第37話 泡沫の夢と北神星
シルクは、芝生の広がる丘の上に立っていた。
頭上には雲一つない青空が広がり、見渡す限り、建物も人影もない。風が草原を撫でる音だけが耳に届くその場所は、三日後に戦を控えている現実とは切り離されたように、不自然なほど穏やかだった。
「……ここ、どこ?」
辺りを見回していると、足元で柔らかなものが触れた。
銀色の小さな狼だった。
まだ子犬ほどの大きさしかない。ふわふわとした白銀の毛並みを揺らしながら、警戒する様子もなくシルクの脚へ身体を擦りつけてくる。
「あなた、ここの子?」
シルクがしゃがみ込むと、小さな狼は当然のように膝へ前脚をかけてきた。そのまま抱き上げて膝へ乗せると、嬉しそうに「くぅん」と鼻を鳴らす。
「あなたの名前は?」
「くぅん」
「ふむふむ。そうなんだ」
もちろん、何を言っているのかは分からない。
それでも不思議と、この子になら何でも話せるような気がした。
「……少し、愚痴らせてもらってもいい?」
小さな狼は返事の代わりに、自分の尻尾を追いかけて膝の上をくるくると回り始めた。
「私ね、自分のこと、あんまり好きじゃなくてさ」
尻尾を追いかけるのに飽きたのか、小さな狼がシルクの膝へ身体を預ける。
「お父さんとお母さんを殺されて、ずっと復讐したいって思ってる。今だって、あいつをこの手で倒したいって気持ちは変わってない」
その背中を、白い指先がゆっくり撫でる。
「なのに皆が優しいから、私まで優しい気持ちになっちゃう時があるんだ」
それが悪いことではないと、頭では分かっている。
けれど、怒りを忘れてしまうようで怖かった。
「ゼクスのことだってそう」
狼の頬を両手で挟み、わしゃわしゃと撫で回す。
「私のこと好きだって言ってくれて、すごく嬉しかった。それなのに私、その気持ちを利用して、一緒に復讐についてきてもらおうとしてる」
「くぅん?」
「本人はそれでいいって言ってくれたけどさ……」
今度は柔らかな頬を、むにゅーっと左右へ引っ張った。
「本当は私だって、ゼクスのこと好きなんだよ」
誰もいない夢の中だからこそ、その言葉は驚くほど素直に出てきた。
「他の女の人にデレデレしてたら、絶対許せないし」
小さな狼は解放された頬を前脚で掻くと、シルクの膝の上でごろんと仰向けになった。
「……でも、うまく言えないんだよね」
白銀の毛並みを撫でながら、シルクは困ったように笑った。
「結果だけ見れば、好きな人の気持ちを利用してる女だもん。自分の気持ちをちゃんと伝えられない自分が、嫌になる」
それでも。
いつか。
「全部終わったら、ちゃんと素直になりたいんだ」
小さな狼の頭を優しく撫でる。
「それまでよろしくね――“フェン”ちゃん」
「アオン!」
今度は、はっきりと返事が返ってきた。
◇
翌朝。
作戦会議までには、まだ少し時間があった。
ライボルトの騎士団駐屯地では、朝から木剣のぶつかり合う乾いた音が響いている。
その訓練場の中央で向かい合っているのは、ゼクスとカーサスだった。
二人が木剣を構える。
「始め!」
副官シエルの合図と同時に、カーサスが地面を蹴った。
「はああっ!」
巨体から繰り出された木剣が、ゼクスへ迫る。
速い。
だが、ゼクスはその軌道を最後まで見ていた。
(――ここだ!)
真正面から受け止めない。
身体を半歩ずらしながら木剣を斜めに当て、カーサスの力を横へ逃がす。その勢いを利用して剣を滑らせ、相手の木剣の一点へ力を叩き込んだ。
バキンッ!
