第19話 シルフの森
――シルフの森。
奥へ進むほど木々は密度を増し、幾重にも重なる枝葉が陽光を遮っていた。昼間だというのに辺りは薄暗く、足元には湿った落ち葉が積もり、踏みしめるたびに柔らかな音を立てる。
土と苔、それに樹液の青臭い匂いが漂う中、ときおり木々の間を吹き抜ける風が梢を揺らすと、どこか遠くで鈴を転がしたような葉擦れの音が響いた。
ゼクスの腰には、テンペストを発つ前にギルド併設の雑貨店で買った小型のランプがぶら下がっている。受付嬢から「ランプが道を示す」と聞いて用意したものだが、まだ昼間ということもあり、今のところ火を灯す必要はなかった。
だが、どれだけ歩いても景色が変わらない。
目に入るのは苔むした木と絡み合う蔦、地面から大きく張り出した根ばかりで、それらを抜けた先に待っているのも、また同じような木だった。
「……ねえ」
後ろを歩いていたシルクが、不意に足を止めた。
「なんかここ……さっきも通らなかった?」
「え? ほんと?」
先頭を歩いていたゼクスが振り返る。汗ばんだ額には短い赤髪が張りつき、軽鎧の上から羽織った外套にも、いつの間にか細かな葉や土が付いていた。
「ほら、あの木」
シルクが指差すものの、ゼクスには周囲に立ち並ぶ木々との違いがまるで分からない。
「森の木なんて、だいたい同じに見えない?」
「坊ちゃん」
後ろから呆れた声が飛んできた。
青い長髪を後ろでまとめたユーリが大樹へ歩み寄ると、手にした杖の先で幹を示した。
「シルクの言う通りですよ。迷わないように、通るたび印を付けておきました」
言われて目を凝らせば、樹皮には三本の切り傷が刻まれている。
「ここ、もう三回目です」
「…………」
鳥の声だけが、やけに爽やかに森へ響いた。
「……本格的に迷ったな」
「だから言ったじゃない」
「面目ない」
ユーリが方角を確認しようと周囲を見渡した、その時だった。
ガサッ、と茂みの奥から何かが動く音が聞こえ、三人の表情が一斉に変わった。
それまで響いていた鳥のさえずりが途絶える。
湿った土を踏み潰すような重い足音が近づくにつれて、わずかに地面まで震え始めた。
「……何か来る」
シルクが身構えた直後、獣の咆哮が森を揺らした。
「グオオオオオオオッ!!」
茂みを力任せに押し潰し、巨大な熊が姿を現す。
キリングベア。
立ち上がれば三メートル近くはあるだろう。黒褐色の毛皮の下では分厚い筋肉が盛り上がり、丸太のような前脚の先には鋭い爪が並んでいる。顔には無数の古傷が走り、黄ばんだ牙の隙間からは粘ついた唾液が垂れていた。
「……でっか」
「では僕、隠れるんで。後よろしくお願いします」
「早いな!?」
ユーリはそう言うなり、さっさと大樹の陰へ下がっていく。
ただし、逃げたわけではない。
木陰へ身を隠した時には、すでに指先で空中へ淡い光の線を走らせ、いくつもの魔法陣を組み始めていた。
何かを仕込んでいる。
ゼクスはそれだけ確認すると、すぐにキリングベアへ意識を戻した。
「シルク!」
「うん!」
シルクは胸元で短く祈り、両手を打ち合わせた。
パンッ!
狼を模した金属製の半面を顔へ当てる。
「――仮面解放」
白銀の光が全身を包み込み、髪の間から狼耳が伸びると、白いドレスを残したまま両腕と両脚を銀色の毛皮が覆っていく。指先には湾曲した爪が生まれ、腰の後ろからは大きな尻尾が伸びた。
獣人となったシルクが鋭く熊を睨む。
「グオオオッ!!」
真正面から浴びせられた咆哮に、シルクの狼耳がぴくりと動いた。
「……熊に吠えられるの、なんか腹立つわね」
「対抗意識そこ?」
ゼクスは笑いながら、腰の片手剣ではなく背中の弓を手に取った。
矢を番えると、両拳を胸元で軽く合わせる。
コツン。
いつものルーティンを終えた瞬間、それまで耳に入っていた余計な雑音が意識の外へ消えていった。
「シルク、隙を作ってくれ」
「分かった!」
白銀の姿が地面を蹴る。
シルクは一気にキリングベアの懐へ滑り込み、振り下ろされた前脚を紙一重でかわしながら爪で脇腹を切り裂くと、その勢いのまま身体を回転させ、遠心力を乗せた踵を腹へ叩き込んだ。
ドゴッ!!
