根っこを掴み上げた。
「ブラック医師、ここは任せた。あちらは私たちが預かる」
アルディスは足元に風と氷の魔法をかけ、一瞬で浮き上がると、港へ向かって急ぎ飛んで移動した。
「……え! 閣下!?」
ブラックが呆気にとられて下から叫ぶが、アルディスは取り合わない。
アルディスは足元に風と氷の魔力を一気に爆発させると、浮遊どころか矢のような速度で空を滑り、港へ向かって一直線に跳躍した。
「アルディス様! こんな無茶な移動をなさって……!」
風圧に耐えながら、アルディスにしっかりと抱き抱えられたエルネが必死に腕へしがみついて話す。
「レオン様とルチア様。助けに来てくれたんですね」
「そのようだ」
アルディスが短い感嘆を漏らす。
かつてアトランティクス王国を襲った『大穴事件』。地底から溢れ出た古代毒素によって王国全土が壊滅の危機に瀕した際、その根源たる悪の組織を追い詰め、奇跡の調合で大地を救ったのがエルネであり、圧倒的な氷結魔法で毒の噴出を凍てつかせたのがアルディスであった。
死線をともに潜り抜け、命を文字通り預け合った二人にとって、レオンとルチアは単なる他国の王族ではなく、揺るぎない絆で結ばれた「戦友」であり「大切な友達」であった。
「助かりました……! アトランティクスは豊かな海洋大国として薬草や物資も豊富です。さらにあの最新鋭の大型戦艦なら……!」
懸命に話すエルネの横で、アルディスに雑に引っ掴まれているジュリアンが、強風に顔を歪めながらボソリと呟く。
「……アルディス様、私に対する扱いがあまりに不当では……」
「降りるぞジュリアン、舌を切りたくなければ口を閉じろ」
アルディスは急降下しながら地面に鋭い氷柱の結晶を生み出し、それを踏み台にするようにして、ほとんど落下に近い速度で着地した。
投げ出されるように着地させられたジュリアンは、空中で華麗に一回転して無音で石畳に着地してみせ、エルネはアルディスの腕の中で安全に守られていた。
高所から降ってきた蒼い影と氷の柱に、港の船員たちがざわめく。
そして、突風とともに降り立った影に王女ルチアの視線が向いた瞬間、彼女はエルネの姿を見つけたのだった。
ルチアの翡翠色の瞳が、カッと激しく輝く。
「……あ、あの方……! 間違いありませんわ……!」
優雅なサテンのドレスの裾を放り出すようにして、ルチアは突風のような勢いでエルネへ向かって駆け寄ってきた。
「待て! ルチア! 危険だぞ!」
レオンの制止も聞かず、ルチアは氷の足元を物ともせずに進み、エルネの目の前でピタリと足を止めた。
そして、両手でエルネの小さな手をギュッと抱きしめるように握りしめた。
「エルネ! お久しぶりです! 私たちも助けに来ましたわ! 望むだけの素材を、どうぞこちらをお使いになって!」
後ろを指差し、運ばれていく物資を見せた。
作業していた船員たちも一斉に手を止め、かつて自分たちの国を崩壊の危機から救ってくれた「小さな聖女」エルネに向かって、敬意を込めて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます! ルチア様。薬草が何者かに破壊されてしまって……本当に困っていたのです」
エルネは潤んだ瞳でルチアの手をぎゅっと握り返した。
船後から追いついてきたレオン王子も、息を整えながら三人の元へ近づいてくる。
「何、礼には及ばないさ! このあとすぐにレグラリアに向かう予定だったんだ。オズワルド王と近隣諸国との緊急会議が開かれる手はずになっている。その道中、ベルツの封鎖を知って先に寄ってみて本当によかった!」
レオンは誇らしげに胸を張り、力強く笑ってみせた。
エルネの瞳に、再び圧倒的な希望の光が爆発的に燃え上がった。
絶望の淵に立たされた灰の街ベルツに、かつての死線を越えた友情と、海からの救世主がもたらした奇跡の光。
絶望を払いのける反撃の調合が、今まさに始まろうとしていたのだった。
| ブラック |
ガルディア帝国軍医/国境都市ベルツ救護所現場責任者
白衣の上に血と灰で汚れたエプロンを纏い、不眠不休で『黒死灰』の患者たちの治療に当たっている熱血かつ誠実な軍医。
| レオン |
海洋大国アトランティクス王国の第一王子
流れるような薄紫色の髪に、波のように揺らめく美しい翡翠色の瞳を持つ爽やかな青年。水流を纏う細身の双剣を背負う。
かつて本国を襲った『大穴事件』の際、エルネとアルディスとともに命がけで危機を乗り越えた「死線を共にした戦友・親友」。
| ルチア |
海洋大国アトランティクス王国の第一王女(レオンの双子の妹)
兄と同じ薄紫色の髪と翡翠色の瞳を持ち、海の精霊と見紛うほどの圧倒的な気品と可憐さを備えた美少女。意匠の細かい長杖を扱う。
大穴事件で国と民を救ってくれたエルネを「奇跡の調合官」「大好きな親友」として熱烈に慕っている。




