第17話 異世界人イロハ
――四年前。
始まりは、冒険者ギルドからの紹介だった。
この世界には、ごく稀に異世界から人間が迷い込んでくる。何者かに召喚された者もいれば、何らかの事故に巻き込まれた末に世界を渡ってしまった者もおり、ソレスティア王国でも異世界人そのものは決して前例のない存在ではない。
こちらの世界にはない知識や技術を持つ者も多く、その才覚を活かして冒険者となり、中には後世に名を残す英雄まで上り詰めた者もいる。
イロハ=カザカミも、そんな異世界人の一人だった。
元の世界では『高校生』だったという十六歳の少女が、冒険者ギルドを通じて魔法技術研究所へ伝えてきた希望は、至って単純なものだった。
『魔法を勉強したいです!』
異世界人がこちらの魔術体系をどのように理解するのかは、研究所としても興味深い。そこで研究の雑務を手伝うアルバイトとして彼女を雇い、その傍らで基礎的な魔術を学ばせることになった。
「初めまして!」
初日、研究室の扉を開けたイロハは、勢いよく頭を下げた。
肩にかからない程度で切り揃えられた黒髪に、この世界では見慣れない白いシャツと上着、膝丈のスカート。華奢に見える身体つきに反して背筋はすっと伸びており、立ち姿にはどこか隙のない雰囲気がある。
聞けば、元の世界では『剣道』という剣術を長く習っていたらしい。
そんな凜とした第一印象とは裏腹に、顔を上げたイロハは人懐っこい笑みを浮かべた。
「イロハ=カザカミです! 気軽にイロハと呼んでください!」
少なくとも、この時点では。
ごく普通の、明るい少女に見えた。
♢
王宮魔術研究室には、その日もいつものようにコーヒーの香りが漂っていた。
「ゼクスくん、コーヒーどうぞ」
「ありがとう、イロハ」
まだ湯気の立つカップをゼクスの前へ置くと、イロハは空になった盆を胸元へ抱え、にこやかに笑った。
「いえいえ。駆け出しの仕事ですので!」
掃除に書類整理、薬品や実験器具の運搬、研究員たちへコーヒーを淹れることまで、雑用だからと嫌がる様子はなく、むしろ何を頼まれても楽しそうにこなしていた。仕事覚えも早く、愛想もいい。
異世界へ突然放り出された十六歳にしては、驚くほど早く新しい環境へ馴染んでいた。
そして休憩時間になれば、仕事とはまた別のことにも全力だった。
「…………」
イロハは、白と黒の駒が並んだチェス盤を睨みつけている。盤上の大勢はすでに決しており、本人にもそれが分かっているのか、険しい顔のまま次の一手を探していた。
「……チェックメイト」
ゼクスが最後の駒を置く。
コトン、と乾いた音が響いた瞬間、イロハの肩が目に見えて落ちた。
「また負けた……。ゼクスくん、チェス超強いですね……」
「まあな!」
ゼクスは得意げに胸を張り、短い赤髪の下に少年らしい笑顔を浮かべる。
「パズルとかチェスなら、ユーリにも負けたことないんだぜ」
「むう……」
しばらく盤面を睨んでいたイロハだったが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「でも私、剣道やってたし! 剣術なら勝てるかも!」
「おっ、やる?」
「やります?」
「二人とも」
すぐさま書類から顔を上げたユーリが、眼鏡の奥から冷たい視線を向ける。
「ここは魔術研究所ですよ、イロハさん」
「……はい」
「……すみません」
二人揃って小さくなる姿に、ユーリは小さくため息をつくと、机の端に積まれていた本へ目を向けた。
「それより、イロハさん。基本術の勉強は進んでいますか?」
「あ、はい!」
イロハは慌ててチェス盤の横へ置いていた薄い魔術書を取り上げ、開いていたページをユーリへ見せる。
