第23話 剣神・神風
テンペストを発ってから数日。
馬車を乗り継ぎ、見慣れた王都デイスターの城壁をくぐった頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。
石畳を踏む馬車の車輪の音に、仕事を終えて家路を急ぐ人々のざわめきが重なり、通りに並ぶ店の軒先からは夕餉の香りが漂ってくる。
久しぶりに戻ってきた王都の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ゼクスは大きく伸びをした。
「よし。まずは我が拠点、ユーリの研究室に向かうか」
「坊ちゃん」
隣を歩いていたユーリが、眼鏡の位置を直しながら半眼になる。長い青髪はいつものように後ろで束ねられ、学者然としたシャツとパンツの上から外套を羽織っていた。
「完全に私物化してますよね。私の研究室」
「細かいこと気にすんなって」
「私の職場なんですが」
そんなやり取りを交わしながら、三人は王宮魔術研究室へ向かった。
そして――。
「ん?」
研究室の前に、一人の女性が立っていた。
背丈はシルクより少し高いだろうか。身体を包むのは動きやすさを重視したプロテクター型の軽鎧で、その上から旅慣れたマントを羽織り、腰には一本の剣を提げている。
四年前に見た少女の面影は残っているが、もう女子学生には見えなかった。
黒髪のボブカットには鮮やかな緑色のインナーカラーが入り、夕暮れの光を受けるたび、髪の内側から翠色が覗く。それ以上にゼクスの目を引いたのは、剣を腰に提げて立つ姿に、以前はなかった隙のなさが滲んでいることだった。
四年という時間が、確かに彼女を一人の冒険者へと変えている。
その女性がこちらを振り向き、ユーリを見つけた瞬間、ぱあっと顔を輝かせた。
「ユーリさぁん!」
「……イロハさん!?」
ユーリの声が裏返った。
女性――イロハが満面の笑みを浮かべ、両腕を広げながら勢いよくユーリへ駆け寄ってくる。
一歩、二歩。
『ステイよ、イロハ』
「おっと、危ない」
その声が響いた瞬間、イロハは踏み込もうとした足をぴたりと止めた。
『まあ、セーフにしましょう。その勢いからよく止まれたわね』
「危うく初手からアウトになるところでした」
何事もなかったかのように腕を下ろすと、イロハはにこやかに頭を下げた。
「お久しぶりです! ユーリさん、ゼクスさん!」
「お、お久しぶり」
ゼクスは思わず苦笑した。
四年前と変わった。
確かに変わった。
――たぶん。
「イロハさん、その格好……冒険者になったの?」
「そうなんです!」
待ってましたと言わんばかりに、イロハが胸を張った。
「皆さんにはご迷惑をおかけしましたので、あのあと心機一転! テンペストで冒険者として一から修行しまして!」
マントをばさりと翻す。
「白ランクから始めて、なんとプラチナランクまで駆け上がりました!」
「プラチナ!?」
ゼクスが目を見開き、隣ではシルクも驚いたようにイロハを見る。
イロハは得意げに人差し指を立てると、そのまま芝居がかった仕草で胸へ手を添えた。
「では、改めまして」
「――剣神・神風のイロハ=カザカミと申します!」
「…………」
ゼクスの思考が止まった。
剣神・神風。
シルフの森まで追いかけ、結局すれ違った勇者。凄腕の冒険者にして、ずっと探していた人物。
「……え?」
ゼクスはイロハを指差した。
「剣神・神風って、イロハさんだったの!?」
「はい! 私でした!」
「マジかよ!」
「ふふん。驚きました?」
イロハが悪戯っぽく笑う。
ユーリも感心したように彼女を見る。
「それはすごい。もともと剣術の心得があるとは聞いていましたが……そこまでの才能があったんですね」
「…………!」
イロハの頬が一瞬で赤く染まった。
「もっと」
「はい?」
「もっと褒めてください、ユーリさん!」
「ええ。四年でプラチナまで上がったのなら、大したものですよ」
「えへへ……」
先ほどまで得意げに胸を張っていた勇者が、途端に締まりのない顔になる。
「あの……」
それまで様子を見ていたシルクが、おそるおそる手を上げた。
「さっきからスカイアの声が聞こえるんだけど……どこにいるの?」
『ここよ』
「え?」
『久しぶりね、シルクハティ』
声は下から聞こえた。
全員の視線が、イロハの腰へ集まる。
そこに提げられているのは、一振りの剣。
精霊武具――封神剣。
その柄頭には、手のひらほどの少女がちょこんと腰掛けていた。
「……いた」
緑と黄色を基調とした妖精風の衣装に、背中から伸びる透き通った羽。羽ばたくたびに淡い光の粒子がこぼれている。
シルフの森で出会った風の精霊、スカイアだ。
『正確には、本体じゃないけどね』
スカイアは小さな脚を組み、得意げに胸を張った。
『私は精霊武具である封神剣を中継点にして、遠く離れた場所からでもこうして話せるの』
「遠く離れてても?」
ゼクスが目を丸くする。
『そう。それだけじゃないわ』
スカイアが小さな指を、ぴっとゼクスへ向けた。
その瞬間。
『聞こえる?』
「うおっ!?」
耳から聞こえたのではない。
