第3話 世界の終わりが来た
焚き火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
赤く熾った薪の隙間から火の粉が舞い上がり、夜の闇へ吸い込まれていく。森を渡る風は冷たく、川で濡れたゼクスの服から容赦なく体温を奪っていたが、揺れる炎の熱に手をかざしているうちに、凍えていた指先にも少しずつ感覚が戻り始めていた。
焚き火を挟んだ向かいには、シルクが座っている。
白銀の長い髪が夜風になびき、狼の耳が風音を拾うように時折揺れる。火に照らされた赤い瞳は俯いたまま、燃え崩れていく薪をじっと見つめていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
ゼクスは話を急かさない。
先ほどまで彼女が見せていた涙も、憎しみも、軽い言葉で触れていいものではなかった。ただ炎の弾ける音を聞きながら、彼女が自分から話し始めるのを待つ。
やがてシルクが、静かに息を吸った。
「私のお父さんはね……昔から、街のみんなに好かれてたんだ」
「うん」
ゼクスが返したのは、それだけだった。
今は余計な言葉などいらない。慰めるでも、励ますでもなく、ただ彼女の声を受け止めればいい。
「農業に力を入れるんだって言って、種まきも収穫も真っ先に畑へ出てね。侯爵なのに、街の人たちと一緒になって泥だらけになるの」
思い出をたどるにつれて、シルクの声から少しずつ硬さが消えていった。
「休憩になると、今度はみんなと腕相撲ばっかりしてた。豪快で……子どもたちにも大人気だったんだよ」
炎を映す彼女の瞳が、遠い日の光景を見つめている。きっと今、彼女に見えているのはゼクスではない。父と笑い合い、家族と暮らしていた頃の故郷なのだ。
「収穫祭の日なんて、子どもを二人も肩車して街を歩いてた。降ろしてって言われても、まだ平気だって笑って……みんなも、それを見て笑ってた」
賑やかな音が聞こえてくるようだった。
広場に並ぶ穀物や果物。焼きたてのパンと香辛料の匂い。祝いの鐘が鳴る中を、子どもたちを肩へ乗せた大男が豪快に笑いながら歩いていく。
その後を追う幼いシルクも、きっと幸せそうに笑っていたのだろう。
「本当に、賑やかだった」
シルクの口元に、自然な笑みが浮かぶ。
「男らしくて、格好いい父さんじゃん」
「……うん」
少し照れくさそうに笑うその顔は、先ほどよりもずっと幼く見えた。
「お母さんは、魔法学校の先生だったの。私にも魔法を教えてくれてね。難しい魔法が使えるようになるたび、自分のことみたいに喜んでくれた」
シルクは焚き火へ小枝を一本くべる。
「『よく頑張ったね』って、いつも頭を撫でてくれたんだ」
懐かしそうに笑いながら、自分の頭へそっと手を添える。
「それとね。ルナグレイヴはリンゴが名産だったの」
「リンゴ?」
「うん。小さい頃は酸っぱくて苦手だったんだけど、お母さんがウサギさんの形に切ってくれて。それから食べられるようになったんだ」
赤く実ったリンゴ。
包丁を器用に動かし、あっという間にウサギの形へ切り分ける母。
皿の上に並んだ小さなウサギを頬張り、幼いシルクは驚いたように目を丸くする。
『美味しい?』
『……うん!』
母が嬉しそうに微笑む。
「私が大きくなっても、ウサギ型に切ってくれてたんだよね」
父と母のことを話すシルクは、よく笑った。
それだけで、ゼクスには分かった。
彼女は家族を愛していた。
この故郷が、本当に好きだったのだ。
――だけど。
「あの日……全部、壊された」
シルクの笑みが消えた。
市場に積まれていた真っ赤なリンゴが、荷車ごと横転する。石畳へ転がった一つを、魔物の足が踏み潰した。
ぐしゃり。
甘い果汁が、血と煤に汚れた石畳へ滲んでいく。
その日の空は、黒煙に覆われていた。
燃え盛る街から立ち上る煙が太陽を隠し、昼だというのに辺りは夕暮れのように薄暗い。建物が炎を噴き上げ、梁が焼け落ちるたび、腹の底まで響くような音が鳴った。
逃げ惑う人々。
泣き叫ぶ子ども。
怒号を上げながら剣を振るう兵士たち。
火と血の臭いが入り混じり、息をするたび喉が焼けた。
「ルナグレイヴ侯爵家は、旧魔王領との国境を守る盾だった。兵士たちも、決して弱くはなかった」
それでも――。
「圧倒的な数だった」
人よりも、魔物の方が多かった。
一体を倒しても、倒れた仲間を踏み越えて次が来る。空には翼を持つ怪物が群がり、城壁の外からは地響きを立てて巨大な魔獣が迫っていた。
「遠くからだったけど……あいつが魔王だって、一目で分かった」
黒煙の向こうに、巨大な黒い鎧が立っていた。
風になびく黒い外套。
人ならざる角を持つ、鬼神のような仮面。
何人もの側近を従えながら、その者自身は剣を抜くこともなく、ただ静かに戦場を眺めていた。
それだけだった。
ただそこに立っているだけなのに、周囲の空気が凍りついたように重くなる。肺が押し潰され、心臓を直接掴まれているような圧迫感に、シルクは息を吸うことすらできなかった。
「そこにいるだけで、空気が変わるの。息をするだけで精一杯だった」
『逃げろ――ッ!!』
兵士たちの叫びが響く。
逃げなければならない。
頭では分かっているのに、足が地面へ縫い付けられたように動かなかった。
「怖いとか……そんな言葉じゃ足りなかった」
ぱちり。
小さく爆ぜる焚き火の前で、シルクの肩が小さく震え始める。
「ただ……世界の終わりが来たって思った」
ゼクスはその震える手を見つめていた。
――そりゃ、許せるわけねぇよな。
ようやく分かった。
あのとき彼女が絞り出した「許せない」という言葉に、どれだけのものが詰まっていたのか。




