第7話 ハローギニーピッグ
アクション回です
「痛っ」
突如、ファルの頬に遠慮無い痛みが走る。
目をあけると、近すぎるくらいに顔を近づけた、人形のような整った顔、消毒薬のようなオイゲノールの香りのする女が、ファルの頬を値踏みをするように抓って、肌の質感を見ていた。病室の明かりはついておらず、まだ夢の中でこれは悪い夢なのではないかと思うが、頬の痛みは現実だった。
「ハロー♪ ギニーピッグ(モルモット) 体調はいかがですか? シシシシ」
首元にはこれ見よがしの派手な鳥の羽が逆立ったような襟飾りがつき、月明かりをぬらぬらと反射させる真っ黒な布地のコートを羽織った、異質な巨躯の女。そして大げさなミラーコートのモノクルを嵌めた、その奇怪な風貌。
さらに不気味なのは、彼女の背後にそびえ立つ、その女すら小さく見せるほどの巨大な黒い影だった。頭に歪な穴が一つだけ開いた麻袋を被っている、人間離れした体躯の男。その男の輪郭からは、フュー、フュー、という、喉の奥に異物を詰め込まれたような嫌な風切り音が、麻袋の網目を通じて絶え間なく発せられていた。
何千年と人の欲望に翻弄され、搾取されてきた故に感じる危険信号。
それは相手が異形の姿見だからではない。
特定の邪悪さを煮詰めたような人ならざるものが放つ濃密な「圧」がそこにあったからだ。本能が、百二十年前のあの地下室に充満していた、冷たい鉄と消毒液と血の臭いを鮮烈に思い出し、脳内で絶叫していた。
「もう、動けるんですねぇ カルテの情報が正しければ、この再生速度、並のエルフと比べものになりませんねぇ。やはり超万能細胞が発現しているというのは間違いなさそうです」
どこから持ってきたのか、病院の電子カルテをスワイプしつつ見ている。モニターに照らされたギヨの顔の輪郭がはっきりと見える。その特徴的な尖った耳がファルの目に止まる。
「貴方・・・エルフ?」
女が、歯の隙間から風を吹くような不気味な笑い声を漏らす。
「お初にお目にかかります、 Velthir Falunica (ヴェルシル・ファルニカ)。私はギヨ。君と同じ、アエテルナリス。――さあ、転院のお知らせですよ。用意はいいですか? 今からもっと相応しい『ゆりかご』へ移動しましょう」
ギヨは慇懃無礼なわざとらしい感じにお辞儀をする。
「ち、近づかないで……!」
ファルは素足で床に立ち上がった。ベッドの横の点滴スタンドを両手で弱々しく武器として握りしめる。
人間であればリハビリに半年はかかる大手術から数日、すでに松葉杖のサポートなど不要なほど、彼女の四肢には力強い生命力が漲っている。だが、その回復力こそが、目の前の怪物を引き寄せたのだ。
「とっ捕まえて連れて行きなさい。手荒くしてはいけませんよ、貴重な検体です」
ギヨの背後から、麻袋の大男がヒューヒューという鼻息を吐きながら襲いかかる。
歪な一対の穴だけが開いた麻袋を被った大男が、毛むくじゃらの丸太のような腕を伸ばす。
「いやぁッ! 来ないで!」
病室内で激しい揉み合いの音が響き、医療機器のコードが引き千切れてアラームが鳴り響いた。
「ったく、低脳は空気を読んで静かに言うことも聞けないのね」
騒がしくなってきた状況にイラだつ顔をする。
「な、何事ですか!? 」
異変を察知して病室に飛び込んできた夜勤の看護師が、あまりの異様な光景に声を裏返して脅しをかける。
「あなたたち誰ですか! 警察を呼びますよ!」
立ち尽くす看護師の目の前で、180センチ以上の巨躯は突如視界から消える。
それは、ギヨが瞬間的に足を前後に百八十度開く、極限の「縦開脚」によってその上体を一瞬で床すれすれまで沈み込ませたからだった。大柄な体格からは到底想像もつかない、骨格を無視した異様な柔軟性。さらに彼女の長い脚は、獲物を絡め取る蛇のように看護師の真横へと滑り込み、再び一瞬の間に脚を閉じる。気づいた時には、ギヨは看護師の死角から、その真横へと瞬時にぬるりと移動していた。
「ばぁっ!」
まるで幼い子供を驚かすような軽い調子で、右目と、隠されていた二つの左目、歪に蠢く「三つの目」を大きく見開いて、看護師戯けて威嚇する。
看護師がその異形に恐怖し、短い悲鳴をあげるよりも早く、ギヨは器用に彼女の喉元へ小さな半透明のシールを貼り付けた。
皮膚に接触した瞬間、強力な経皮性薬物が血管を介し脳へとダイレクトにスパイクする。看護師は悲鳴をあげる暇さえなく、瞬時に白目を剥き、口元から白い泡を吹いて床へ崩れ落ちた。
「ひ、人殺し……っ! 」
簀巻きにされかかっているファルが涙ながらに叫ぶ。だが、ギヨは心底不愉快そうに、しなやかな長い指先でモノクルを直した。
「人殺し? 心外ですねえ。 科学と医療の発展に身を捧げる貴重な医療従事者を、理由もなく殺したりするわけがないじゃないですかぁ〜〜彼女は数時間、極上の悪夢を見ながら眠るだけ」
ギヨは倒れた看護師を一瞥し、蔑むような笑みを浮かべる。
「長居は無用です 帰りますよ!」
簀巻きのファルを担いだ大男は、鉄製の非常階段のドアを蹴破ると、ギヨも続いて階段を足早に降りていく。
「そこまでにしてもらおうか、ラゼベル・ギヨデルタ」
