第3話 灰の降る街ベルツと若き軍医
王都を出発して三日。
重装甲の特別魔導馬車が国境を越え、ガルディア帝国の領域へと足を踏み入れた頃から、車窓の外の風景は目に見えて色彩を失っていった。
かつて数千もの商人が行き交い、繁栄を極めた国境都市ベルツ。
その外郭を囲む堅牢な城壁が見えてきた時、エルネの胸を突いたのは、異様なまでの寂寥感であった。
「……空が、灰色の雲で覆われています……」
膝の上に座らせたエルネの腰をしっかりと抱き寄せたまま、アルディスも静かに窓の外へ視線を向けた。
街道の左右に広がる田園地帯は枯れ果て、木々は葉を落として黒い骨組みのように寒空へ枝を伸ばしている。
何より異様なのは、大気に漂う不気味な薄墨色の粒子だ。風に乗って舞うそれは、粉雪のようでありながら雪よりも遥かに重く、湿り気を帯びて地面や馬車の屋根へ静かに積もっていく。
人間の肉体が崩壊し、粉砕された死の痕跡『黒死灰』。
「……空気の中に、歪んだ魔導毒素の微粒子が混ざっているな。エルネ、絶対に窓を開けてはならんぞ」
「はい、アルディス様……。でも、こんなに遠くまで毒気が広がっているなんて……」
エルネの瞳に、深い痛ましさが宿る。
馬車がベルツの南門へと近づくと、そこには重武装を固めたガルディア帝国軍の兵士たちが重々しい遮断柵を構築していた。
彼らは全員、防魔塗料の塗られた厚手の布地で鼻と口を厳重に覆い、怯えたような警戒の眼差しで街道を監視している。
御者台からジュリアンが手綱を引き、馬車を静かに停止させた。
「止まれ! これより先は封鎖領域だ! 帝国の許可なき者の立ち入りは——」
兵士の制止の声を遮るように、ジュリアンが懐から取り出したオズワルド国王の親書と、ガルディア帝室発行の特別通行証を提示する。
「王都より参りました、救援使節団でございます。主たるヴァルボート公爵閣下、および特級調合官・エルネ様をお連れいたしました」
「な……!? 王国の『絶対零度』の騎士公爵閣下と、噂の調合官だと!?」
兵士たちの間に動揺が走った。
重厚な門扉が重い音を立てて開かれ、馬車はゆっくりと封鎖された都市の内側へと進入していく。
門を潜り抜けた瞬間、エルネの息が詰まった。
街並みは美しく並び立っている。だが、人影は皆無に等しい。
石畳の路面は数センチもの厚さで黒灰に覆われ、歩くたびにジャリ、ジャリと不吉な音を立てる。
商店の窓は固く閉ざされ、路地裏からは時折、酷い咳き込みと絶望的な呻き声が漏れ聞こえていた。
静寂。街全体が、まるで巨大な墓標のように沈黙していた。
◇◇◇
馬車が辿り着いたのは、街の中央広場に面した巨大な大聖堂であった。
本来なら人々の祈りと安らぎの場であるはずの聖堂は、今や溢れ返る患者を収容するための臨時第一救護所へと姿を変えていた。
馬車の扉が開き、アルディスに抱きかかえられるようにしてエルネが地に足をつける。
三人は念のためと待たされた毒耐性の魔道具を身につけていた。
「……ひどい匂いです。腐臭と、焼き焦げたような苦い魔導臭が……」
エルネが眉をひそめたその時、大聖堂の重厚な観音扉が勢いよく開いた。
白衣の上に血と灰で汚れたレザーエプロンを纏った一人の若い男が、肩で息をしながら飛び出してきた。
整った目鼻立ちには深い疲労の色が刻まれ、目の下には濃い隈が落ちている。
帝国軍の医療徽章を胸に付けた男ベルツ救護所の総責任者、軍医ブラック・ヴァルナーであった。
「使節団の方々ですね! お待ちしておりました、私が現場の指揮を執るブラックです! ……しかし、王国から派遣された『特級調合官』とは……」
ブラックの早口な言葉が、ピタリと止まった。
彼の視線は、アルディスの隣に立つ可憐な少女。華奢な身体に、愛らしく整った幼い顔立ちのエルネへと注がれたのだ。
ブラックの瞳に、明らかな困惑と疑念が浮かび上がる。
「……まさか、その幼いお嬢さんが……? 冗談でしょう? 我々帝国の最先端医療チームでも解明できない『黒死灰』に対処するために、王国は子供を寄越したというのですか!?」
ブラックの声には、徹夜続きの焦燥と、期待を裏切られた苛立ちが露骨に混ざっていた。
「……口の聞き方に気をつけろ、非力な医者」
瞬時に大気が凍りついた。
アルディスの瞳から放たれた殺気が、鋭い氷柱となってブラックの喉元を突き穿つ。
冷気だけでブラックの皮膚が白く凍りつき、彼は息を詰まらせてその場に膝をつきそうになった。
「アルディス様、待ってください!」
エルネが慌ててアルディスの腕を引っ張り、その冷気を和らげる。
「すみません、アルディス様。……ブラックさん、あなたが疑うのも当然です。私はまだ若いですし、見ず知らずの国の人間ですから。でも……」
