第1話 運命なんて信じない
「ゼクス坊ちゃん。またサボりですか?」
「おう、ユーリ。コーヒーメーカー借りてるぞ」
「私の発明をまた勝手に……」
呆れた声を聞き流しながら、ゼクスは淹れたてのコーヒーを口へ運んだ。ほどよい苦味のあとに、ほのかな甘みが舌へ残り、満足そうに息を吐きながら、無造作に短く切った赤髪をかき上げる。
王宮魔術研究室には、いつ来ても独特の香りが漂っている。薬草に羊皮紙、実験に使う薬品、そして最近はユーリが開発したコーヒーメーカーから漂う香ばしい匂いまで加わった。
ゼクスにとっては、昔から馴染みのある場所だった。
ソファへ深く腰掛け、机の上に積まれた調査資料を片手でめくる。
その格好だけを見れば、王宮でくつろぐ貴族には見えないだろう。上等な礼服ではなく、動きやすいシャツとズボンに革のブーツ。近々、辺境へ向かう調査隊を率いることもあって、その装いは貴族というより冒険者に近い。
「昔から研究室に忍び込んでは、あれこれ触ってましたもんね」
青髪を後ろで束ね、眼鏡を掛けた青年――王宮魔術師ユーリが、実験器具を片付けながら苦笑する。
「懐かしい話だな。昔、王族秘伝の魔法書をお前のところに持ち込んだら、叔父上にこっぴどく怒られたしな」
「そんなこともありましたね。魔力が一切ない体質なのに、魔法への興味だけは誰よりありましたし」
「体質はどうにもならねぇさ」
ゼクスは苦笑して、もう一口コーヒーを飲む。
魔力がない。
公爵家の六男として生まれたゼクスにとって、それは幼い頃から何度も突きつけられてきた事実だった。
魔術師にはなれない。
どれだけ術式を勉強しても、自分で魔法を放つことはできない。
だったら――別のものを鍛えればいい。
「その結果、体力だけはバカみたいになりましたけどね」
「……って、護衛が主人にバカとか言うなよ」
「褒めてますよ」
「どこがだよ」
二人の笑い声が研究室へ響いた。
いつもなら、このまま取り留めのない話が続いていただろう。
だが、今日は違う。
ゼクスはカップを机へ置いた。
コトリ、と小さな音がする。
「――ルナグレイヴ侯爵領が滅んだ」
ユーリの手が止まった。
「……なんですと?」
「東の辺境。魔大陸に最も近いルナグレイヴだ。街も城も壊滅、生存者も確認できてない」
先ほどまでの穏やかな空気が消える。
ユーリは眼鏡の位置を直した。
「原因は?」
「魔物の大群。王都じゃ魔王復活の可能性まで出てる」
「魔王……。だとすれば、勇者を選定する神託が下るはずですが」
「まだ下ってないみたいだ。けど、魔王が本当に復活したなら、じきに動きがあるだろう」
ゼクスは手元の資料を閉じた。
「だから、俺は俺でできることをする」
「まさか……」
「ああ」
ソファから立ち上がる。
背丈は取り立てて高いわけではない。それでも、シャツ越しにも分かるほど鍛え込まれた肩や腕は、彼が貴族の子息というより前線に立つ戦士であることを物語っていた。
「俺が行く」
「ルナグレイヴへ?」
「王都から馬車で四日。早馬なら二日。近々、調査隊を率いて現地へ向かう」
