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第16話 グッドバイ エルフ

というわけで最終話です

「次の方お願いします」

 その声には、ほんの少しだけ疲労が滲んでいた。


 今日も今日とて、東京、阿佐ヶ谷のはずれにある不妊外来のある産婦人科病院は混み合っている。

二年通い続けた夫婦に、ようやく陽性の結果を伝えた。別の夫婦に、期待していた胚が戻らなかったことを伝えた。流産後の診察。治療方針をめぐる夫婦の沈黙。もう続けるべきか分からなくなった人の、静かな相談。


 ここで扱っているのは、世界を変える話ではない。


 けれど、その1つ1つが、一人の人生を変えるには十分すぎるほど大きな話である。


 カサ・デ・ラ・ビダ事件から三年。


 宿木守人は、阿佐ヶ谷の小さな不妊外来で、いつもの仕事に戻っていた。


 ファルの細胞から見つかったいくつかの因子は、母体環境シグナルや初期胚発生制御に関わる可能性があるとして、世界中で研究されている。実用化はまだ遠い。だが、それでも確かに、未来の医療へ繋がる手がかりではあった。


 一方、ギヨデルタが築いた悪魔の発明は、大き過ぎた。

彼女の死後、世界に投げ込まれた巨石として大きな波紋を起こした。


 人間を装置にし、母体を部品にし、同意から意思を抜き取り、貧困を契約に変え、命を工場のラインへ繋いだ。もちろんこれらは、許されるべきものではない。


 それでも、その悪魔の技術の奥に、人を救う可能性があったこともまた、誰も否定できなかった。


 犠牲の上に得られたデータを使うべきか、否か。

 廃棄すれば、失われた命は本当に無駄にならないのか。使えば、その有用性を認め、第二のギヨを生むことにならないのか。


 宿木は、一連の事件の始まりにいた医師として、その議論の中心に押し出された。


 歴史に埋もれていたファルという存在を患者として闇から救い出した医師。発生制御研究に倫理的な楔を打ち込んだ天才臨床医。生殖医療の暴走を止めた正義の防波堤。


 その全てが過分なものである。宿木自信はそう思っている。だから恥ずかしい。


 最初は、ただ知りたかっただけだ。

 目の前にいる奇妙な患者の身体で、何が起きているのか。医師としての誠実さだけでなく、研究者としての好奇心に突き動かされ、私欲で調べてみただけだ。けれど、腹腔内に残された異物を見つけた時からただの患者だった。助けなければならない人だった。宿木にとっては、それだけの話だ。


 町医者が困ってる患者を診ただけ。だが世間は、そう単純には扱ってくれなかった。


 待合室の壁には、雑誌の切り抜きが貼られている。サイズのあってないスーツ姿の宿木が、緊張で硬直した顔のまま、賞状を持って立っている写真だった。写真の中の宿木はどう見ても喜んでいない。

