第15話 ハローチェックメイト
いよいよ決着です ギヨ先生はどうなるの?
黒い扉は、静かに開いた。
開いた、というより、最初から開くことを予定していたような動きだった。厚い金属の板が左右へ滑り、内部の気密がわずかに鳴る。白い霧のような空調が足元へ流れ、アレンの靴先を撫でる。
扉の奥から、ラゼベル・ギヨデルタの肉声が響く。
「どうせ、プラスチック爆薬で吹き飛ばすつもりだったんでしょう?」
答えず歩を進める。手の中の銃が重い。
毒の後遺症で、指先の感覚は鈍い。視界の端には、先ほどまで皮膚を這っていた小さな生命の残像を感じながら銃を握りしめる手に力を入れる。心拍は平常より速く、呼吸は浅い。
最低限の辺りの警戒をしつつ研究室へ入った。
中は王座の間でもない。手術室でもない。研究室と管制室と礼拝堂を、雑然と溶かし込んだような空間。
ギヨの性格、生き様をそのまま体現したような、歪なツギハギのハイテク要塞。
床は壁も天井も真っ白で無機質で清潔。
そして無秩序に並ぶ機器の数々。そこに置かれたもののバランスの異様さが際立っていた。
パーティションで区切られた区画は壁一面には大小のモニターが並び、カサ・デ・ラ・ビダ全域の映像が映されている。
中層の螺旋通路。中央エレベーター。医療スタッフの避難区域。倒れたMONO型。血だまり。大佐たちのいるフロア。ここからこの女はこの施設を自分の体のように操り、指示を出していたのか。
研究室のいたるところにモニターがあり、ある画面には、コンソール情報だけがあった。
ーーーーーーー
MOTHER-0 / FAL-MATRIX CORE
STATUS:CONNECTED
HR:42 bpm
SpO₂:93%
EEG:δ波優位/微弱な覚醒反応あり
CORE TEMP:34.8℃
BP:82 / 46 mmHg
REGENERATION INDEX:312% ↑
SYNCHRONIZATION:79%
WARNING:PERSONALITY NOISE DETECTED
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アレンは、その最後の一行を見て、奥歯を噛んだ。
【人格ノイズ検出】
ギヨは、まだそこに残っているファルの意識を、ただのノイズとして扱っていることを意味している。
研究室のさらに奥のガラス隔壁の向こうに、療養研究室があった。
そこに、ファルの姿が小さく見える。
白いベッドに横たわり、眠っているように見える。
ファルの瞼は閉じている。ファルの魂は完全に消えてはいない。アレンは確信した。
アレンには分かる。彼女はまだ、そこにいる。
「今すぐ彼女を解放しろ」
声は低かった。
研究室の中央で、ギヨは小首を傾げた。
モノクルは外されている。
左側に並ぶ二つの眼球と、右目。三つの目が、カメレオンのごとくそれぞれ別の焦点で状況を見定めている。
派手な羽飾りは乱れている。
黒いコートの前ははだけ、左胸の人工心肺コントローラーが露出している。そこから伸びる細い配管は肋骨の下へ消えていることが見て取れる。
彼女は、武闘家ではない。肉弾戦で強い敵ではない。
骨格は細く、肉付きも筋肉より脂肪層が厚い女性的なメリハリのあるグラマラスな体型。
筋肉の張りはあるが、戦闘で鍛えたものではない。動作の中心が研究机とコンソールにある。ギヨの戦いの本質は、この身体ではない。
この島だった。
この建物だった。
この作戦そのものだった。
「満身創痍じゃない、貴方」
ギヨが笑う。
「そんなので、私と戦えるかしら?」
彼女の右手が、白い机の陰へ滑った。
銃。
それを見た瞬間、アレンの腕が動いた。
発砲音は1回。
ギヨが手にした銃が床を滑っていく。
同時に、彼女の右手の人差し指が、ありえない方向へ折れていた。
「っ……!」
ギヨは、困難な状況でも作り笑顔で口角を引き上げるが、痛みでそれはジグザグに痙攣している。
アレンは銃口を下げない。
「お前は賢い。そして臆病なくらい慎重なのを知っている」
彼は言った。
「そう……お前は、慎重すぎるんだ」
血走った三つの目が、アレンを睨む。
