第2話 白銀に恋をした
白銀の狼の耳が、ぴくりと動いた。
赤い瞳がゼクスへ向けられる。
今の呟きが聞こえたのだろうか。
月光の下、しばし二つの視線が交わった。
先に動いたのは、オークだった。
「グオォォォ!!」
最も大柄な一体が雄叫びを上げ、斧を振りかぶる。
その瞬間、白銀の狼が地面を蹴った。
「――速っ」
そう思った時には、すでに姿が消えていた。
一閃。
白銀の爪が閃き、一体目の胸から鮮血が噴き出す。オークの巨体が倒れるより早く、狼は二体目の懐へ潜り込み、喉元へ牙を突き立てた。
残る一体が慌てて斧を振り下ろす。
狼はその一撃を軽々とかわし、前脚を横薙ぎに振るった。
ドンッ!!
オークの身体が地面から浮き上がり、背中から木の幹へ叩きつけられる。
それきり、動かなくなった。
「…………」
静寂が戻る。
すべてが終わるまで、ほんの数呼吸だった。
ゼクスは右手に泥を握ったまま、その光景を見つめていた。
強い。
三体程度なら自分でも倒せる。だが、ここまで一方的にはいかない。
それでも、ゼクスが目を奪われている理由は、その強さではなかった。
戦いを終えた白銀の狼は、倒れたオークには目もくれず、月光の中に静かに佇んでいる。
夜風が吹いた。
降り積もった雪のような毛並みが揺れ、銀色の波となって月明かりを返す。
猛獣のはずなのに、不思議と荒々しさを感じない。
むしろ――。
「……なんで、そんな寂しそうな目してるんだ?」
狼の耳が再び動いた。
赤い瞳が、真っ直ぐにゼクスを見る。
凶暴さは感じない。
警戒している。
けれど、それだけではなかった。
泣きそうな目だ。
そんなふうに見えた。
逃げるべきなのかもしれない。
武器はない。川へ流された身体には疲労も残っている。目の前の狼がその気になれば、抵抗する間もなく殺されるだろう。
それでも、不思議と逃げようとは思わなかった。
少なくとも、この狼は自分を助けてくれた。
「助かった。ありがとう」
言葉が通じるかは分からない。
それでも、礼くらいは言っておきたかった。
すると、狼がわずかに首を傾げた。
「……もしかして、分かってるのか?」
返事はない。
代わりに、白銀の身体から淡い光が溢れ出した。
「なんだ……?」
月と同じ青白い輝きが巨体を包み、雪のような光の粒が夜空へ舞い上がる。
ゼクスは目を見開いた。
巨大な輪郭が、光の中で変わっていく。
四足の身体がゆっくりと起き上がり、前脚は細い腕へ、後ろ脚はすらりとした脚へ変わる。長い口吻が縮み、柔らかな頬の線が現れ、頭部からほどけた光は白銀の長い髪となって背中へ流れ落ちていった。
頭には狼の耳が残り、腰の後ろでは太い尾が揺れている。衣服は失われることなく、変化した身体を覆っていた。
やがて、光が静まった。
「…………」
ゼクスは言葉を失った。
そこに立っていたのは、自分と同じ年頃の少女だった。
腰まで流れる白銀の髪。
透き通るような白い肌。
そして、先ほどと同じ赤い瞳。
獣の力強さを残しながら、その顔立ちには少女らしい柔らかさがある。
森の精霊が人の姿を借りて現れた。
そう言われても、今なら信じただろう。
胸の奥で、心臓が強く鳴った。
「……女の子だったのか」
我ながら、なんとも間抜けな第一声だった。
少女の眉が、わずかに動く。
その赤い瞳がゼクスの顔から身体へ、そして右手へ移った。
「ん?」
視線を追う。
「あ」
泥。
まだ握っていた。
ゼクスは慌てて手を開いた。ぬるりとした泥が、指の隙間から地面へ落ちる。
「違うぞ。これは君に投げようとしてたんじゃなくてな」
「…………」
「オークの目にこう、バッとやって、その隙に殴ろうかなって」
「…………」
「……余計に格好悪いな、これ」
少女の狼耳が、ほんの少しだけ動いた。
笑った――わけではない。
だが、先ほどまで張り詰めていた赤い瞳から、わずかに警戒が薄れた気がした。
ゼクスは咳払いをすると、ゆっくり両手を広げた。
今度こそ何も持っていない。
「俺の言葉……分かるか?」
少女はゼクスの顔と両手を見比べ、しばらくして小さく頷いた。
「この姿……なら……話せる」
