第16話 ユーリの特技
ギルド宿舎の共同厨房。
勇者を追ってシルフの森へ向かうのは明日の朝と決め、それまでの束の間の休息として、ゼクスたちは宿舎に併設された共同厨房を借りていた。
夕食時にはまだ少し早いからか、広い調理場に人の姿はほとんどなく、石造りの竈で燃える赤々とした火だけが、室内をじんわりと暖めている。
その中央に立つユーリは、長い青髪をいつもより高い位置で後ろにまとめ、邪魔にならないよう外套を椅子の背へ掛けると、シャツの袖を肘まで捲り上げていた。
眼鏡の奥の瞳は、真剣そのものだった。
「…………」
トン、トン、トン、と包丁がまな板を叩く軽快な音を響かせながら、玉ねぎと鶏肉を手早く切り分け、その傍らでは火にかけた鍋の様子を確認する。熱したフライパンへ鶏肉を放り込めば、ジュウッという音とともに香ばしい匂いが立ち上り、間髪入れずに玉ねぎを加え、慣れた手つきで火を通していった。
一つの作業を終えてから次へ移るのではなく、いくつもの工程を並行して進めながら、そのどれにも迷いがない。
その姿を、ゼクスとシルクは調理場の隅から眺めていた。
「……すごい。なんだか、ユーリが何人もいるみたい」
シルクの赤い瞳が、忙しなく動くユーリの両手を追いかける。
「だろ?」
ゼクスは自分のことでもないのに、どこか得意げに笑った。
「あいつ、料理はプロ級なんだぜ」
「そうなの?」
「駆け出しの頃、食堂で働きながら王宮魔術師を目指してたんだよ。最初は給仕だったらしいけど、そのうち厨房まで手伝うようになってさ。料理もその頃に覚えたんだと」
「へえ……」
改めてユーリの手元を眺めながら、シルクが感心したように息を漏らす。
「料理してる時のユーリ、魔法を使ってる時みたい」
「似たようなものですよ」
どうやら二人の会話は聞こえていたらしく、ユーリは手を止めることなく答えた。
「どちらも段取りを間違えれば失敗しますからね」
そう言いながら炒めた米をフライパンごと軽く煽れば、赤く色づいた米粒が宙を舞い、散らばることなく鮮やかに戻ってくる。
「ベル姉さんにも、よく褒めてもらったんですよ。僕の料理」
「……お母さんも?」
何気なく口にされた名前に、シルクが小さく反応した。
「ええ。特に卵料理はお気に入りでした」
「そうなんだ……」
ユーリの横顔には、昔を懐かしむような柔らかな笑みが浮かんでいる。それを見ているうちに、シルクの口元にも自然と小さな笑みが生まれた。
自分の知らない母の一面を知るというのは、不思議な感覚だった。もう本人の口から聞くことはできないのだと思えば寂しいのに、それでも、自分が知らなかった母の姿をこうして誰かの記憶から知ることができるのは嬉しい。
もう聞けないはずだった母の話が、ユーリの中にはまだ残っている。
そう思うだけで、胸の奥に小さな灯がともったような気がした。
それからしばらくして調理を終えたユーリが、二人の待つテーブルへ皿を運んできた。
「――お待たせしました」
目の前に置かれた料理を見て、シルクが思わず身を乗り出す。
「わあ……」
赤く色づいたチキンライスの上には、ふっくらと焼き上げられた黄金色のオムレツが鎮座しており、表面には焦げ目一つない。皿を置いたわずかな振動だけで、ぷるん、と柔らかく揺れた。
「まだ完成ではありませんよ」
ユーリはナイフを手にすると、オムレツの中央へ刃先を当て、薄い表面をすっと切り開いた。
「おお……!」
ゼクスが声を上げる。
切れ目を境にオムレツが左右へゆっくりと開き、中から半熟の卵がとろりと溢れ出す。黄金色の卵はチキンライスの斜面を流れながらその表面を柔らかく包み込み、立ち上る湯気とともに、バターと卵の濃厚な香りが鼻をくすぐった。
「すごい……」
シルクは目を丸くしたまま、すっかり姿を変えた料理とユーリを交互に見る。
「ユーリって、料理でも魔法を使うのね」
「いえ」
ユーリは真顔で答えた。
「これは技術です」
「魔術師なのに、そこは魔法じゃないんだ……」
「料理に安易な魔法は持ち込みません」
どうやら先ほどの「似たようなもの」という発言と、実際に魔法を使うかどうかは別問題らしい。
ユーリは満足そうに二人の前へ皿を並べると、料理を示すように両手を広げた。
「さあ、召し上がれ」
待ってましたとばかりにゼクスがスプーンを差し込み、半熟の卵とチキンライスをまとめて口へ運ぶ。
「――美味い!」
途端に頬が緩んだ。
卵のまろやかな甘みを感じたあとから、鶏肉の旨味と炒めた米の香ばしさが追いかけてくる。
「やっぱ最高だわ、ユーリの飯!」
その反応を見たシルクも期待に目を輝かせながら一口頬張り、ゆっくりと咀嚼する。すると一瞬だけ目を見開いたあと、見る見るうちに表情が明るくなった。
「おいしいーーっ!」
「ふふ。そこまで喜んでもらえると、料理人冥利に尽きますね」
ユーリも満足そうに眼鏡を押し上げる。
それからしばらくは会話をすることさえ忘れ、二人とも目の前の料理に夢中になった。聞こえるのはスプーンが皿に触れる小さな音と、時折交わされる「美味しい」「だろ?」という声くらいで、戦いも、魔王も、神託も、今だけは遠い世界の出来事のようだった。
やがて二人の皿が綺麗に空になる。
「ご馳走様でした!」
ゼクスが満足そうに腹をさする。
「ご馳走様、ユーリ。すっごく美味しかった」
「お粗末様でした」
ユーリも水の入ったグラスを手に取り、一息つく。
満腹になったシルクは空になった皿を名残惜しそうに眺めていたが、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「こんな料理が毎日食べられるなら、ユーリのお嫁さんになる人は幸せね」
「ぶふっ!?」
ユーリが盛大に水を噴き出した。
「げほっ! ごほっ……!」
「えっ!? 大丈夫!?」
まさかそんな反応が返ってくるとは思わず、シルクが慌てて身を乗り出す。
一方、ゼクスだけは何がユーリの古傷を抉ったのか察したらしく、なんとも言えない顔で額を押さえていた。
「シルク……」
「な、なに?」
「そこは触れてやるなよ……」
「なんで!? 私、そんな変なこと言った!?」
「……いいんですよ、坊ちゃん」
咳き込みながらユーリが片手で制し、濡れた口元を布で拭う。先ほどまで料理を褒められて上機嫌だった顔には、いつの間にか遠い過去を思い出すような影が差していた。
「僕だって――」
ユーリは眼鏡の位置を直す。
「女性から好意を寄せられたことくらい、あるんです」
妙に含みのある言い方だった。
その瞬間、ゼクスの顔から笑みが消えたものの、事情を知らないシルクだけは、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「……あったんですね」
「ありましたよ」
「どんな人?」
「…………」
ユーリはすぐには答えず、手元のグラスへ視線を落とした。
揺れる水面を見つめるその目は、そこに映る自分ではなく、ずっと昔に出会った誰かの姿を追っているようにも見える。
やがて、重い口を開いた。
「……少々、距離感を間違えてしまった人でした」




