第13話 仮面〜ペルソナ〜
【シルク視点】
地下シェルターには、久しく失われていた笑い声が戻っていた。
つい一時間程前まで死の気配に包まれていたとは思えないほど、その場所には穏やかな空気が流れている。
子どもたちは、ようやく立ち入れるようになった畑の周りを駆け回り、歓声を上げていた。
大人たちは井戸や貯蔵庫の状態を確かめながら、これからの生活について声を掛け合っている。
「あの畑も使えそうだ!」
「これで備蓄を切り崩すだけの生活から抜けられる……!」
「シルクハティ様!」
地下に、人の営みが戻っていた。
その光景の中心には、シルクがいる。
住民たちは次々と彼女のもとへ駆け寄った。
両手を握って何度も頭を下げる者。
涙を流しながら無事を喜ぶ者。
幼い子どもは昔と同じようにシルクへ抱きつき、その小さな腕でぎゅっと身体を抱きしめた。
「おかえりなさい!」
その一言に、シルクは何度も頷くことしかできなかった。
「……ただいま」
ようやく、それだけを返す。
少し離れた場所では、ゼクスが穏やかに微笑んでいた。
「……良かったな」
誰に聞かせるでもない、小さな声。
けれど、その横顔を見ているだけで、シルクの頬にも自然と笑みが浮かんだ。
――それから、さらに一時間が過ぎた。
ベルの研究室へ籠もったユーリを残し、シルクとゼクスは生存者たちとともに地下シェルターの復旧を手伝っていた。
やがて。
ギィ……。
研究室の扉が、静かに開いた。
「お」
ゼクスが振り返る。
中から姿を現したユーリは、明らかに疲れていた。
長い青髪は少し乱れ、眼鏡の奥にも疲労が浮かんでいる。
それでも。
その表情には、確かな手応えがあった。
「分かりましたよ」
シルクの胸が大きく跳ねた。
「……本当に?」
「ええ」
ユーリは眼鏡を押し上げる。
「少なくとも、ベル姐さんがあなたへ掛けた術式の構造と――解除する方法までは」
「たった一時間で!?」
ゼクスが素っ頓狂な声を上げた。
「さすユーリ!」
「褒めるなら、もう少し静かにお願いします……頭が痛いので」
ユーリは額を押さえて苦笑する。
それから二人を研究室へ招き入れた。
机の上には、何冊もの魔導書と羊皮紙が広げられている。
その中央。
ベルのものと思われる手書きの資料へ、ユーリは指を置いた。
「先ほどは、魔法を詳しく調べるまで断定できないと言いましたが」
一度、シルクを見る。
「調べた今なら言えます」
シルクは無意識に息を止めた。
「これは、呪いではありません」
「……!」
胸の奥が熱くなる。
ラパンと再会したあの時、ユーリは母の想いを「愛」と呼んだ。
そして今。
魔術師として術式そのものを調べたうえで、同じ結論へ辿り着いたのだ。
「ベル姐さんの術式は、古い変化魔法を基礎にしています」
ユーリは別の魔導書を開く。
そこには、巨大な翼を持つ竜へ姿を変える魔術師の絵が描かれていた。
「古代竜変化術。人を一時的にドラゴンへ変えるための魔法です」
「ドラゴンに?」
ゼクスが身を乗り出す。
「そんな魔法あるのかよ」
「非常に古い術ですし、今では使い手もほとんどいませんけどね」
ユーリはページをめくる。
「重要なのは、この術式には二つの詠唱が存在することです」
「二つ?」
「変化するための言葉。そして――元の姿へ戻るための言葉」
ゼクスが「あっ」と声を漏らした。
ぽん、と手を打つ。
「なるほど。コーヒーメーカーみたいなもんか」
「……はい?」
「オンとオフ」
一瞬きょとんとしたユーリだったが、やがて苦笑した。
「ずいぶん情緒のない例えですが……まあ、その認識で合っています」
「だろ?」
「得意げにしないでください」
シルクは思わず小さく笑った。
けれど。
ユーリの表情は、すぐに真剣なものへ戻る。
「ベル姐さんは、この古代竜変化術をそのまま使ったわけではありません」
今度は、別の羊皮紙を机へ広げた。
そこには一頭の狼が描かれていた。
月を背負う、白銀の巨狼。
シルクの胸がざわめく。
自分が変じた姿と、あまりにもよく似ている。
「……これ」
「ええ」
ユーリが頷く。
「ベル姐さんは古代竜変化術を基礎にして、ルナグレイヴに古くから伝わる『何か』を、シルクさんへ宿す術へ組み替えています」
「何かって?」
ゼクスの問いに、ユーリは難しい顔をした。
「そこが、まだ分からないんです」
羊皮紙の横には、古びた文献が置かれている。
その一節を、ユーリが指でなぞった。
『月下に現れ、白銀の毛を纏いし狼。ルナグレイヴの民を守護せし――』
その先は大きく欠けていた。
さらに下。
かろうじて残っている文字がある。
『神獣――』
「神獣……?」
シルクが呟く。
「ルナグレイヴに伝わる、守り神のような存在だったのでしょう」
ユーリは文献を見つめる。
「ただ、肝心の名前も、その性質も、資料が欠けています」
「じゃあ、シルクの中にいる狼は……」
「おそらく、その『神獣』と呼ばれていた存在の力の一部です」
ゼクスが腕を組む。
「一部?」
