第31話 封印していた記憶
その名を口にした瞬間だった。
これまで心の奥底へ封じ込められていた記憶が、堰を切ったように溢れ出した。
『生きなさい』
母の声。
身体を包み込む、眩い光。
変身魔法によって狼の姿へ変えられ、燃え盛るルナグレイヴから逃がされた、あの日の記憶。
シルクは走った。母に言われた通り、生きるために必死に走った。それでも途中で一度だけ振り返ってしまった。
遠くに見えた父と母。
その二人へ襲いかかる、魔族たち。
そして――。
血に濡れた顔。
あの男が、いた。
「……うぅっ!」
シルクの顔から血の気が引き、その場へ膝をついた。震える両腕で自分の身体を抱き締めるようにして俯くが、浅く乱れた呼吸は一向に戻らない。
「シルク!」
ゼクスはすぐさま駆け寄ると、シルクの前へ膝をついた。
「落ち着いて。俺の顔を見て」
「……ゼク、ス……」
「大丈夫。まずは深呼吸しよう。ゆっくりでいいから」
ゼクスはそれ以上問い詰めることなく、ただ目の前にいる自分へ意識を向けさせる。シルクは何度か浅い呼吸を繰り返したあと、ようやくゼクスに合わせるように息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
その様子を見守っていたユーリも、険しい表情で眼鏡の位置を直す。
「……突然、封じ込めていた記憶が蘇って、混乱しているのでしょう。今日はもう日も暮れます。ひとまず宿へ移動しましょう」
デニムスの手配によって、その日はライボルト市内にある宿舎を一棟、そのまま借り受けることになった。
もっとも、宿泊場所に困る状況ではなかった。魔王軍から最後通告を受けたことで住民たちの避難はすでに始まっており、普段なら商人や船乗りで賑わっている宿にも、今はいくらでも空き部屋がある。
それ自体が、ライボルトに迫る戦いを物語っているようだった。
日が沈む頃には、シルクも寝室へ運ばれていた。
「横にはなってるわ」
様子を見に行っていたイロハが、静かに扉を閉めて戻ってくる。
「でも、晩御飯は……いらないって」
「思っていたより、悪い展開ね」
封神剣に腰掛けたスカイアの分身体も、いつもの軽い調子を潜めていた。
「あの子はこれまで戦ってきたとはいっても、直接の仇と向き合ったことはなかった。」
「ずっと心の奥へ押し込めていたものを、いきなり目の前へ突きつけられたのよ。今はかなり精神的に弱っていると思う」
ユーリは何も言わず、シルクのいる部屋を見つめていた。
(……ベル姉さん)
セルレトは、シルクだけの仇ではない。
ユーリにとっても、大切な人を奪った相手だった。
(ヤツは、僕にとっても仇だ)
胸の奥に湧き上がる感情を、静かに押し込める。
(だからこそ――あなたたちが命を懸けて生かしたシルクのために、僕は戦います)
「今日はもう休もう、ユーリ」
ゼクスの声に、ユーリは顔を上げた。
「それと明日の朝、シルクが食べられそうなもの作ってやってくれよ」
ゼクスは少しだけ笑う。
「朝飯、よろしくな」
「承知しました、坊ちゃん」
ユーリもいつもの穏やかな笑みを返した。
その日は、それぞれ早めに部屋へ引き上げることになった。
そして、その夜。
ゼクスが自室で休もうとしていると、控えめに扉を叩く音がした。
こん、こん。
「ん?」
扉を開ける。
そこに立っていたのは、寝巻き姿のシルクだった。
背中へ流れる白銀の長髪はいつものように整えられておらず、赤い瞳にもまだ不安の色が残っている。それでも昼間のように取り乱してはいなかった。
シルクは胸元で両手を握り、少しだけ俯く。
「ゼクス……」
やがて、おそるおそる顔を上げた。
「……いいかな?」