 目は泳ぎ、笑顔は引きつり、隣の研究者に比べて明らかに場慣れしていない。


ーーーカルテへ視線を戻した。日常。彼が望んで戻ってきた場所だった。


 ファルの人生に関わってから、身が引き締まった思いで日々の診療を続けている。


「・・・腹も引き締まってくれたらなぁ・・・」


 きつくなったベルトを感じながら下腹をさすり、独り言を言った。


 診療が終わったのは、午後八時を少し過ぎていた。


 待合室の照明は半分落とされ、受付の端末も閉じられている。看護師たちは片付けを終え、検査室のスタッフも最後の確認をして、次第に帰っていく。


 宿木は診察室の椅子に沈み込んだ。


「今日も生き延びた……」


 机の上には、飲みかけのコーヒーがあった。一口飲む。完全に冷めている。カップの底の方に沈殿していた糖が舌に出遅れた甘みを運んでくる。


 これ以上飲むべきか捨てるべきかを考えていると、机の端に置かれた封筒に気がついた。


 今さっき届いたのだろうか、さっきまでは机になかった筈だ。


 白い厚手の封筒。

 日本の病院に届く郵便物としては、少しだけ場違いだった。


 紙質がよすぎる。

 宛名の筆跡が美しすぎる。封筒からは独特の香水の香りがする。この匂いは覚えがある。


 差出人を見ると達筆の筆記体で読みにくいが、読めなくはない。


「……アレン!!!」


 アレン エーバーハルトとある。

 声が出た。

 誰もいない診察室で、宿木は封筒を見つめる。電子メールでもなく、暗号通信でもなく、今時、手紙。


 一体何なのだろうか・・・宿木は、なぜか周りをキョロキョロ見てから恐る恐る封を切った。


 中には、手書きの便箋が数枚入っていた。


 流れるような筆跡だった。日本語は完璧だったが、どこか古い時代の翻訳文のような硬さがあり、アレンらしいな…と感じる。


 手紙は、こう始まっていた。



ーーーーーーーーーーーーーーーー


 宿木守人先生


 今やこうした連絡は、電子的に送ることのほうが当たり前でしょう。

 忙しさが日常となった現代の時間感覚では、そのほうが合理的ではあります。

私は骨董品以上の古い人間ですから。手紙は大切な節目だと考えています。


 記録ではなく、儀式として。情報ではなく、感謝の気持ちとして。


 あれから、三年が経ちました。


 早かった、と書くべきか、長かった、と書くべきか、いまだに判断できません。


ーーーーーーーーーーーーーーーー


宿木は、便箋を持つ手を止めた。


「三年か……」


 あの日のことを思い出す。始まりは、現実味のない招集だった。

 元総理、音無玄一郎の呼びかけで、専門家たちが、都内の臨時対策室に集められていた。生殖医療の医師、麻酔科医、循環器内科医、臨床工学技士、医療機器メーカーの技術者、通信のエンジニア、通訳。


 普段なら同じ部屋に集まることのない人間たちが、豪華な会議室で、紙コップのコーヒーを片手に待機していた。


 ただ、何を待っているのか、誰も正確には分かっていなかった。

 英国側から伝えられていたのは、「特殊な患者の救命支援が必要になる可能性がある」という曖昧な情報だけだった。患者はどこにいるのか。どんな目的で招集されたのか。そもそも自分たちの出番が本当に来るのか。何も分からない。


 最初は全員が緊張していた。やがて、誰かが椅子に深く沈み込んだ。

 技術者の一人は、ノートパソコンを開いたまま目を閉じていた。寝ている。

 医師たちは、各自の専門で想定できる最悪の状況を挙げ、それでも結局「現物を見なければ分からない」という同じ結論へ戻っていった。宿木も、自分がここにいる意味を正直、測りかねていた。


 心配性の元総理の行きすぎた対応にさえ思えてきた。


 その後、夕食のあと、各自仮眠室で休んだり、各々が持ち込んだ自分の仕事をしていたりした。


 朝になり、英国側の回線が開いた。空気が変わった。


 事前に打ち合わせをしていた通信のエンジニアのおかげで、通信はあっという間に繋がった。

 次の瞬間、画面にアレンの顔が映った。


 血まみれだった。

 顔色は悪く、手は震え、白い研究室の照明を背にして立っていた。あの完璧な礼装の知の巨人が、そこではただ、ぎりぎり立っている一人の負傷者だった。そして、その向こうにファルが見えた。画面越しでも分かるくらいに真っ白な肌。


 未来的な丸いフォルムの白いベッド。無数のチューブ。見たことある装置、見たことない装置。生体情報を吐き続けるモニター。宿木の隣で、臨床工学技士が小さく息を呑んだ。


「何だ、これは」


 宿木にも分からなかった。複雑な装置に繋がれた意識不明の患者。力任せに外せば、命に関わる。


 宿木は、自分でも驚くほど強い声で言った。そこから先は、時間の感覚が消えている。

 循環器の医師が血圧と補助循環の数値を読む。麻酔科医が意識レベルと呼吸状態を確認する。培養士が液体の流れと色を見て、どのラインが栄養で、どれが回収系かを推測する。メーカーの技術者たちは、映像だけを頼りに装置のインターフェースを解析していく。