エルネは怯むことなくブラックの前に歩み寄り、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「一刻を争うのでしょう? 私に患者さんを見せてください。言葉で説明するより、私の調合でお見せした方が早いですから」
その瞳に宿る、圧倒的な芯の強さと神聖なまでの静けさ。ブラックは寒気とは異なるゾクリとした衝撃を背筋に覚え、思わず息を呑んだ。
「……わ、分かりました。こちらへ……!」
◇◇◇
大聖堂の内部は、まさに地獄絵図であった。
整然と並べられた簡易ベッドには、無数の患者たちが横たわり、苦悶の呻きを漏らしている。
足りないものは床に敷いた毛布の上に寝転がり、皮膚の表面には、まるで黒い痣のような不気味な斑点が浮き出ていた。
それが徐々に広がりながら肉体を削り取っていく。ベッドの隙間には、すでに完全に灰となって崩れ落ちた人間の残骸が、虚しく散らばっていた。
「ひどい……」
立ち込める死の熱気と劇毒の気配に、同行していた軍医や看護助手たちは青ざめ、口元を押さえている。
だが、エルネは顔色一つ変えず、ゆっくりと重症患者の一人のベッド脇へと膝をついた。
「おい、危険だ! 接触感染の可能性が——」
ブラックの制止を制し、エルネは素手で患者の冷たい手にそっと触れた。
「大丈夫ですよ……痛かったですね。もう大丈夫ですからね」
エルネが温かな声をかけると、苦しみに体を震わせていた老人が、かすかに目を開けた。
(鑑定眼発動)
エルネの瞳の奥で、琥珀色の光が輝きを始める。
彼女の知覚は瞬時に患者の体内に浸透し、細胞の隅々、魔力の血流の一つひとつへと張り巡らされた。
視界に広がるのは、人体の正常な魔力循環を強引に逆流させ、細胞内の熱量を無限に増幅させて肉体を灰へと変換する、悪魔のような術式毒素の構造体であった。
「……鑑定できました。やっぱり、これは病気ではありません」
エルネが静かに立ち上がり、振り返った。
「人間の魔力回路に直接干渉し、自己崩壊を起こさせる『魔導回路崩壊型の複合毒素』です。斑点は毒素が魔力節に滞留している証拠。この毒素は、大気中の微細な霊素と結びついて自己増殖しています」
「な……何だと!?」
ブラックが目を見開いた。
「我々がどれだけ解析魔法を使っても、単なる未知の病としか判定が出なかったのだぞ!? それを、手で触れただけで……魔導回路の暴走だと……!?」
「ええ。そして、だからこそ帝国の治癒魔法や万能薬、ポーションが効かなかったのです。一般的な治癒魔法は患者の魔力を活性化させますから、逆にこの毒素の増殖を加速させてしまっていたんです」
「な……なんだと……!? 治癒魔法が、逆効果だったというのか……!?」
ブラックの顔から血の気が引いた。自分が良かれと思って指示していた治療法が、患者の死を早めていたかもしれないという事実に、彼はガタガタと震え出した。
「自分を責めないでください、ブラックさん」
エルネはそっとブラックの袖を引っ張り、優しく微笑んだ。
「敵が極悪非道なだけです。構造さえ分かれば、対処できます。魔力操作の得意な方は手伝ってください。この毒素は『魔力の暴走』を引き起こすもの……ならば、暴走を一度完全に鎮静化させ、毒素の核を分解する『中和剤』を調合すればいいのです」
「ち、魔力中和剤? ……そんな高次な調合、この死の街の限られた材料で可能なのか!?」
「可能です。私を信じてください」
エルネは救護所全体を見渡すと、通る声で指示を出し始めた。
「ジュリアンさん、馬車から私の持ち運び用調合釜と、光輝草の抽出液を出してください! ブラックさん、街の薬局や保管庫に残っている『銀脈スズラン』と『蛇の目草』をできる限りかき集めてください! 1時間以内に第一段階の魔力鎮静薬を作ります!」
「は、はいっ!!」
ブラックは無意識のうちに敬礼し、弾かれたように走り出した。先ほどまでの疑念や蔑視は跡形もなく消え去っていた。
彼の胸を満たしていたのは、圧倒的な知識と技術、そして何より惨劇の渦中でも決して折れない少女への、深い敬意と感服であった。
「……ふん。調子のいい男だ」
アルディスが肘を組み、冷ややかな視線をブラックの背中に送る。
「アルディス様、焼きもちですか?」
エルネがクスクスと笑うと、アルディスはフイと顔を背け、エルネの頭を優しく撫でた。
「……当然だ。君の凄さを知るのは私だけで十分なのだ。……だが、よく言った、私の愛しい調合官」
「アルディス様……っ」
「君がこの街を救うというなら、私はそのための盾となろう。……好きにやりなさい、エルネ」
エルネは胸を熱くしながら力強く頷き、至高の調合官としての戦いへと一歩踏み出したのだった。




