第4話 月下の約束
焚き火の炎が、少し小さくなっていた。
ゼクスは薪を一本放り込む。
ぱちり、と火の粉が舞い上がった。
向かいに座るシルクは、しばらく何も言わず、その炎を見つめていた。
先ほどまで震えていた肩は落ち着いている。
それでも、両手は膝の上で固く握られたままだった。
「……それからね」
やがて、シルクが口を開いた。
「父さんと母さんは、私を連れて逃げてくれた。でも……」
燃え盛る街路を、三人は走った。
崩れた建物を避け、避難所を目指して必死に駆け続ける。
背後からは魔物の咆哮。
地面を揺らす、いくつもの足音。
その距離は、少しずつ縮まっていた。
「……追いつかれた」
父が足を止めた。
剣を抜き、妻と娘を守るように魔物の群れへ立ちはだかる。
『俺が時間を稼ぐ!』
『あなた!』
『行け!』
父は振り返った。
恐怖なんて感じていないような――いつも畑で領民たちと笑っていた時と同じ、豪快な笑みを浮かべていた。
『シルクハティ!!』
名前を呼ばれ、シルクは振り返る。
『母さんの言うことを聞け!』
そして。
父は最後まで笑っていた。
『――生きろ!」
母に手を引かれ、シルクは走った。
何度も振り返った。
そのたびに父の背中が小さくなっていく。
やがて、魔物の群れに隠れて見えなくなった。
「それが……父さんを見た最後だった」
焚き火を見つめるシルクの声が震えた。
ゼクスは何も言わなかった。
ただ、続きを待った。
「それから母さんと逃げた。でも……もう、逃げ切れないって分かったんだと思う」
母はシルクを強く抱き寄せた。
胸元へ顔を押しつけられる。
幼い頃から何度も嗅いだ、懐かしい母の香り。
その身体は震えていた。
涙も流していた。
それでも、娘の前では笑っていた。
「母さんは……私に変化の魔法を掛けた」
足元に巨大な魔法陣が広がる。
淡い白色の光が立ち昇り、シルクの身体を包み込んでいった。
『大丈夫』
いつものように、母が頭を撫でる。
魔法が上手く使えた時。
ウサギの形に切ったリンゴを食べた時。
何度も自分へ触れてくれた、温かい手だった。
『あなたなら、生きられる』
「嫌だ……」
シルクの目から涙が溢れる。
「一緒に逃げようよ……母さん……!」
けれど母は、静かに首を横へ振った。
もう一度だけ、娘の髪を優しく撫でる。
『生きなさい』
その言葉を最後に――。
まばゆい光が、シルクの視界を埋め尽くした。
「――っ」
ぽたり。
涙が焚き火の前の土へ落ち、黒い染みを作った。
一粒。もう一粒。
堰を切ったように涙が溢れ出す。
ゼクスは静かに手を伸ばした。
無理に掴まない。
嫌なら、いつでも振りほどけるように。
震えるシルクの手へ、自分の手をそっと重ねる。
「……無理に全部話さなくていい」
大丈夫だとも。
いつか忘れられるとも。
ゼクスには言えなかった。
そんな言葉で、両親と故郷を失った痛みが消えるはずがない。
「つらかったよな」
それしか言えなかった。
けれど、今はそれでいいと思った。
しばらくして、シルクは手の甲で涙を拭った。
「……うん。少し落ち着いた」
赤くなった目をゼクスへ向ける。
「ありがとう」
ゼクスは小さく笑った。
少し離れた場所に、木々よりも高く突き出した大きな岩がある。
「向こうの岩、星がよく見えそうだ。行ってみるか?」
「……うん」
ゼクスは先によじ登り、シルクへ手を差し出した。シルクは一瞬その手を見つめてから、そっと重ねる。引き上げられた岩の上には、森の中とは違う風が吹いていた。
頭上には満天の星。
そして、“D”の文字を思わせる上弦の月。
半分だけ満ちた月が、シルクの白銀の髪を柔らかく照らしている。
「父さんも、母さんも……最後に言ったんだ」
シルクは月を見上げた。
「『生きろ』って」
獣へ変わった直後の記憶は、ひどく曖昧だった。
何日、森をさまよったのか。何を食べ、どこで眠ったのか。人の心さえ失い、ただ生き延びるためだけに走り続けていた。
「それから、ずっと狼の姿だった」
シルクは自分の手を見る。