 そして、その全部を束ねる役に回された。もちろん最も詳しいわけではない。

 ただ、ファルは宿木の患者である。患者のために最善を尽くす。皆に情報を共有し、1つずつ不要なラインを閉じていき、生命維持を切らぬよう、命の納められたパズルを解いた。

 

 その後の記憶は、さらに断片的だった。フィリピン政府との連絡は音無元総理も同行して大なわれた。

 空港から病院までの医療バスの手配。集中治療室の確保。必要な血液製剤と薬剤の確認。


 空港から運ばれてきた満身創痍のアレンと、冷たい手のファル。その、どれもが昨日のことのよう思い出せるが、現実感の無さから前世の記憶のようでもあった。日常に降って湧いた非現実。


 未だに、夜中に目を覚ますと、すべてが夢だったのではないかと思うことがある。


 だが、あの時に握ったファルの冷たい手の感触だけは、忘れられるものではなかった。


 宿木は、深く息を吐き、手紙の続きを読んだ。


ーーーーーーーーーーーーーーー

 ある程度はご存じかと思います、ギヨデルタが起こした事件の調査は、ようやく大詰めを迎えています。残念ながら全容解明には至らなそうです。


 テトラクイン系企業、ダミー財団、医療ツーリズム法人、代理母斡旋組織、研究資材の密輸ルート。どれも、ひとつの線ではなく、絡み合った血管のようで、一つ闇を照らせば、また一つの闇が現れる、そんな堂々巡りに居ます。


 それでも、多くの命を救うことができました。


 カサ・デ・ラ・ビダで保護された女性たちの多くは、すでに各国の保護施設や病院に移されています。

 何も知らずに働いていた医療スタッフには、証言保護が与えられています。

 脳死状態で利用されていた女性たちについても、可能な限り身元を辿り、ご家族の元へ返す手続きが進められました。


 施設も徹底調査が行われ、私も同行しましたが、ギヨの遺体は、いまだ発見されていません。


 あなたがあの日、ファルを「患者」として扱ってくれたことが、その後のすべてのーーーー


ーーーーーーーーーーーーーーー


 宿木は、便箋から目を離した。ムズ痒いやつだ。


「だから違うんだ……」


 誰もいない診察室で、彼は小さく呟いた。続きには、ファルのことが書かれていた。


ーーーーーーーーーーーーーーー


 ファルは、正式に登録エルフとして認められました。


 最初の一年は、回復と登録手続きに費やされました。

 次の一年で、彼女は自分の足で世界を歩き始めました。

 そしてこの一年、彼女はようやく、自分の未来を自分のものとして選びました。


 現在は欧州エルフ学術評議会で彼女は私の右腕として働いています。

 もっとも、本人は「右腕」という表現を嫌がります。


 この前は「私は両方の腕で働きたい」と言っていました。


ーーーーーーーーーーーーーーー


 少し笑った。たしかに、ファルなら言いそうだなと思った。


ーーーーーーーーーーーーーーー


 彼女はこの三年、ただ保護されていたわけではありません。

 彼女がどう生きてきたのか知るために二人で世界中を歩きました。


 名もない場所で、名もない母として、あるいは姉として、乳母として、使用人として、彼女が生きてきた足跡を辿りました。


 その痕跡は、想像以上に広く残っていました。


 それは、音無玄一郎氏だけではありませんでした。


 ある国の財務大臣は、幼いころ、山間の小さな村で疫病が流行した時に、最後まで村に残り、自分を看病してくれた不思議な女性を、生涯をかけて探していました。

 疫病を恐れ村人が逃げ出す中で、彼女だけが看病をしてくれたお陰で生き残ったと。


 ある修道院には、ファルのスカーフが保管されていました。

 その修道院では昔、嵐で古い窓硝子が砕け、礼拝堂にいた子供たちへ破片が降り注いだことがあったそうです。大人たちが逃げ惑う中、裸足で硝子の上を走り、泣き叫ぶ子供たちを一人ずつ抱えて外へ連れ出した。その血を拭いたスカーフは今や祈りの対象として大切に保管されています。