低く、そして凍りつくような怒りを孕んだ声が非常階段に響く。
仕立ての良いスリーピースのジャケットを脱ぎ捨て、白いシャツの袖を捲り上げたアレン・エーバーハルト教授が、そこに立っていた。
アレンはホテルに戻った後も、主治医から渡されたファルのカルテと、あのボロボロの酸性紙のノートを読み込んでいた。達筆なドイツ語の狂気の記録を読み解くうちに、彼は気づいてしまったのだ。
あのハチに刺されてボコボコになっていた「音無ふあるこ」こそが、自分が九百年間探し求め、人間の強欲にすり潰され続けた、かつての気高き同胞であるという事実に。
激しい悔恨とともにホテルを飛び出し、単身病院へ引き返してきたアレンは、裏口の警備員が首元にシールを貼られて泡を吹いて倒れているのを発見した。
こんな悪趣味な経皮吸収型薬剤を暴力に使うようなヤツは一人しか思いつかない。
「……おやおやおやぁ? 偽善の塊である高貴な知の巨人ともあろうものが、随分と血相を変えて・・・何かお探しモノですかぁあ?」
「そうだ、彼女を置いて 今すぐここを立ち去れ そうすれば今は見逃してやる」
そのアレンの声を聞いて、澄ましたギヨの顔に怒りが走る。
「見ぃ逃ぃしてくださるぅうう? そぉおれはお優しい お優しい 相変わらずの上から目線。吐き気がするわ、クソ老害ぃいいいいい」
一千歳のエルフと、二百歳のエルフ。知的ながらも、倫理観が分子レベルで噛み合わない二人の視線が火花を散らす。
アレンはギヨが時間をかけて取り付けた予算や、国家ぐるみの計画さえ潰してきた。
それ故、ギヨはアレンを呪っている。しかし、その頭脳と技術だけは認めざるを得ない。そんなアンビバレントな感情から破滅的な暴力では訴えてこなかった。
アレンもまたギヨに対しては近い感情を持っていた。
「残念ながらコレは貴方には手に余る貴重なサンプルなの、活用できない貴方にコレを持つ価値はない」
「MONO! その老害を足止めしなさい」
ギヨは巨体の背後に隠れるようにして、シーツごと簀巻きにしたファルを軽々と小脇に抱え、非常階段の闇へと身を翻した。
「待て、ギヨ!」
アレンが踏み出そうとした瞬間、麻袋の巨木がその行く手を阻んだ。
MONOと呼ばれるその大男の丸太のような拳が、空気を引き裂いてアレンの顔面へと迫る。
アレンはエルフ特有の超人的な動体視力と俊敏性、そして一千年の歴史の中で培った体術の心得を以て、その一撃を紙一重でかわした。そのまま流れるようなモーションで懐に潜り込み、発勁に近い形で右腕の関節を捉える。
ボゴンという鈍い音とともに、大男の右肩の関節が完全に脱臼する。
「・・・無駄な戦いはするな」
アレンが冷徹に告げた、男は倒れ込む。
「アァァァッ!!」
しかすすぐに、大男は声にならない咆哮をあげると、ブラブラになった右腕を自ら壁に激しく叩きつけた。ガボォンという凄まじい肉と骨の衝突音が響き、外れた関節が力任せに元の窩へと叩き込まれる。麻袋の奥からゲヘヘヘと笑い声のような声をあげ何事もなかったかのように再び両拳を構えた。
(・・・ギヨめ、どうやったら人間を怪物に作り変えれるんだ・・・!)
そこからの戦闘は凄惨だった。関節を折り、腱を切っても、ゾンビのように復活して襲いかかってくる。アレンは苦戦を強いられ、特別病棟の壁がモノの怪力によって破壊され、硝子が飛び散る。
破壊の限りを尽くしながら防火壁を突き破り、二人の死闘の舞台はついに病院の裏口へと辿り着く。
どんな攻撃を受けても一切の恐怖も苦痛も感じずに突進してくる怪物に、さすがのアレンの動きにも疲弊の影が見え始める。その疲れの合間に強烈な一撃を受け、アレンの体は裏口の地面に叩きつけられ、先に気絶していたあの警備員の肉体の真横へと激しく吹き飛ばされた。
「・・・くっ」
アレンは激しく息を切らしながら、迫りくる大男の衣服を掴み、その首元へと必死にしがみついた。
その瞬間、大男の巨体が突如として激しく狂ったように痙攣し始めた。麻袋の下からゴボゴボと泡混じりの汚い流涎を大量に流し、男はそのまま力なくうつ伏せになって地面へ大人しく突っ伏した。
アレンは、吹き飛ばされた衝撃の最中、床に転がっていた警備員の首元に目を留めていたのだ。そこにまだ張り付いたままだったギヨの経皮吸収型シールを、剥ぎ取り、しがみついた一瞬の隙に大男の剥き出しの首筋へと貼り付けたのだった。
大男との凄惨な死闘を経て、ようやく静寂を取り戻した裏口の周りには、しかし、すでにファルとギヨの姿は影も形もなかった。
朝四時。日の出前の、世界が濃いブルーに染まる特有の微光だけが感じられる、不思議な前朝日の中。
アレンは激しい疲労感のなか、街路樹にぽつりと手をついた。シールを剥ぎ取ったその瞬間、彼自身の指先の皮膚からも、ギヨの悪趣味な高濃度薬剤がほんの微量だけ経皮吸収されてしまっていたのだ。脳の奥を揺さぶるようなくらくらとした強烈な眩暈を必死に堪えながら、知の巨人は、冷たい朝の空気の中で、ただ遠くへ消えた黒い車の残響を睨み据えていた。
感想などいただければ嬉しいです! 次回はファルの過去に迫ります