ユーリが小さく息を吐く。
「坊ちゃんって、本当に厄介事へ飛び込むのが好きですね」
「兄貴たちは内政と外交で忙しいからな。こういうのは俺の仕事だ」
それに、報告書だけ眺めていても分からないことはある。
何が起きたのか。
誰か生き残っていないのか。
そして、本当に魔王が復活したのか。
自分の目で確かめるしかない。
「戻ったら相談させてくれ」
「分かりました」
ユーリはそう答えると、新しいコーヒーをカップへ注いだ。
「でも坊ちゃん」
「ん?」
「ある日突然、運命なんて変わるものですよ」
「なんだよ急に」
ユーリは人差し指を立て、ウインクする。
「勘です」
「勘なんて当たるかよ」
ゼクスは笑った。
この時は、本気でそう思っていた。
♢
辺境へ近づくにつれ、空気が変わっていった。
最初に気づいたのは、匂いだった。
煙と焼け焦げた木材。そして、風に混じって流れてくる灰。
ルナグレイヴ侯爵領へ到着した調査隊を待っていたのは、生き物の気配すら失われた死の大地だった。
「…………」
ゼクスは馬を止めた。
ルナグレイヴは魔大陸に近く、国境を守る重要拠点であると同時に、王国有数の穀倉地帯だった。
かつて一面に広がっていたはずの麦畑は焼き払われ、黒く炭化している。風が吹くたび、灰だけが舞い上がった。
街へ入っても、人の声は聞こえない。
家々は焼け落ち、通りには瓦礫が積み重なり、広場の噴水も砕けて水を失っている。
その足元には、焼け焦げた子供の人形だけが、誰にも拾われることなく転がっていた。
「……ひどい有様だな」
誰も答えなかった。
ゼクス自身、それ以上の言葉が見つからない。
報告書には『壊滅』と書かれていた。
たった二文字だ。
だが、実際に目の前へ広がる光景は、そんな言葉一つで片付けられるものではなかった。
「生存者を探す。小さな物音でも聞き逃すな」
「はっ!」
「魔物が残ってる可能性もある。単独行動は禁止だ」
調査隊が散開する。
ゼクスも馬を降り、街の奥へ進んだ。
唯一残された橋へ差しかかった、その時だった。
「魔物だ!」
空からガーゴイルが急降下し、街道脇の茂みからオークが飛び出した。
兵士たちの剣が一斉に抜かれる。
「やっぱり残ってやがったか」
ゼクスも背負っていた巨大な両手大剣を引き抜き、肩へ担いだ。
数は多い。
だが、この程度なら問題ない。
「どけどけどけぇぇぇ!!」
地面を蹴り、大剣を大きく振りかぶる。
「雷帝進軍!!」
ドゴォン!!
横薙ぎの一閃がオークたちをまとめて吹き飛ばし、その巨体が地面を転がっていく。
「坊ちゃん、流石です!」
「一人で俺たち全員より強い!」
「ネーミングセンス以外最強!」
「褒めてんのか貶してんのか、どっちだ!」
ゼクスが両手大剣を地面へ突き立てた、その瞬間だった。
「坊ちゃん! 左です!」
「ん?」
街道脇の茂みが激しく揺れる。
「伏兵だ!」
数匹のゴブリンが一斉に飛び出してきた。
「うおっ!?」
大剣を引き抜く暇はない。
なら――必要ない。
最初の一匹が振り下ろした棍棒をかわし、その顔面へ拳を叩き込む。
ゴッ!!
