第32話 獲物〜ターゲット〜
「……外、歩きながら話さない?」
シルクの申し出を受け、二人は寝巻きから着替えると、夜気を凌ぐための外套を羽織って宿を出た。
昼間なら商人や船乗りの声が飛び交っているはずのライボルトも、住民の避難が始まった今はひどく静かだった。二人は人気のない通りを抜け、そのまま海沿いの埠頭へ向かう。
聞こえてくるのは、波が岸壁を叩く音と、係留された船が時折きしむ音くらい。
海から吹きつける夜風には、鼻の奥へつんと残る潮の匂いが混じっていた。
「…………」
二人はしばらく何も話さず、並んで歩いた。
やがて埠頭の先まで来ると、建物に遮られていた視界が一気に開けた。
頭上には月。
そして、数え切れないほどの星々。
遮るもののない海の上では、夜空そのものがどこまでも続いているように見える。ルナグレイヴの森で見上げたあの夜は、木々に切り取られた上弦の月の下で、次の満月にまた会おうと約束した。
あの頃は、まだ出会ったばかりだった。
けれど今は、肩を並べて旅をしている。
二人は埠頭に置かれた木製のベンチを見つけ、並んで腰を下ろした。
ゼクスは潮風に揺れる赤髪を片手で押さえながら、何気なく夜空を見上げる。
「春の大三角がよく見えるな」
「春の大三角?」
「あれだよ」
ゼクスが夜空へ指を伸ばした。
「雷帝、獅子心王、黒鉄。あの三つの一等星を結ぶと――」
「あー、はいはい」
シルクが納得したように頷いた。
「例の必殺技ね」
「例のって言うなよ」
「だってシルフの森で聞いたもの。ゼクスの技って、星とか星座から取ってるんでしょ?」
「そうだけどさ。ちゃんと由来を知るともっとカッコいいぞ」
「はいはい」
「絶対興味ないだろ」
シルクがくすくす笑う。
「それで?」
「ほら、あそこ。三つ並んでる星があるだろ?」
ゼクスは懲りずに指先を動かした。
「あれが天狼座の三連星。北神星を挟んで反対側にあるのが霊峰座で、その一等星が巌窟王」
「天狼三連星と、連弾・巌窟王?」
「そうそう。ただ、そのまま使うのは捻りがないから、技名はちょっともじってる」
「変なところにこだわるよね、ゼクスって」
「大事なんだよ、こういうのは」
「ふふっ……そう」
呆れたように言いながらも、シルクは楽しそうだった。
ゼクスもそれ以上は反論せず、二人で星空を眺める。
波が寄せては返す。
潮風が二人の外套を揺らし、シルクの白銀の長髪をさらさらと夜の中へ流していく。
その横顔を見て、ゼクスは少しだけ安心した。昼間、セルレトを目にした時の青ざめた顔とは違う。少なくとも今は、こうして笑えている。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
「……私さ」
シルクの声が、波音に混じった。
「あいつを見た時……お父さんとお母さんの仇を見た時、本当に苦しかった。息ができなくなって、立ってることもできなくなって」
赤い瞳はゼクスではなく、遠くの海を見つめている。
「でもね」
シルクは外套の上から、自分の胸元をそっと押さえた。
「……良かったって思ったんだ」
「シルク……?」
思いがけない言葉だった。
ゼクスは隣を見る。
「私の中の怒りは、まだ消えてなかった」
その声は不思議なほど穏やかだった。
「あの日からずっと、ちゃんと燃え続けてくれてた」
ルナグレイヴを出てから、いろいろなことがあった。
ゼクスと出会い、ユーリと旅をして、一人では倒せなかった敵を三人で倒した。食事を囲み、くだらない話をして、笑うことも増えた。
シルクにとって、それは失ったと思っていた日常を少しずつ取り戻していく時間でもあった。
「皆と旅をして、一人じゃないって思えるようになった。それは……すごく嬉しいの」
膝の上で重ねたシルクの指先に、わずかに力が入る。
「だけど、皆が優しいからさ。毎日が楽しくなればなるほど、時々怖くなる」
「怖い?」
「うん」
シルクは小さく頷いた。
「このまま幸せになったら、お父さんとお母さんを殺された怒りまで、いつか風化しちゃうんじゃないかって」
ゼクスは何も言わなかった。
そんなことはない、と安易に否定することもしない。ただ、シルクが自分から続きを話すのを待った。
「だから今日、あいつを見た時は苦しかった。怖かった。身体が勝手に震えて、何もできなくなった」
そこでシルクは、ようやくゼクスへ顔を向けた。
赤い瞳には、まだ恐怖が残っている。
けれど、それだけではない。
「でも――安心した」
あの日から胸の奥で燃え続けていたものは、消えていなかった。
「あいつは私の獲物」
その言葉だけは、静かな夜にはっきりと響いた。
「それだけは譲れない」