鈍い音とともに巨体がよろめく。
怒り狂ったキリングベアは完全にシルクへ狙いを定め、巨大な爪を何度も振るった。攻撃が外れるたびに木の幹が深く抉られ、砕けた樹皮が派手に弾け飛ぶ。
その猛攻の中を、シルクは白銀の残像を残しながら駆け回っていた。
深入りせず、自分で倒そうともせず、ただキリングベアの意識を引きつけながら追わせ続ける。
ゼクスは弓を引き絞ったまま、その攻防をじっと見ていた。
シルクの位置、熊の歩幅と呼吸、前脚を振るった直後に生まれるわずかな硬直まで、一つとして見逃さない。
全部を見て、全部を繋ぐ。
やがて、キリングベアがシルクを叩き潰そうと大きく上体を起こした。
胸が開いた。
――今だ。
「シルク、離れろ!!」
「っ!」
声を聞いた瞬間、シルクが迷うことなく射線から跳ぶ。
ゼクスは半歩踏み込み、弦を限界まで引き絞った。
「――獅子心王!!」
轟音。
放たれた矢は、もはや矢というより砲弾だった。衝撃波が周囲の落ち葉を一斉に吹き飛ばし、一直線にキリングベアの胸へ突き刺さる。
「――グォッ!?」
矢は分厚い毛皮と筋肉を穿ち、その奥にある肋骨を砕いて巨体を貫通した。
鮮血が飛び散り、力を失ったキリングベアが地響きを立てて地面へ倒れる。
「……弓矢の威力じゃないでしょ、それ」
「だろ?」
ゼクスは満足げに弓を肩へ担いだ。
「俺、遠距離も結構いけるんだぜ」
「自慢するのは後にしてください、坊ちゃん」
ユーリの声が飛んできた。
先ほどまでとは違う、低く鋭い声だった。
「え?」
ゼクスの笑みが消える。
大樹の陰にいるユーリは、途中まで描いた魔法陣を維持したまま、ゼクスではなくシルクの背後を見ていた。
「シルク!」
「え?」
白銀の狼耳が跳ねる。
ほぼ同時に、草を踏みしめる音が聞こえた。
一つではない。
「ギャギャギャギャッ!!」
直後、茂みを弾き飛ばすようにして、何匹ものゴブリンが一斉に姿を現した。それぞれの手には短剣や棍棒、錆びた刃が握られている。
キリングベアとの戦いが終わり、三人の意識が緩む瞬間を、ずっと待っていたのだ。
「伏兵か!」
ゼクスが弓へ手を伸ばした、その時だった。
頭上から、ばさりと巨大な羽音が響く。
「……上?」
見上げた木々の隙間では、夕闇へ溶け込むように一匹の巨大な蝙蝠が翼を広げていた。
ギガバット。
赤い瞳が、不気味に光る。
「ゼクス、そいつ――!」
シルクが叫ぶ。
だが、遅い。
「――暗闇」
「っ!?」
その瞬間、ゼクスの視界が一気に黒く染まった。
目は開いているはずなのに、何一つ見えない。瞬きをしても顔を振っても、そこにあるのはどこまでも続く黒一色の闇だけだった。
「……また、こういう魔法かよ!」
見えない森の中で、ゴブリンたちが落ち葉を踏み荒らしながら迫ってくる音だけが、いやに鮮明に聞こえる。
そして、無防備なシルクの背後では、一匹のゴブリンが短剣を振り上げていた。
「シルク――!!」
ゼクスの声だけが、暗闇の森へ響いた。