「ええ。少なくとも、今の資料から読み取れる限りでは」
ユーリはそれ以上、断定しなかった。
シルクは羊皮紙に描かれた白銀の狼を見つめる。
ずっと。
自分を人ではなくしてしまった存在だと思っていた。
けれど。
それは母が、この土地の守り神から借り受けた力だったのかもしれない。
「そして」
ユーリが別の紙を取り出す。
「解除の詠唱も見つけました」
シルクの心臓が、大きく鳴った。
「……戻れるの?」
「理論上は」
ユーリは慎重に答える。
「ベル姐さんが残した記述どおりなら、自力で人間の姿へ戻れるはずです」
戻れる。その言葉を。
ずっと、どれほど願ってきただろう。
人間に戻りたい。
父と母が知っている、自分の姿へ。
ずっとそう思っていた。
なのに。
いざ、その方法が目の前に差し出されると。
シルクは自分の白銀の腕を見下ろした。
柔らかな毛並み。鋭い爪。
狼の耳。そして尻尾。
以前なら、一刻も早く消えてほしいと願ったもの。けれど今は。
――これも、お母さんが残してくれたものなんだ。
そう思うと。
ほんの少しだけ、手放すことが怖かった。
「シルク?」
ゼクスが呼ぶ。
シルクは顔を上げた。
「……大丈夫」
小さく笑う。
人間に戻ることは。
母の力を否定することじゃない。
そう信じたかった。
ユーリも、急かすことなく待っていた。
「準備ができたら、僕の言った通りに唱えてください」
「うん」
「解除の言葉は――」
ユーリがゆっくりと口にする。
「仮面終息」
シルクは目を閉じた。
深く息を吸う。
胸へ手を当てる。
鼓動が聞こえる。
母が守ってくれた命。
そして。
静かに、その言葉を紡いだ。
「仮面終息」
その瞬間。
白銀の光が、ふわりとシルクの身体を包み込んだ。
暖かな光だった。
母に抱きしめられた日の温もりを思い出すような、優しく穏やかな光。
銀色の毛並みが、光へ溶けていく。
狼の耳がゆっくりと輪郭を失い、揺れていた尾も光の粒となって消えていった。
不思議と、何かを奪われている感覚はなかった。
むしろ――。
獣の姿の奥に眠っていた自分を、少しずつ思い出していくようだった。
やがて。
光が、ゆっくりと薄れていく。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
月光を糸にしたような長い銀髪。
白いドレス。
そして、深紅の瞳。
シルクは恐る恐る、自分の両手を見下ろした。
白銀の毛はない。
鋭い爪もない。
狼の耳も、尻尾も。
「……戻った」
震える声が、こぼれた。
「戻れた……」
何度も自分の手を見つめる。
本当に。
人間の姿へ戻っている。
胸の奥から込み上げてくるものを堪えながら、顔を上げた。
真っ先に目に入ったのは、ゼクスだった。
彼は何も言わない。
ただ、まっすぐシルクを見つめている。
白銀の狼だった時も。
獣人の姿で涙を流していた時も。
今と同じ目で、自分を見ていた。
姿は違う。けれど。
ゼクスの口からこぼれた言葉は、あの夜と同じだった。
「……綺麗だ」
「……っ」
頬が熱くなる。
胸の奥が、くすぐったい。
「……ありがとう」
それだけを返すので精一杯だった。
その時。
――カラン。
乾いた音が、研究室へ響いた。
「……?」
三人が同時に床を見る。
シルクの足元。
そこに、一枚の仮面が落ちていた。
白銀の狼を模した仮面。
つい先ほどまで、そこには何もなかったはずなのに。
「……これは?」
ユーリがしゃがみ込み、慎重に拾い上げた。
仮面を裏返し、表へ戻す。
やがて眉をひそめた。
「妙ですね」
「何が?」
ゼクスが覗き込む。
「変化は解除された。それは間違いありません」
ユーリは仮面へ魔力を流した。
淡い光が、白銀の表面を走る。
「なのに……術式そのものは消えていない」
「え?」
シルクの表情が強張る。
「どういうこと?」
「シルクさんの身体から切り離されて――」
ユーリは、手の中の仮面を見つめた。
「こちらへ移った……?」
研究室に、沈黙が落ちる。
シルクの脳裏に、先ほど見た羊皮紙が浮かんだ。
月を背負う、白銀の巨狼。
そして。
名前の途中で途切れていた、一つの言葉。
『神獣――』
「まさか……」
シルクが小さく呟く。
ユーリも何かに気付いたように、ベルの資料へ視線を走らせた。
何枚かの羊皮紙をめくる。
そして、一つの記述で手を止めた。
「……ありました」
「何が?」
ユーリは、もう一度仮面を見る。
ベルの記録に残されていた言葉。
その名を、ゆっくりと口にした。
「仮面」
そして。
白銀の狼を模した仮面を、シルクへ差し出す。
「これは、ただの変身魔法ではなかったようです」
シルクは両手で受け取った。
ひんやりとした感触が、掌へ伝わる。
けれど。
不思議と、怖くはなかった。
自分を獣へ変えた力。
かつては呪いだと思っていたもの。
それは消えたのではない。
形を変えて。
今も、確かにここにある。
シルクは白銀の仮面を、そっと胸へ抱いた。
その奥で。
何かが――微かに脈打った。




