第30話 安寧のセルレト
『私は魔王軍幹部、四災害――“安寧”のセルレト』
ライボルトの空を覆う巨大な映像の中で、男は穏やかに名乗った。
『人間の皆様。貿易都市ライボルトを受け渡す準備は、できましたでしょうか?』
腰まで届く黒い長髪に、すらりと尖った耳。肌は白く、顔立ちも恐ろしいほど端正に整っている。頭部から伸びる魔族特有の角さえなければ、エルフだと言われても疑わなかっただろう。
だが、違う。
魔族。
それは、この世界における人類の天敵だった。
その定義は極めて単純であり、それゆえに救いがない。人を食べる種族――それが魔族である。
彼らは人の言葉を理解し、笑い、冗談を口にし、ときには友好的に振る舞うことすらある。しかし、人間との対話によって友情や信頼を築こうとしているわけではない。彼らにとって言葉とは、人間を欺き、油断させ、より容易に捕食するための手段に過ぎなかった。
知力も、膂力も、寿命も、人間を遥かに上回る。
しかも、吸血鬼のように太陽という分かりやすい弱点すらない。彼らは人間と同じように日の光の下を歩き、人間より遥かに強い肉体で、人間の社会へ紛れ込むことさえできる。
セルレトもまた、その一人だった。
『街を明け渡すのであれば、私たちはライボルトの市民を襲いません』
脅迫しているとは思えないほど、その声は穏やかだった。
『三日後。その返答を待つことにしましょう』
口元に柔和な笑みを浮かべる。
『良き返事を期待しております』
セルレトは丁寧に一礼した。
直後、空を覆っていた巨大な映像が薄れていき、何事もなかったかのように青空が戻ってくる。
しばし、誰も言葉を発しなかった。
「……なんか、拍子抜けだな」
最初に口を開いたのはゼクスだった。
警戒を解いたわけではない。ただ、想像していた魔王軍幹部とはあまりにも印象が違う。
「もっとこう……見るからに強そうな奴が出てくるのかと思ってた」
その時だった。
「――っ」
隣から、小さく息を呑む音がした。
ゼクスが振り向く。
「……シルク?」
返事はない。
シルクは先ほどまでセルレトが映っていた空を、ただ見つめていた。
赤い瞳が大きく見開かれている。
喉が、ひゅっと鳴った。
呼吸が浅い。何度息を吸い込んでも、肺に空気が入っていかない。視界がぐらりと揺れ、足元から力が抜けていく。
白い指先が震えていた。
やがて震えは腕へ、肩へと伝わり、全身が小刻みに揺れ始める。
「おい、シルク……?」
「……“安寧”の、セルレト」
掠れた声だった。
ゼクスの表情から笑みが消える。
シルクは震える手を胸元へ押し当てたまま、どうにか言葉を絞り出す。
「……この男が」
一度、言葉が途切れた。
そして。
「私のお父さんと、お母さんを――」
赤い瞳が、恐怖に揺れる。
「殺して、食べた」
空気が凍りついた。