「おお……!」
思わず声が出た。
久しく声を発していなかったのか、喉に引っかかるような掠れた声だった。それでも間違いなく、ゼクスにも理解できる言葉だ。
「よかった……」
胸に溜まっていた息を吐き出す。
話が通じる。
それだけのことが、今は妙に嬉しかった。
頭に残っていた知識を探る。
獣の特徴を持つ人々なら知っている。
「獣人族……なのか?」
セレスティア王国から遠く離れたワルズ首長国に暮らす種族だ。交流はほとんどなく、共通語を話せる者も少ないと聞いている。
だが、少女は答えなかった。
代わりに、赤い瞳を伏せる。
「……?」
何かまずいことを聞いただろうか。
ゼクスはそれ以上追及せず、胸へ手を当てた。
「俺はレイゼクスタ=デイスター。親しい奴からはゼクスって呼ばれてる」
一拍置いて、問いかける。
「君の名前は?」
少女は、すぐには答えなかった。
赤い瞳が伏せられ、狼の耳も力なく横へ倒れる。
ただ名前を尋ねただけだ。
なのに、その言葉で彼女の傷へ触れてしまった。
そんな気がした。
ゼクスは黙って待つ。
冷たい風が濡れた服を肌へ貼りつかせる。川の臭いに混じって、遠くから焼けた石と灰の臭いが流れてきた。
やがて、少女の唇が小さく震える。
「私は……」
一度、言葉を止めた。
それから覚悟を決めるように息を吸う。
「シルクハティ=ルナグレイヴ」
「…………」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「ルナグレイヴ……?」
知らないはずがない。
今日、自分たちが調査へ訪れた土地。
そして、魔王軍によって滅ぼされた侯爵家の名だ。
ゼクスは目の前の少女を見つめる。
白銀の髪。
狼の耳。
揺れる尾。
先ほどまで、巨大な狼の姿をしていた少女。
だが――ルナグレイヴ侯爵家の令嬢なら、人間のはずだ。
それが、なぜ白銀の狼に?
魔王軍に何かされたのか。
――呪い。
そんな言葉が頭をよぎった。
けれど、今の彼女に問いただせることではない。
少女――シルクは、ゆっくりと顔を上げた。
「この地を治めていた侯爵の娘――」
そこで声が途切れる。
シルクの視線が、森の向こうへ向けられた。
ゼクスもその先を見る。
木々の隙間から、黒く焼け焦げた城が見えた。
崩れた城壁。
炎に舐められ、半ばから折れた塔。
明かり一つないその姿は、夜の中に沈む巨大な墓標のようだった。
風に乗って、焼けた石と灰の臭いが流れてくる。
「……でした」
その一言だけで十分だった。
何があったのか。
聞かなくても、分かってしまった。
ゼクスは口を開きかけて、やめる。
大変だったな。
つらかっただろう。
そんな言葉が一瞬浮かんだが、どれも違う気がした。
今日、自分が目にしたものを思い出す。
焼けた麦畑。
瓦礫になった街。
水を失った噴水。
誰にも拾われることなく転がっていた、焼け焦げた子供の人形。
それが彼女にとっては、ついこの間までの日常だった。
何を言えばいい。
ゼクスには分からなかった。
シルクの両手が強く握り締められる。
爪が掌へ食い込み、噛み締めた唇から血が滲んだ。
「私は……」
悲しみも、怒りも、恐怖も押し込めるように俯いていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。
赤い瞳には、涙が溜まっていた。
それでも、彼女は目を逸らさない。
焼け落ちた城のさらに向こう。
故郷を奪った者がいるであろう闇を、真っ直ぐに見据えていた。
「故郷を滅ぼした魔王が――」
声が震える。
喉が詰まり、言葉が途切れかける。
それでもシルクは、飲み込まなかった。
「許せない」
シルクの叫びが森の静寂を切り裂いた。
堪えていた涙が赤い瞳からこぼれ、頬を伝う。
泣きながらも、彼女は前を向いていた。その瞳にあるのは絶望だけではない。すべてを奪われても消えない、強い意志だった。
ゼクスはただ、その姿を見つめた。
心を奪われたのは、月光に輝く白銀だけではない。
涙を流しながら、それでも前を向く。その強さを持つシルクという少女に、ゼクスは恋をした。