 ファルは、それらの話を聞くたびに、決まって同じことを言います


 「そんな大したこと、してないよ」


私はそうは思いません。彼女の人生は、無駄ではなかった。

彼女が奪われたものは、あまりにも大きい。それを美談にするつもりはありません。彼女の苦しみを、誰かの感動物語に変えるつもりもありません。


 彼女の愛はーーー


ーーーーーーーーーーーー

 

 宿木は、便箋を読む手を止めた。

 あの日、あの夜、集中治療室での二人のやりとりを思い出す。


「私、役にたったのかな」


 アレンは答えた。


「世界を変えました」


 宿木は、病室の外でそれを聞いていた。その時、少しだけ大げさな言葉だと思った。だが、実際はそうではなかったのかもしれない。


手紙は、なおも続いている。終わりの文章はどうにも不思議な内容だった。


ーーーーーーーーーーーーー


 さて、先生。一つお願いがあります。

 実は未登録エルフが一名います。


 今や、あなたは世界でも数少ないエルフ生態学と臨床発生学の接点を知る医師です。

 私としては、その未登録エルフを、ぜひ一度あなたに診ていただきたい。


 敬意と感謝を込めて。  ___アレン・エーバーハルト


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 宿木は、便箋から目を離した。


「未登録エルフ……また……?」


 その時だった。


 廊下から、ばたばたと足音が近づいてきた。


 受付の看護師が、診察室の扉を開ける。


「あのあのあの!」


「落ち着いてください」


「ま、ま、ま、待合室に!」


「待合室に?」


「エルフが!」


 宿木は、便箋を見た。


 待合室を見た。


 もう一度、便箋を見た。


「……まさか」


 宿木は立ち上がった。


 診察室の扉を開け、待合室を覗く。


 そこに、三年前と同じように、片耳の欠けたエルフが座っていた。


 同じような古風な服。同じような小柄な身体。同じように、どこか場違いな存在感。


 だが、同じではなかった。


 顔つきが違う。


 かつてのファルは、世界に対して申し訳なさそうに座っていた。自分がここにいてよいのか分からない顔をしていた。誰かの役に立たなければ、椅子に座る資格すらないと思っているような目だった。