ゴブリンの身体が吹き飛んだ。
二匹目の槍を半身になってかわし、腹へ蹴りを叩き込む。続けて飛びかかってきた三匹目の首根っこを掴み、その勢いのまま地面へ叩きつけた。
「ったく、ぞろぞろ出てきやがって――」
「坊ちゃん! まだです!」
「え?」
茂みの奥に、杖を掲げる小さな影が見えた。
粗末なローブ。
手にした杖の先で、紫色の光が瞬く。
「ゴブリンメイジだ!」
「――混乱!」
「っ!?」
紫色の魔力が、ゼクスの頭を貫いた。
ぐらり、と世界が傾く。
「なんだ、これ……!」
右も左も分からない。
地面そのものが大きく波打っているように見え、立っているはずなのに身体が勝手に傾いていく。耳の奥を直接掻き回されているような不快感とともに平衡感覚が狂い、ゼクスは思わず片膝をついた。
「坊ちゃんが混乱を食らった!」
「破幻の指輪を使え!」
「坊ちゃん本人じゃ使えねえだろ! 誰か触れろ!」
「くそっ、こういう日に限ってユーリさんはいないのかよ!」
兵士たちが一斉に動く。
何人かが指輪を嵌めながらゼクスへ駆け寄ろうとするが、残ったゴブリンたちがその間へ割って入った。
「邪魔だ! どけ!」
剣戟の音が響く。
ゼクスも立ち上がろうと、足へ力を込めた。
「この……程度……!」
身体は動く。
拳だって握れる。
力なら、いくらでも残っている。
なのに――世界の方が言うことを聞かない。
一歩、踏み出す。
「坊ちゃん、そっちは――!」
「え?」
地面が、なかった。
混乱した視界では、そこにも橋が続いているように見えていた。
踏み出した足が空を切る。
「しまっ――」
身体が傾いた。
今度は幻覚ではない。
本当に、世界が反転した。
「坊ちゃぁぁぁん!!」
次の瞬間、激流が全身へ叩きつけられた。
冷たい水が肺へ入り、濁流が容赦なく身体を呑み込んでいく。
兵士たちの叫びだけが遠ざかり、ゼクスの意識は流れの中へ消えていった。
♢
「げほっ……!」
肺へ入った水を吐き出し、ゼクスは岸へ這い上がった。
どれほど流されたのか。
空にはすでに月が昇っている。
冷たい夜風が、濡れた服から容赦なく体温を奪っていった。
「……最悪だ」
辺りを見回す。
兵士たちの姿はない。声も聞こえない。
「思ったより流されたか」
完全にはぐれた。
夜の森を闇雲に歩く方が危険だろう。夜明けまで待って、狼煙を上げるしかない。
「ま、死んでないだけマシか」
そう呟いて立ち上がった時だった。
ガサリ。
茂みが揺れる。
「……また魔物か」
現れたのは三体のオークだった。
こちらを見るなり、下卑た笑みを浮かべる。
「やれやれ」
ゼクスは背中の鞘へ手を伸ばし――固まった。
「…………」
ない。
もう一度、背中を探る。
やっぱりない。
「……大剣、置いてきた」
正確には、橋へ突き立てたまま川へ落ちたのだ。
三体のオークを見る。
自分の手を見る。
もう一度、オークを見る。
「ま、いいか」
ゼクスは両手で拳を作り、軽くこづき合わせた。
「来いよ。俺は素手でもイケるクチなんだぜ?」
くい、くい、と両手で挑発する。
オークたちが怒りの声を上げた。
ゼクスも笑う。
「フフフ……」
もっとも、右手ではさりげなく泥を握っていた。
正面から三体同時は面倒だ。
まずは目潰し。
一匹ずつ引き剥がせれば勝てる。
卑怯?
知るか。
武器を持った三体に素手で囲まれているのは、こっちだ。
「さあ、どいつから――」
そこで、オークたちの様子がおかしいことに気づいた。
「……ん?」
誰もゼクスを見ていない。
三体とも動きを止め、その視線をゼクスの向こうへ向けていた。
唸り声まで消えている。
明らかに、怯えていた。
ゼクスは泥を握ったまま、ゆっくりと振り返る。
夜風が吹いた。
梢が揺れ、空を覆っていた雲が流れていく。
月光が森へ差し込んだ。
その光の中に――
一頭の白銀の狼が立っていた。
四つ足のままでも、その背はゼクスの胸元近くまである。太い四肢には鋭い爪が伸び、わずかに開いた口元からは、獲物を容易く噛み砕くだろう牙が覗いていた。
オークなどより、遥かに危険な猛獣。
そう理解しているはずなのに、恐怖より先に別の感情が胸へ落ちてきた。
雪よりもなお白い毛並みが月明かりを浴び、夜風に撫でられるたび、銀色の波となって揺れている。
荒々しいはずの獣が、まるで月光そのものを纏っているようだった。
心臓が、大きく脈打つ。
ゼクスは泥を握ったまま、その姿から目を離せない。
そして気づけば、言葉が口をついていた。
「……美しい」
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第一話、いかがだったでしょうか。
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