「でも、月の光を浴びると……こうして人に近い姿になれるみたい」
「月の光?」
「うん。でも、どうしてなのかは分からない。自分で元の人間の姿に戻ることもできないし……」
シルク自身にも、この身体に何が起きているのか分からないのだろう。それでも、月の光を浴び、人の姿へ近づいた時、シルクは思い出した。
自分が誰なのか。
何を失ったのか。
そして最後に、何を託されたのか。
シルクは静かに立ち上がった。
白銀の尻尾が夜風に揺れる。
「だから、私は――」
赤い瞳に、半分だけ満ちた月が映る。
爪が掌へ食い込むほど、強く拳を握る。
「魔王を倒して」
一度、息を吸う。
「復讐する」
静かな声だった。けれど、その決意は叫びよりもはっきりと伝わった。
ゼクスも立ち上がる。
「シルク」
振り返った赤い瞳と、真っ直ぐに向き合う。
「復讐したって、ご両親は帰ってこない。君が幸せになれるとも限らない」
「……分かってる」
「本当なら、やめろって言うべきなんだろうな」
正しいことだけを言うなら、それが正解なのかもしれない。
けれど、家族を奪われた。故郷を奪われた。
その痛みを知った今、忘れろなどとゼクスには言えなかった。
「でも、俺は止めない」
シルクが目を見開く。
「君が魔王を倒したいっていうなら――俺にも手伝わせてくれ」
「……なんで?」
赤い瞳が揺れる。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「放っておけないから」
答えてから、ゼクスは首を傾げた。
「……いや」
違う。それだけじゃない。
初めて月の下で出会った時。
白銀の巨大狼が、月光を受けて輝いていた。
綺麗だと思った。
一目で心を奪われた。
けれど、今こうして隣に立ちたいと思う理由は、それだけではない。
故郷を失っても、前を向こうとする姿を見た。
両親を思って涙を流し、それでも託された命を抱えて生きようとする彼女を知った。
父と母の思い出を語る時には、あんなにも優しく笑うことを知った。
だから――。
「君のこと――」
狼の耳が、ぴくりと動いた。
ゼクスは赤い瞳を真っ直ぐに見つめる。
「好きになっちゃったんだよ」
「……え?」
シルクが目を見開いた。
白い頬が、耳元から少しずつ赤く染まっていく。言ってしまってから、ゼクス自身も急に恥ずかしくなった。
頭を掻きながら、照れ隠しに笑う。
「それにさ」
「……?」
「魔王をボコボコにぶん殴って、一泡吹かせた方がスッキリするだろ?」
「…………」
シルクが俯く。
肩が、小さく震え始めた。
「……ふ」
漏れたのは、泣き声ではなかった。
「あ!」
ゼクスは思わず指を差す。
「笑った」
シルクは頬を赤く染めたまま、照れくさそうに視線を逸らした。
「……変な人」
夜風が吹き抜けた。
少し離れた場所で、焚き火がぱちりと爆ぜる。
しばらく二人は、岩の上に並んで夜空を眺めていた。
やがてゼクスが、何かを思い出したように声を上げる。
「そうだ」
「……?」
「君に会わせたい人がいる」
脳裏に浮かんだのは、青髪を後ろで束ね、眼鏡を掛けた変わり者の魔術師だった。
「俺の知り合いの魔術師だ。変わり者だけど腕は確かだ。君に掛けられた魔法についても、何か分かるかもしれない」
シルクは少し考え、小さく頷いた。
「……でも、王都は遠いでしょう?」
「早馬なら往復できる。一週間あれば戻って来られる」
ゼクスは夜空を見上げた。
そこに浮かぶのは、“D”の文字を思わせる上弦の月。
「だから―― 一週間、つまり7日後」
シルクもつられるように月を見上げる。
「次の満月の夜。また、ここで会おう」
「……分かった」
やがてシルクはゼクスへ顔を向け、小さく笑った。
「約束ね」
「ああ」
二人の間に、半分だけ満ちた月の光が降り注ぐ。
今はまだ、それぞれ半分。
次に会う時には、月は一つの円になる。
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