第5話 月夜の再会
朝日が、王都の城壁を黄金色に染めていた。
夜明けの冷たい空気を切り裂くように、一頭の馬が街道を駆ける。石畳へ蹄が打ち付けられるたび、乾いた音が早朝の静かな街へ響いた。
手綱を握るゼクスは、城門だけを真っ直ぐ見据えている。
ルナグレイヴを発って二日。
狼煙を目印に調査隊と合流したあと、ゼクスだけが一足先に王都へ向かった。
疲れた馬を乗り継ぎながら昼も夜も走り続けた。馬の背で仮眠を取り、喉が渇けば水だけを流し込み、食事すら片手で済ませるような強行軍だった。
ようやく王都へ帰ってきた。
門番へ身分を示すと、そのまま城門をくぐり抜ける。
懐かしい石造りの街並みが目に入っても、足を止める気にはなれなかった。
今は、一刻も早く会わなければならない人物がいる。
♢
王宮魔術研究室には、香ばしいコーヒーの香りが漂っていた。
部屋の隅でコーヒーメーカーが、こぽこぽと静かな音を立てている。
魔術書と羊皮紙が山積みになった机を挟み、ゼクスとユーリは向かい合って座っていた。
話し終えたゼクスは、深く息を吐く。
「ここまでが、俺の見聞きしたことだ」
ユーリは静かにカップを持ち上げ、一口だけ口を付ける。
立ち上る湯気が眼鏡を薄く曇らせた。
やがてカップを机へ戻す。
コトリ、と小さな音が響いた。
「……なるほど」
研究室へ静寂が落ちた。
ユーリは目を閉じる。
考えを一つずつ整理しているのだろう。
やがて、ゆっくりと目を開いた。
「その変化魔法が、本当に彼女へ掛けられたものなら……私自身の目で確認したいことがあります」
「確認したいこと?」
「ええ」
ユーリは小さく頷いた。
「そういうことでしたら、私も協力しましょう」
あまりにもあっさりした返事に、ゼクスは思わず目を瞬かせた。
「珍しく話が早いな」
いつものユーリなら、安全性だの理論だのと長々説明してから動き出すはずだった。
ところが今回は違う。
迷いがない。
ユーリは少しだけ遠くを見るような目をした。
「昔の知り合いとの約束がありますから」
「……?」
ゼクスが眉をひそめる。
誰のことだ。
尋ねようとしたが、ユーリはそれ以上何も語らず、どこか懐かしむように微笑むだけだった。
♢
王都へ到着したその日のうちに、必要な準備を整えた。
そして翌朝。
ゼクスとユーリは馬車へ飛び乗り、再びルナグレイヴを目指した。
王都から四日。
ゼクスがシルクと別れてから、ちょうど七日目の夕方。
二人はルナグレイヴへ到着した。
かつて街があった場所から少し離れた平地には、調査隊の簡易キャンプが築かれていた。
いくつもの天幕が並び、その周囲を木杭による簡素な防壁が囲んでいる。見張り台には兵士が立ち、炊事場からは夕暮れの空へ細い煙が昇っていた。
ゼクスの姿を見つけると、兵士たちが一斉に声を上げる。
「坊ちゃん、ご無事で!」
「坊ちゃん、おかえりなさい!」
「おう。みんなもご苦労だったな」
ゼクスは片手を上げて応えた。
早馬で王都へ戻ったゼクスとは別行動で、調査隊はこの一週間、ルナグレイヴ周辺の調査と簡易拠点の設営を進めていたのだ。
「両手大剣じゃ、森では小回りが利かない。俺用の片手剣と盾を用意してくれ」
「承知しました」
「坊ちゃん、相変わらず武器を選びませんね」
それも、ゼクスのちょっとした特技だった。
片手剣、両手大剣、槍、弓、ボウガン。得手不得手こそあれ、大抵の武器なら一通り扱える。
「怪力だけじゃないんだぜ、こう見えて」
ほどなくして兵士が、片手剣と小ぶりな盾を運んできた。
ゼクスは剣を抜いて何度か軽く振り、重心を確かめる。続いて盾を左腕へ通し、身体を動かして取り回しに問題がないことを確認した。
「うん。これなら動きやすい」
鞘へ剣を戻したところで、ゼクスは空を見上げた。
夕暮れの空は、すでに茜色から藍色へ変わり始めている。
「悪い。本当はもう少し余裕を持って戻ってくるつもりだったんだけどな」
約束の時間まで、そう余裕はない。
「ユーリ。行けるか?」
「もちろんです」
ユーリは眼鏡を押し上げた。
「ここまで来て、待ってくれとは言いませんよ」
「よし。じゃあ――」
出発しようとした、その時だった。
「坊ちゃん」
「ん?」
呼び止められて振り返る。
そこには先ほど武器を運んできた兵士をはじめ、何人もの調査隊員が並んでいた。