「今、この辺を読んでました」
「心象反響術式ですか」
「はい。これ、覚えてみようかなって」
「ずいぶん地味な術を選びましたね」
「地味なんですか?」
「術そのものは単純ですよ。音や言葉、魔力に込めた情報を反響させたり、繰り返したりするだけですから」
「ふむふむ……」
イロハがページを覗き込みながら何度も頷くと、ユーリはその横から術式を指で示した。
「でも、案外便利ですよ。声を遠くまで届かせたり、同じ詠唱を反復させたり、詠唱補助にも使えますし、工夫次第では色々できます」
「へえ……」
それまで何気なくページを眺めていたイロハの目が、少しだけ輝いた。
「じゃあ、覚えます!」
「即決ですね」
「使い道いっぱいありそうなので!」
「基礎術ですから、まずは普通に使えるようになってくださいね。それと、第三保管庫の薬品が少なくなっていますので、追加をお願いします」
「はい! 喜んでー!」
勢いよく立ち上がったイロハの妙に高いテンションに、ユーリの眉がわずかに動く。
「……そんなに薬品の発注が好きなんですか?」
「もちろんです!」
「変わっていますね」
「えへへ」
もちろん、薬品の発注そのものが嬉しいわけではない。
ユーリから仕事を頼まれたことが、なんとなく嬉しかっただけだ。
もっとも、この頃はイロハ自身も含めて、その感情を深く気に留める者はいなかった。
♢
昼になると、研究室のテーブルには人数分の皿が並んだ。
「どうぞ」
ユーリが置いたのは、焼きたてのパンに野菜と肉を挟んだサンドイッチだった。パンの間から瑞々しい葉野菜が覗き、香ばしく焼いた肉の匂いが鼻をくすぐる。
「わあ……! これ、ユーリさんが作ったんですか?」
「ええ。料理は趣味ですから。それに、昼食付きという条件でアルバイトを募集したのはこちらですしね」
「ありがとうございます!」
イロハは嬉しそうに両手を合わせた。
「いただきます!」
一口頬張れば、香ばしいパンに肉の塩気がよく合い、そこへ瑞々しい野菜の歯触りが加わる。異世界へ来てからは食べ慣れない料理に戸惑うことも多かっただけに、素直に美味しいと思える味が嬉しくて、自然と頬が緩んだ。
(……来てよかったー)
サンドイッチを食べながら、イロハはちらりと向かい側へ目を向ける。
そこではユーリが食後のコーヒーを飲んでいた。長い青髪を後ろで一つにまとめ、眼鏡の奥には知的で落ち着いた瞳があり、魔術の知識は豊富で物腰も穏やか、そのうえ料理までできる。
「イロハさん?」
「はい!?」
「口元にソースが付いてますよ」
低く穏やかな声が耳に届いた瞬間、イロハの心臓が大きく跳ねた。
(……声までいい)
元の世界で好きだった声優を思わせるような、耳に心地よく響く声だった。
(長髪、青髪、知的、眼鏡、料理もできる。しかもイケボ……)
頭の中で一つずつ条件を並べながら、またちらりとユーリを見る。ちょうど目が合いそうになって、慌てて手元のサンドイッチへ視線を戻した。
(……どんな人なんだろう)
好きな食べ物や本、休日の過ごし方、どんな女性が好みなのか、今まで誰かと付き合ったことはあるのか。
そんなことを考え始めると、次から次へと知りたいことが浮かんでくる。
(もっと知りたいな……。もう少しだけ、この人のことを)
この時点では、それもごく普通の恋心に見えた。
♢
――それから、しばらくして。
イロハ=カザカミは、ユーリが暮らす宿舎の隣室へ引っ越してきた。
偶然ではなかった。
その後の調査で、勤務時間外の尾行をはじめとする複数のストーカー行為も発覚し、アルバイト契約は即日解除された。
後に、世界の運命を大きく左右する少女とユーリの最初の出会いは――。
最悪の形で幕を閉じた。