 今の彼女は、地に着いた自信を持ち、まぶしいほど穏やかだった。


 片耳は欠けたままだ。髪も赤紫のままだが、以前のような乾いたパサついた髪ではなかった。肌は信じられないほど艶やかで、目元には柔らかな力が戻っていた。


 そして彼女の腕の中には、赤ん坊がいた。一歳に満たないほどの、小さな子だった。柔らかな布に包まれ、機嫌よさそうに眠っている。


 耳が、長い。


 宿木は、診察室から半分転がるように出てきた。


「ファル子さん!」


 ファルは顔を上げた。そして、あの日の集中治療室では見せなかった、まばゆい笑顔で言った。


「お久しぶりです、先生」


「お久しぶりですじゃないですよ。え、いや、え?」


 赤ん坊を見た。


 長い耳。小さな鼻。薄いまぶた。握られた小さな手。


 エルフの子だ。


「一体、誰の……」


「サプラーイズ」


 待合室の観葉植物の陰から、背の高い男が出てきた。


 アレン・エーバーハルトだった。


 以前と同じように整った服装。以前と変わらず静かな立ち姿。だが、決定的に違うものがあった。


 気まずそうな顔をしている。


 宿木は、ファルを見た。赤ん坊を見た。再び、アレンを見た。

 机の上に置いてきた手紙を思い出した。


 数秒かかった。


「あ そういうこと!」


 宿木は手を打った。アレンは、深く息を吐いた。


「宿木先生。手紙を読めば、この子が私たちの子であることは明白でしょう」


「いや、未登録エルフって書いてあったら、普通はまた事件だと思うでしょう!」


「なぜですか」


「なぜですかじゃないですよ。英国式のジョークだとしたら下手すぎです。貴方何年イギリス人やってるんですか」


 アレンは少し考えた。


「四百年ほど……」


 ファルがくすくす笑った。宿木は、彼女が抱える赤ん坊を真正面から見た。


「私たちの子です」


 医師として見れば、確認したいことは山ほどある。


妊娠週数。分娩時期。分娩様式。出生体重。アプガースコア。エルフの胎盤と臍帯、羊水量と胎児発育曲線はどんなものなのか。産後の回復経過。授乳は成立しているのか。知りたいことが山のように頭にあふれ出た。だが、それより先に出た言葉は、もっと単純だった。


「おめでとうございます」


 ファルは、少し照れたように笑った。


「ありがとうございます」


 アレンは、宿木へ歩み寄った。宿木も手を伸ばした。


 握手になるはずだった。だが、途中でどちらともなく、ぎこちない感じに抱き合う形になった。


「お久しぶりです」


「本当に」


 宿木は、アレンの背中を軽く叩いた。ハグが終わり、アレンが言葉を探しているような感じを受けて、先手を打つ。


「いやー 九百年の恋が成就して、よかったですね」


 アレンが珍しく露骨に目を逸らした。


「その表現は、少々」


「姉さん女房かぁ。尻に敷かれますよ」


「すでにその傾向はあります」


「アレンは昔から、言うことを聞く子でした」

横から言った。宿木は笑った。その笑いは、三年前の病院で張りつめていたものとは違った。


「先ほど、音無元総理のところにも挨拶してきました」


「相変わらず、元気そうでした」


 ファルは赤ん坊を抱き直しながら言う。


「玄ちゃん、泊まっていけ泊まっていけって、駄々をこねてましたね」


「八十を過ぎた元総理が、駄々を……」


「はい」


 アレンは真顔で頷いた。


「かなり本格的でした」


 宿木は想像して、大笑いした。


「それは見たかったような、見なくてよかったような」


 アレンとファルが待合室を見渡した。


「先生、あの写真」

「見ないでください」


「賞を取ったんですね」

「見ないでください」


「緊張してますね」

「だから見ないでください」


「日本発生生物学会フロンティア賞ですか。素晴らしいじゃないですか」

「やめてください。本人より周囲が喜びすぎたやつです」


「先生は、本当にすごいんですよ」


 ファルが言った。


 屈託のない顔だった。

 だから余計に、宿木は返事に詰まった。


「私は別に……」

「先生は、私を患者にしてくれました」


 待合室が、ふっと静かになった。


 受付の看護師も、いつの間にか手を止めていた。ファルは、赤ん坊を抱き直しながら、ゆっくりと言った。


「あの時の私は、自分が人なのか、エルフなのか、道具なのか、もうよく分からなくなってました。痛いのも、怖いのも、困ってるのも、全部、自分が我慢すればいいことだと思ってました」


