第6話 地下シェルター
シルクは、ゼクスの隣に立つ青年へと視線を移した。
細身の体つきに、黒縁の眼鏡。長い青髪を後ろで束ねている。肩からは使い込まれた革鞄を提げ、腕にはガーダーを装着し、一本の杖を携えていた。
穏やかな物腰は戦士というより学者そのもので、その柔らかな笑みには、どこか人を安心させる不思議な力があった。
「その人は?」
ゼクスが一歩前へ出る。
「こっちはユーリ。王宮の魔術師だ」
どこか誇らしげに胸を張る。
「変化魔法にも詳しい」
その言葉に、シルクの耳がぴくりと動いた。
ユーリは軽く会釈する。
「よろしくお願いします、シルクさん」
「よろしく……お願いします」
慌てて頭を下げたシルクだったが、すぐに不思議そうな表情へ変わる。
じっとユーリの顔を見つめた。
「……あの」
首を傾げる。
「どこかで、お会いしましたっけ?」
その問いに、ユーリは少しだけ目を細めた。
懐かしい記憶を見つめるような、優しい微笑みだった。
「覚えていなくても無理はありません」
静かに首を横へ振る。
「まだ赤ん坊の頃でしたから」
「私が……赤ん坊の頃?」
目を丸くする。
驚きのあまり、狼の耳までぴんと立っていた。
ユーリは小さく笑う。
「歩きながら話しましょう」
三人は月明かりに照らされた森を歩き始めた。
夜風が枝葉を揺らし、木漏れ日となった月光が足元へ降り注ぐ。
静かな森には虫の声だけが響き、踏みしめる落ち葉がかすかな音を立てた。
やがて木々が途切れる。
その先には、かつてルナグレイヴ侯爵家が治めていた城跡が静かに横たわっていた。
崩れ落ちた石壁。
黒く焼け焦げた城門。
草に埋もれた石畳。
かつて人々の笑い声で満ちていた場所には、風が吹き抜ける音だけが残されている。
シルクは立ち止まり、静かに城跡を見つめた。
その横顔が、わずかに曇る。
そんな彼女を気遣うように、ユーリが穏やかな声で話し始めた。
「シルクさんのお母さん――ベル=ルナグレイヴさんは、私と同じ師匠の門下だったんです」
懐かしそうに城を見渡す。
「年齢は離れていましたが、弟のように可愛がっていただきました。ベルさんが王都にいた頃には、何度かシルクさんを抱かせてもらったこともあります」
「私を……?」
「ええ。まあ、覚えていないでしょうけどね」
驚いたようにユーリを見る。
「知りませんでした……」
やがて、小さく俯く。
「母が王都で魔法を学んだことは聞いていました。でも……その頃の話を聞く前に、全部……」
ユーリは何も言わず、小さく頷いた。
三人は崩れた石壁の奥へ進んでいく。
やがてユーリが、一枚の石の前で立ち止まった。
何気ない石壁の一部。
知らなければ誰も気にも留めないような、小さな石だった。
ユーリは迷うことなく、その石へ手を伸ばす。
ごとり。
石が奥へ沈み込んだ。
次の瞬間、地面の奥から低い振動が伝わってくる。
ガガガガガ……。
長い年月眠り続けていた仕掛けが目を覚ますように、鈍い音を響かせながら床の一部がゆっくりと横へ滑っていった。
土埃が舞い上がる。
その下から姿を現したのは、地下へ続く長い石階段だった。
「隠し階段!?」
ゼクスが思わず声を上げる。
「ユーリ、なんで知ってるんだよ!」
「ここ……私も知らない」
シルクも呆然と階段を見つめた。
暗闇へ続く石段へ目を落とし、かすかに眉を寄せる。
「ずっと、この城で育ったのに……」
一度、言葉を切った。
「どうして……お母さんは、私には教えてくれなかったんだろう」
その声には驚きだけでなく、戸惑いと寂しさが混じっていた。
ユーリは石壁へそっと手を添える。
まるで、昔の友人へ触れるように。
「ベルさんは、この場所のことを『万が一の時だけ使う場所』と呼んでいました」
静かな声が城跡へ溶けていく。
「昔、頼まれたんです」
「頼まれた?」
「もしルナグレイヴに何かあった時は――ここを開けてほしい、と」
シルクが息を呑んだ。
「だから……ユーリさんだけが?」
「ええ」
ユーリは小さく頷く。
「誰にも教えなかったそうです。シルクさんにも」
「……どうして」
ユーリは少しだけ考えてから、穏やかに答えた。
「あなたがここを必要とする日なんて、来てほしくなかったんでしょう」
シルクは何も言わなかった。
ただ、暗い階段を見つめていた。
狼の耳が、わずかに伏せられる。
「松明を持ってくる!」
ゼクスが踵を返そうとすると、ユーリは穏やかに首を横へ振った。
「大丈夫です」
「少し進めば灯りがあります」
「そこまで知ってんのかよ……」
「案内役ですから」
三人は階段を下り始める。
地下から吹き上がる空気はひんやりと冷たく、土と湿った石の匂いが鼻をくすぐった。
長い石段を一段ずつ踏みしめるたび、靴音だけが静かな地下へ反響する。
コツ……。
コツ……。
コツ……。
まるで誰かが奥で待っているかのように、音だけが何度も跳ね返ってきた。
暗闇はどこまでも続いている。
だが、しばらく進むと、その先に淡く揺れる青白い光が見え始めた。
「……なんだ?」
ゼクスは目を細める。
灯りというには柔らかく、炎とも違う。
まるで夜空の星が地下へ落ちてきたような、不思議な光だった。
三人は最後の階段を下りきる。
その瞬間。
目の前の景色が一気に開けた。
天井一面を覆う、無数の青白い鉱石。
幻想的な光は地下水へ映り込み、静かな水面に幾千もの星を散りばめている。
頭上にも。
足元にも。
まるで夜空そのものが洞窟へ閉じ込められたかのような光景が広がっていた。
地下水は澄み切った水路となって洞窟の奥へ流れ、さらさらという涼やかなせせらぎが静寂を優しく包み込んでいる。
戦争の傷跡が残る城の地下に、こんな美しい世界が眠っていたとは誰が想像できただろう。
ゼクスは思わず息を呑んだ。
「……綺麗だ」
隣で、シルクも小さく頷く。
けれど。
ユーリだけは、頭上の光を見ていなかった。
「……ありました」
「え?」
ゼクスが振り向く。
ユーリの視線は、洞窟のさらに奥へ向けられていた。
三人も、その先を見る。
青白い鉱石に照らされた幻想的な景色の最奥。
そこに一つだけ、自然の洞窟には似つかわしくない、古びた扉が立っていた。
シルクの知らなかった、母の秘密。
その痕跡が、滅びた城の地下で今も静かに息づいていた。