何事かとゼクスが首を傾げる。
そして。
「坊ちゃん、ユーリ殿に――敬礼!」
号令とともに、兵士たちの姿勢が一斉に正された。
「…………」
ゼクスが目を瞬く。
「なんだよ、改まって」
いつもなら「坊ちゃん」と気軽に声を掛けてくる連中だ。突然かしこまられても、どう反応すればいいのか分からない。
すると、一人の兵士が敬礼したまま口を開いた。
「この一週間、俺たちは何度も魔物と交戦しました。それでも、ここにいる全員が無事に帰ってこられた」
「…………」
「自ら前線に立ちながら、俺たちに指示を出してくださった坊ちゃんのおかげです」
別の兵士も続ける。
「危なくなれば誰より先に駆けつけてくれましたし、退く時は必ず退路を作ってくれた。俺たちだけだったら、何人か欠けていたと思います」
「だから――ありがとうございました」
誰か一人ではない。
そこにいる兵士たち全員が、ゼクスとユーリへ敬礼していた。
「…………」
ゼクスは困ったように頬を掻く。
別に、感謝されたくてやったわけではない。
敵が来れば戦った。
危ない奴がいれば助けた。
退いた方がいいと思えば退かせた。
自分にとっては、それだけのことだった。
そんなゼクスの横で、ユーリが小さく笑う。
「坊ちゃんは自覚がないでしょうけど、兵士たちは感謝しているようですよ」
「……そうなの?」
「そういうところですよ」
「なんだよ、それ」
ゼクスは苦笑してから、もう一度兵士たちを見る。
少しだけ照れくさかった。
けれど、悪い気はしない。
「……ありがとな」
それだけ言って、いつものように片手を上げた。
「じゃあ――行ってくるよ」
「お気をつけて!」
「坊ちゃん、ちゃんと帰ってきてくださいよ!」
「分かってるって!」
兵士たちの声を背中に受けながら、ゼクスとユーリはキャンプを後にした。
♢
日が沈み、満月が森を青白く照らしていた。
調査隊のキャンプから、約束の場所まではそう遠くない。
だが――。
「ぜぇ……ぜぇ……坊ちゃん、少し休んでから行きましょう……」
切り株へ腰掛けたユーリが、肩で荒く息をしていた。
眼鏡はずれ落ちそうになり、額には汗が浮かんでいる。
ゼクスは呆れたように笑った。
「相変わらず体力ないなぁ。どっちが護衛か分からないぜ」
ユーリは乱れた呼吸を整えながら眼鏡を掛け直し、ふっと笑う。
「前衛の体力担当は坊ちゃん。僕はそれ以外の後衛担当ですよ」
「言い切ったな」
「役割分担です」
その一言に、ゼクスも苦笑するしかなかった。
二人は再び歩き出す。
やがて、森が少し開けた場所へ辿り着いた。
あの日。
白銀の狼と出会った場所だった。
ゼクスは立ち止まり、辺りを見渡す。
一週間前、半分だった月は、今夜は一つの円になって夜空へ浮かんでいる。
聞こえるのは、風に揺れる葉擦れと、どこかで鳴く虫の声だけ。
「あいつ……来るかな」
思わず独り言が漏れた。
約束はした。
けれど、あれから一週間。
この地にはまだ魔物が残っている。彼女の身に何も起きていない保証なんて、どこにもない。
それでも。
来てくれると、信じたかった。
雲の切れ間から満月の光が差し込み、静かな時間だけが流れていく。
すると、不意に茂みの奥で葉が揺れた。
ガサッ。
ゼクスとユーリが同時に顔を上げる。
月明かりを弾く白銀の毛並み。
森の奥から、一頭の巨大な白狼が静かに姿を現した。
赤い瞳が、真っ直ぐゼクスを見つめている。
次の瞬間、その身体が淡い光に包まれた。
光の粒が夜空へ舞い、四足の獣の姿がゆっくりと人の形へ変わっていく。
白銀の長い髪。
狼の耳。
ふわりと揺れる尾。
月夜の森へ降り立った獣人の少女は、ゼクスの姿を見つけると、張り詰めていた表情を緩めた。
「……ゼクス」
伏せ気味だった狼の耳が、ふっと立つ。
シルクは一歩、ゼクスへ向かって踏み出した。
だが――。
その隣に立つユーリへ気付き、ぴたりと足を止める。
狼の耳が再び警戒するように動いた。
その様子を見て、ゼクスはようやく胸の奥に溜め込んでいた息を吐き出した。
――来てくれた。
その事実だけで、張り詰めていた心が静かにほどけていく。
その隣で。
ユーリが、小さく息を呑んだ。
「……やはり」
「ん?」
ゼクスが振り向く。
だが、ユーリは答えない。
ただ懐かしいものを見るような目で、シルクを見つめていた。