 何も言えなかった。


「でも先生は、私に聞いてくれました。どこが痛いですかって。怖いですかって。嫌なら嫌って言っていいですよって」


 ファルは少し笑った。


「それが、すごかったんです」


「いや……それは、医者なら」


「先生に見つけてもらって本当に良かった」


 その言葉には長い時間を生きてきた者の、静かな事実だけがあった。アレンが、珍しく口を挟まなかった。宿木は左手で目頭を押さえ右手で遮った。


「ちょっと、そういう雰囲気にするのはやめてください。苦手なんです」


「そういう雰囲気?」


「泣かせにくる雰囲気です」


 ファルは首を傾げた。


「泣いてもいいんですよ?」


 屈託無い顔で言われるものだから、宿木は言葉に詰まった。


「先生、ご飯に行きましょう」


「今からですか」


「はい。この子も今日は機嫌がいいですし」

「いや、でも診療後で、私は」


「先生のご家族にも、もう連絡してあります」


 宿木は固まった。


「誰が」


 ファルは、にっこり笑った。


「私が」


「どうやって」


「玄ちゃんが電話番号を教えてくれました」


「前前から思ってたんですが、あの元総理、個人情報の扱いが雑!」


 アレンが言った。


「医院の前に車を待たせています」


 ファルは立ち上がった。赤ん坊が小さく身じろぎする。


 宿木は、その子を見た。


「名前は?」


 ファルとアレンは、顔を見合わせた。少し照れた沈黙があった。


「まだ、内緒です」


「なぜ」


「ご飯の時に発表するからです」


 冷たい夜風が、阿佐ヶ谷の小さな通りを抜ける。三年前、ファルが初めてここへ来た日とは違う風だった。

 あの時、彼女はどこにも帰る場所がなかった。今は、行き先を自分で選べるようになっている。宿木は、そのことに気づき、少しだけ胸が詰まった。


 ファルが振り返る。


「先生」


「はい」


「私、元気ですよ」


 宿木は頷いた。


「見れば分かります」


 赤ん坊が、小さく声を漏らした。



同じ夜。


 世界最大級の多国籍製薬メガコンソーシアム、テトラクイン・グループ本社の最上階では、本日最後のオンライン会議が終わろうとしていた。


「本日の議題は以上です、会長」


 秘書が言った。


「ご苦労」


 初老の男。ハンス・アイビー・テトラクインは、長い会議用テーブルの端で、最後の資料にサインをし、仕事を終える。


 カサ・デ・ラ・ビダ事件への関与を疑われ、あらゆる手を尽くし、会社を守り切った。

 一時的に株価は急落したものの、ギヨの残した技術は飛び抜けて世界を席巻し、バイオ業界の帝王の座は揺るがなかった。


 白髪は丁寧に整えられ、濃灰色のスーツは皺ひとつない。顔には柔和な笑みがあるが、その目は笑っていない。製薬、再生医療、臨床試験支援、医療保険、様々な会社を束ねる男。


 表向きは、医療の未来を語る慈善家。裏では、生命を最も高く売る商人。


「車を」

「いつものお車でよろしいですか」

 ハンスは立ち上がった。

「今日は、自分で運転する」


秘書は一瞬だけ驚いたが、すぐに表情を消した。

「承知いたしました」


 地下駐車場には、黒いベントレー・コンチネンタルGTが停まっていた。ハンスは運転席に座り、白い手袋を外してステアリングを握る、エンジンが低く唸る。


 やがて、車は廃墟の前で止まった。かつて動物園だった場所だ。


 入口の看板は錆び、動物の絵は剥げ落ちている。檻は空で、売店は崩れ、観覧車の骨組みだけが月明かりの下に残っていた。ハンスは当たりを見回し誰も居ないことを確認すると車を降りた。


 古い監視カメラが、かすかに角度を変えた。

 彼は門をくぐり、迷いなく奥へ進む。

 猿山だったコンクリートの丘を越え、爬虫類館の割れたガラス扉を通り、さらに奥の飼育員用通路へ入る。そこには、まだ電気が通っているのか、蛍光灯が明滅している。


 部屋の奥。光の届かない隅に、人影があった。顔は見えない。


「そろそろ仕事に戻っていただかないと、商売あがったりです。先生」


 影が、わずかに動いた。

 そこから、嫌味な声が聞こえてきた。


「シシシシシ」



END

ひとまず完結です! おまけがあります。

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― 新着の感想 ―
めちゃくちゃハッピーエンド…!宿木先生視点久しぶりで嬉しいです。確かに最初は阿佐ヶ谷のこの病院から始まったんだよな〜と前のお話を思い出しながら読んでいました。アレンさんがファル子さんと結ばれて良かった…
アレン…よかったですねぇ〜…千年の恋が叶って!本当にお幸せにです~…!! ギヨせんせ、やっぱり生きていらっしゃったか…!!流石に人間離れしすぎている…!あ、人間じゃなかったか!笑
最初から最後まで面白かったです! ファルと宿木が言う「自分は大したことはしていない」、当たり前のことを"いつでもどんな状況でも”当たり前にやる人は貴重、と知ってしまった汚れた大人には、この二人がとても…
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