声が直接、頭の中へ響いた。
ゼクスが驚いて耳を押さえると、スカイアは面白そうに笑う。
『精神感応通信。封神剣を中継して、離れた相手同士でも直接会話できるの』
「すげえ……!」
ゼクスが素直に感嘆する一方、ユーリはすでに研究者の目になっていた。
「そんな遠距離通信術式、聞いたことがありません。さすが精霊……原理は? 術式の構成はどうなって――」
『説明すると長いから却下』
「残念です」
『ただし万能じゃないわ。一度に繋げるのは基本一人だけだし、連続して使えるのも三分程度。それに、私が封神剣へ干渉できる状態じゃないと使えない』
「なるほど」
ユーリが顎へ手を添える。
「それでも戦場では革命的ですね。伝令を介さず、遠隔地の人間同士が直接意思疎通できる」
『でしょ?』
スカイアが得意げに鼻を鳴らした。
そこでシルクが、ふと思い出したように首を傾げる。
「そういえば……」
「どうしたの?」
「最初にイロハさんがユーリへ走っていった時、スカイアが『ステイ』って言ってたよね?」
『言ったわね』
「どうして?」
「ああ、それですか」
イロハは納得したように頷くと、ちらりとユーリを見て、少しだけ気まずそうに頬を掻いた。
「私がスカイアにお願いしたんです」
「イロハさんが?」
「はい。私、ユーリさんを前にすると距離感がバグるので」
「自覚あったんだ……」
「もちろんありますとも!」
なぜか胸を張る。
「だから、暴走しそうになったら止めてもらってるんです。物理的に」
『最初は《ステイ》で警告』
スカイアが指を一本立てる。
『それでも止まらなかったら――電撃』
「物理的って、そういうこと!?」
ゼクスが思わず突っ込んだ。
「これくらいがいいんです」
そう答えたイロハの声から、ふっと冗談っぽさが消えた。
ユーリを真っ直ぐ見つめる。
「これは私なりのケジメです」
「…………」
「四年前、私は距離の取り方を間違えました。好きだからって、相手が嫌がるところまで踏み込んでいいわけじゃない」
先ほどまでの騒がしさが嘘のように消える。
「だから今度は、ちゃんとした距離から始めたいんです。ユーリさんが嫌じゃなければ……また、お話しさせてください」
ユーリはしばらく黙っていたが、やがてその表情を柔らかくした。
「あなたがそう考えてくれているなら、私もいつまでも四年前のあなたとして扱うつもりはありません」
「ユーリさん……」
「四年も経ったんです。お互い、改めてということで」
ユーリが微笑む。
「こちらこそ、よろしくお願いします。イロハさん」
「…………」
イロハの瞳が潤んだ。
「ユーリさぁぁぁん!!」
反射的に両腕を広げ、一歩踏み出そうとして――。
「…………!」
止まった。
そのまま数秒、両腕を広げた姿勢でぷるぷると震える。
『おっ』
スカイアが感心したように声を上げる。
『今のは自力で止まれたわね』
「……友情的な感動のハグは?」
『本人に許可を取りなさい』
「ユーリさん!」
「駄目です」
「はい!」
返事だけは妙に良かった。
四年前から成長した。
冒険者としてだけではなく、たぶん人としても。
ゼクスは、今度こそそう思うことにした。
♢
「そうだ。皆さん、今日はこのあと予定あります?」
ひとしきり再会を喜んだところで、イロハが思い出したように尋ねた。
「明日はソレスティア国王陛下への謁見が入っていますけど、今日は私の方で食事のお店を予約してあるんです。一緒に行きませんか?」
「叔父上との謁見か。久しぶりだな」
「ゼクスさん、国王様の親戚ですもんね」
「まあな。じゃあ今日は飯にするか」
「賛成!」
こうして四人は研究室を離れ、夕暮れの王都へと繰り出した。
茜色だった空は徐々に紫へと変わり、通りには魔導灯の明かりが一つ、また一つと灯り始めている。仕事帰りの人々に混じって買い物客や旅人が行き交い、飲食店の並ぶ一角からは香ばしく焼けた肉や香辛料の匂いが漂ってきた。
その道中、シルクは隣を歩くイロハをちらりと盗み見た。
勇者にして、剣神・神風。
そして――ユーリのことが好きな人。
(ユーリさんが好きなのは分かったけど……)
そこでシルクの視線が、イロハからゼクスへ移る。
(ゼクスがこの人にデレデレしないかは、ちょっと注意しておいた方がいいかも)
先ほどゼクス自身が、四年前のイロハを「美人で、スタイルも良くて、気さくなお姉さん」と評していたことを、シルクはしっかり覚えている。
そんなことを考えていた時だった。
「おっと、ごめんよ」
「え?」
すれ違いざま、一人の旅人がシルクの肩へぶつかった。
男は軽く片手を上げて謝ると、そのまま人混みの中へ足早に紛れていく。
「大丈夫?」
「うん。ちょっとぶつかっただけ――」
「はい、これ」
イロハが何気ない調子で何かを差し出した。
「お財布、落ちてたよ」
「……え?」
シルクが目を丸くする。
その掌に乗っていたのは、見覚えのある小さな巾着だった。
「私の……」
「ええ。ちゃんと持っておいた方がいいよ」
「ありがとう……?」
シルクが戸惑いながら受け取る。
ゼクスとユーリは、揃って黙っていた。
落ちていた?
