第38話 対局
訓練場の隅に置かれたテーブルへ、ゼクスとシエルは向かい合って座った。
その中央には、白と黒の駒が整然と並んでいる。
「では、私が白でよろしいですか?」
「どうぞ」
「先手をいただけるとは。後悔なさらないでくださいね」
シエルは楽しそうに笑うと、迷うことなく最初の駒を進めた。
序盤は静かだった。
互いに駒を展開し、中央を取り合う。
だが数手も進めば、シエルの棋風ははっきりと盤面へ現れ始めた。
「そこ、取っていいの?」
「もちろん」
ゼクスが訝しみながら、差し出されたポーンを取る。
直後。
「では、こちらをいただきます」
「あ」
別の駒が取られた。
シエルは平然としている。
「わざと食わせたな」
「戦場で、すべての兵を無傷で帰せると思いますか?」
「嫌なこと言うね」
「必要な犠牲です」
シエルの戦い方は苛烈だった。
一つを差し出し、二つを取る。
ときには価値の高い駒すら惜しげもなく切り、その代償として相手の陣形を崩していく。
駒の数で負けても構わない。
最後に王を詰めれば勝ち。
それがシエルのチェスだった。
「なるほどなあ」
ゼクスは盤面を眺めながら呟く。
「シエルって、結構怖い人だね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてないよ」
そう言いながら、ゼクスが駒へ手を伸ばした。
シエルはその指先を追い――眉をひそめる。
「…………」
動いたのは、キングだった。
「ゼクス坊ちゃん」
「ん?」
「今、王を動かしました?」
「動かしたけど」
「なぜ?」
「動かせるから」
「そういうことを聞いているのではありません」
思わずシエルの口調が崩れた。
序盤から王を動かせば、自ら安全圏へ逃がす手段まで失う。
ましてやゼクスの王は、守りを固めるどころか中央へ近づいていた。
「普通、王は守るものでしょう」
「うん」
「では、なぜ前へ?」
「王様が一番狙われるから」
シエルの手が止まった。
ゼクスは何でもないことのように盤面を見ている。
「一番狙われる駒がどこにいるか分かってたら、相手がどこへ来るかも分かりやすいだろ?」
「…………」
「だったら、そこに来る奴を待ち構えればいい」
シエルの瞳が細くなる。
――面白い。
「では――お望み通り」
シエルが攻勢に出た。
一つを捨てる。ゼクスが取る。
さらに一つを差し出し、その隙に別の駒を敵陣深くへ滑り込ませる。
王への道が開いた。
「いただきます」
「どうぞ」
ゼクスは逃げない。
それどころか、また王を動かした。
シエルから見れば絶好の位置。
あと少し。
包囲できる。
攻める。
さらに攻める。
シエルの駒がゼクスの王へ殺到し、その周囲を半円状に取り囲んでいく。
「逃げ道がなくなりますよ」
「うん」
「分かっているのですか?」
「もちろん」
シエルが次の駒へ指を伸ばし――。
止まった。
「……あら?」
ようやく気づいた。
王の周囲には、確かに逃げ道がない。
だが。自分の駒にも――退路がない。
王を討つため前へ前へと送り込んだシエルの駒。そのさらに外側を、ゼクスの駒が大きな弧を描くように囲んでいた。
「これ……」
「やっと入ってくれた」
ゼクスが笑った。
王を餌にしていたのだ。
シエルが王を包囲したのではない。
包囲させられた。
攻め込んできた駒を、そのさらに外側から包み込むために。
「自分の王を囮にしたんですか?」
「シエルなら絶対来ると思って」
「王を失えば、その時点で敗北ですよ」
「だから、その前に全部潰す」
あっけらかんと言う。
シエルは盤面を見つめた。
危険極まりない。
一手でも読み違えれば終わる。
敵を自陣深くまで引き込み、退路を狭め、その外側から包囲する。
成功すれば鮮やかだ。
だが失敗すれば、王もろとも崩壊する。
「……随分と恐ろしいことを考えますね」
「そう?」
「王自らが敵を引きつけ、その間に他の駒へ勝負を託す」
シエルは盤面から顔を上げた。
「自分が倒されるとは考えないのですか?」
「考えるよ」
意外な答えだった。
「だから、俺が倒される前に――」
ゼクスは自分の王を指先で軽く叩く。
「みんなが何とかしてくれる方に懸ける」
「…………」
「俺一人で全部やるより、その方が勝てそうじゃん」
シエルは思わずゼクスの顔を見た。
本人は笑っている。だが、その考え方は恐ろしいほど一貫していた。
自分だけで盤面を支配しようとはしない。
自分自身さえ一つの駒として盤上へ投げ込み、最後は仲間に勝負を託す。
「坊ちゃん。一つ聞いても?」
「なに?」
「実戦でも、自分を囮にしますか?」
ゼクスは少し考えた。
「それが一番勝てるなら」
そして、笑う。
「するよ」
「……なるほど」
シエルは盤面へ視線を戻した。
王の周囲を敵が囲み、そのさらに外側を味方が囲う。
まるで――欠けた月。
「『北神星』ですか」
「ん?」
「いえ。少しだけ、異名の意味が分かった気がしただけです」
シエルは次の一手へ指を伸ばしながら、口元に笑みを浮かべる。
「ですが、ゼクス坊ちゃん。戦場は盤上ほど素直ではありませんよ。人は駒と違って、迷いもすれば、恐怖も感じる」
「知ってる」
ゼクスは即答した。
「だから、人に懸けるんじゃん」
「…………」
「駒だったら、決められた通りに動かせばいい。でも人間は、自分で考えて、俺が思いつかないことまでやってくれるだろ?」
シエルの指が止まった。
「俺がやるのは、そいつらが迷わないように――勝てる方角を示すだけ」
数秒の沈黙。
「……ふふっ」
シエルは堪えきれず笑った。
「気に入りました」
「俺を?」
「その戦い方を、です」
「なんだ」
「なぜ残念そうなんです?」
シエルはさらりと流し、ゼクスへ右手を差し出した。
「今後ともよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
ゼクスもその手を握る。
するとシエルは、なぜかもう片方の手まで重ねようとして――。
「ていっ」
ぺしっ。
横からシルクの手刀が割って入った。
「ゼクス、デレデレしすぎ」
「……は、はい」
ゼクスは反射的に背筋を伸ばす。
シルクは人間の姿だというのに、そのままゼクスの腕へぎゅっとしがみつき、ジト目でシエルを睨んでいた。
「…………」
「…………」
ガルルルル……。
狼耳も牙もないはずなのに。
なぜか、そんな唸り声が聞こえてくる気がした。
◇
「シエル」
対局が終わったあと、カーサスが呆れたように声をかけた。
「ゼクス坊ちゃんたちを、あんまりからかうなよ」
「ええ、ごめんなさい」
シエルは素直に謝る。
そして、去っていくゼクスと、その腕にしがみついたままのシルクの背中を見つめ――。
ぐっと拳を握った。
「でも、あの二人……推せる!!」
「お前、そういう奴だったな……」
そして昼の刻。
決戦前日の作戦会議が始まった。