カーサスの木剣が折れた。
「……お見事」
残った柄を眺めたカーサスは、すぐに豪快な笑みを浮かべた。
「さすがです、ゼクス坊ちゃん。イロハさんが鍛えただけはある」
「俺のこと知ってるの?」
「そりゃあ知ってますよ。公爵家の六男坊に、とんでもない武人がいるってのはデイスターじゃ有名な話ですから」
カーサスは折れた木剣を肩へ担ぐ。
「貴族の坊ちゃんのくせに、自分で調査隊を率いて危険地帯を歩き回ってるとか」
「貴族の坊ちゃんは余計だろ」
「坊ちゃんは坊ちゃんでしょう」
「それに――」
そこで、シエルが静かに会話へ入った。
「私が注目しているのは、個人の武勇ではありません」
「ん?」
「あなたの指揮能力です」
それまでの気さくな雰囲気とは少し違う。
シエルは真っ直ぐゼクスを見ていた。
「王都へ提出された調査隊の報告書には、私も目を通しています。あなたの部隊は何度も魔物と遭遇し、ときには想定を超える規模の戦闘にも巻き込まれている」
そこで一度、言葉を切る。
「にもかかわらず――これまで、あなたが指揮した調査隊から死者は一人も出ていない」
「…………」
「ですが、私が興味を持ったのは結果ではありません」
カーサスも口を挟まず、黙って聞いていた。
「戦闘能力の高い者なら珍しくありません。優れた作戦を立てられる者もいる。ですが――戦場では、最初に立てた作戦など簡単に崩れます」
敵の増援。
未知の魔物。
予想外の地形。
報告書に記された戦闘のいくつかを思い返すように、シエルは続けた。
「あなたは想定が外れるたび、迷わず作戦を捨てている。そして、その場にいる人間にできることを見極め、別の勝ち筋へ繋ぎ直す」
「……そんな大層なことしてるかな、俺」
「無自覚なら、なおさら厄介ですね」
シエルがわずかに笑った。
「どれほど盤面が乱れても、進むべき方角だけは見失わない」
そして、不意に両手を兜へ伸ばす。
金属が擦れる音とともに、それを持ち上げた。
長い金髪が、朝の光を受けてふわりと広がる。
現れたのは、思わず目を引かれるほど整った顔立ちだった。ただ、その頬からこめかみにかけては、古い火傷の痕が刻まれている。
シエルはそれを隠そうともせず、堂々とゼクスを見据えた。
「だから騎士団の一部では、あなたをこう呼ぶ者もいます」
その視線が、真っ直ぐゼクスを射抜く。
「――『北神星のゼクス』」
「北神星?」
「ええ」
シエルは空を見上げた。
「旅人が道に迷ったとき、進むべき方角を教える星」
そして再び、ゼクスを見る。
「あなた自身が勝利するからではありません。あなたがいると、周囲の人間まで進むべき方向を見失わない」
「…………」
「ゆえに――北神星」
「……へえ」
ゼクスの目が少し変わった。
剣の腕を褒められた時よりも、明らかに興味を持っている。
「いいな、それ」
「お気に召しましたか?」
「北神星だろ? 普通にカッコいいじゃん」
「そこですか……」
シエルが少し呆れたように笑った。
ゼクスとしては、それ以上でもそれ以下でもないらしい。
シエルは胸へ片手を当てた。
「改めまして。王国騎士団副団長兼、作戦参謀を務めます――シエルです」
そして、訓練場の端に置かれたテーブルへ目を向ける。
「チェスがお強いとも聞いております。作戦会議まで少々時間がありますし――一局、お手合わせ願えませんか?」
「いいよ」
ゼクスは即答した。
「ちょうど俺も、参謀殿には聞いてみたいことがあったんだ」
「奇遇ですね。私もです」
二人が並んでテーブルへ向かっていく。
「…………」
少し離れた場所からその様子を見ていたシルクの赤い瞳が、すっと細くなった。
夢の中で吐き出した本音が、脳裏をよぎる。
――他の女の人にデレデレしてたら、絶対許せないし。
ゼクスはデレデレしていない。
していないのだが。
シエルがゼクスを見る目。
チェスを前に、楽しそうに話し始めた二人。
そして何より――女の勘が告げていた。
(この人……もしかしてゼクスのこと――)