違う。
ゼクスには見えていた。
男がシルクへぶつかった瞬間、その指先が彼女の腰元へ伸びるところまでは。
だが――。
(……いつの間に取り返した?)
男の手から巾着が消え、次に気づいた時にはイロハの手の中にあった。
隣を見ると、ユーリも眼鏡の奥で目を見開いている。
「……坊ちゃん」
「ああ」
「見えました?」
「いや」
「私もです」
二人が顔を見合わせた、その時。
「うわぁぁぁぁ!?」
通りの向こうから悲鳴が上がった。
振り返ると、先ほどの旅人が狼狽しながら自分の身体を見回している。
「な、なんだこれ!?」
着ていた外套もシャツも、そしてズボンまでもが無数の細い切れ目からぱらぱらと裂け、布切れとなって石畳へ落ちていく。
ところが、露わになった肌には傷一つない。
「…………」
ゼクスはゆっくりとイロハを見た。
当の本人は、何事もなかったかのように歩いている。
「イロハさん」
「はい?」
「……今、何した?」
「何って、お財布を取り返しただけですよ?」
「服」
「ああ」
イロハは振り返り、今まさに通行人たちの視線を集めている男を見る。
「スリの人ですけど、多分ほっといても衛兵に捕まると思います」
「いや、そうじゃなくて!」
ゼクスは思わず声を上げた。
「いつ斬ったんだよ!?」
「すれ違った時ですけど?」
「マジか……」
剣を抜いたところすら見えなかった。
いや、それ以前に――。
「イロハさん。その剣、ちょっと見せてもらっていい?」
「いいですよー」
イロハが腰の封神剣を鞘ごと外し、ゼクスへ差し出す。
「抜いても?」
「どうぞ」
許可を得て、ゼクスは封神剣を鞘から引き抜いた。
夕暮れの光を受けた刀身を眺め――眉を寄せる。
「……この剣、なまくらじゃん」
「そうですね」
「そうですね、じゃないだろ」
ゼクスは刃先へ目を凝らした。
刃はほとんど潰れている。少なくとも、これで人間の服だけを一瞬のうちに細切れにし、肌には傷一つ残さないなど、普通なら不可能だ。
「これで、服だけ斬ったのか……?」
『封神剣は、四大精霊の力を集めることで本来の力を取り戻していく精霊武具なの』
柄頭に腰掛けたスカイアが答える。
『今はまだ私の力しか宿っていないから、武器としては未完成もいいところ。もっとも――』
スカイアがイロハを見る。
『この子には、あんまり関係ないみたいだけどね』
「いやいや、剣が斬れないなら普通は関係あるだろ」
「まあ、ちょっとしたコツがあるんですよ」
イロハはそう言って、悪戯っぽく笑った。
その笑顔自体は、四年前と大して変わっていない。
けれど、ゼクスは手にした封神剣と、遠くで衛兵に取り押さえられているスリを交互に見た。
剣を抜いた瞬間すら見せず、刃の潰れた剣で服だけを斬り刻み、肌には傷一つつけない。
プラチナランク。
剣神・神風。
ようやくその肩書が、実感を伴ってゼクスの中へ落ちてきた。
(……この人、本当に強いんだな)
明日は、この勇者を連れて国王ソレスティアとの謁見に臨む。
魔王を倒すための旅が、ようやく次の段階へ進もうとしていた。