「本当に私を殺すつもりなら、ほんの少しの勇気があるのなら、私が毒への処置に集中していた先ほど、扉を開け出てきて撃てばよかった。
だが、お前は出てこなかった。あれが演技かもしれないと警戒したからだ」
アレンが一歩、前へ出る。ギヨは一歩下がる。
「それほど警戒心の高いお前が、今、武器もない。建物の外側は制圧。中層も突破された。可愛そうな改造兵も足止めにしかならなかった」
銃口が、ギヨの胸元へ向く。
「諦めろ チェックメイトだ」
ギヨは、一瞬だけ黙った。
そして、笑った。
「シシシシ」
その笑いは、いつもより少しだけ乾いていた。
「そいつは、どうかしら」
次の瞬間、ギヨの身体が沈んだ。
床を蹴ったというより、関節が液体に変わったような動きだった。肩が落ち、腰が滑り、頭が遅れてついてくる。人間の動きとしては気味が悪いほど、軸が読みにくい。
彼女は、ぬるりとアレンの視界から消えた。
背後を取る。指には骨を切断するためのワイヤーソウ。しかし、歴戦のエージェントは振り向かない。
気配を感じて肘だけを回す。裏拳が、ギヨの顔面を捉えた。
「ぎょぉぷ」
しなやかで軽い身体が吹き飛ぶ。
研究机に背中からぶつかり、ガラス器具と端末を巻き込んで床へ転がった。
「戦闘までは本業ではないようだ」
アレンは言った。ギヨは口元の血を舌で舐めた。
「嫌な男」
彼女は机の上へ手を伸ばす。
メス。細い手術用の刃を掴み、すぐ横にあった緑色の液体へ先端を浸す。
その動作だけで、アレンは一歩、足を止めた。ギヨはそれを見てシシシと笑う。
「これは猛毒も猛毒よ」
メスの先端から、緑の液体が一滴落ちた。
「擦っただけで、貴方は助からない」
アレンは、ギヨの脚を狙って撃った。ギヨは、倒れ込むようにそれを避けた。
避けるときの脚で机の上の器具をなぎ払う。培養皿、薬液瓶、細いケーブル、エッペンドルフ。実験デスクの上にあったものが一斉に宙を舞い、アレンの視界を遮った。
ギヨが跳ぶ。
メスの刃が、アレンの顔へ向かう。
アレンは銃を引き戻しきれない。
左手を出した。刃が掌を貫いた。
肉を裂き、骨の間をかすめる感覚。
ギヨの顔が、歓喜に歪む。
「殺ったぁ!」
彼女は叫んだ。
「シシシ、毒が――」
「嘘なんだろ」
アレンは遮った。掌を貫いたメスごと、ギヨの右手を掴んでいた。笑みが止まる。
血が落ちる。だが、アレンの呼吸は乱れない。
「お前は慎重で、臆病だ」
アレンは静かに言った。
「自分が被曝する可能性のある猛毒を、振り回すわけがない、実験デスクに出しっぱなしにするわけがない。制御不能の毒を自分の近くへ置くわけがない」
ギヨはメスごと手を引こうとした。
アレンは放さなかった。
実際、ただのはったりだった、神経毒でも、細胞毒でもない。
彼は、メスを握ったまま、ギヨの手首を捻った。ギヨは地面に押し倒される。カランカランと乾いた音でメスはどこかに転がっていく。
「観念しろ、ギヨ」
アレンは銃を持ち替えた。
そして、ギヨの開いた胸元へ銃口を押し当てる。
ギヨは荒い息を吐いていた。鼻血を出し、髪は乱れ、羽飾りは床に落ちている。右手の人差し指は折れ、左頬には拳の跡が赤く残っていた。
それでも彼女は、笑おうとしていた。
「今度こそチェックメイトだ」
アレンは言った。
「君を殺したくはない」
それを聞いて三つの目が細くなる。
「何百年かかろうが、罪を償ってほしい。お前がしたことを、お前自身が理解するまで」
数秒、沈黙が落ちた。研究室の奥で、ファルの装置が低く鳴っている。
心臓のようなポンプ音。人工子宮ポッドの小さな拍動。コンソールから定期的に聞こえるステイタス変化を知らせるビープ音
そのすべての音の中で、ギヨが小さく息を吸った。
そして、笑った。いつもの作り笑いのシシシではなかった。最初は小さく、次第に大きく。
「くくくく、カカ アーッハッハッハッハ! ヒーヒヒィヒ あっははあ」
研究室全体が揺れるほどの、大声だった。
芝居でもない。本心本音の大笑い。三つの目には笑い涙まで滲んでいる。
「甘い。甘いよ、甘すぎるんだよアレン」
ギヨは、アレンの手に自分の手を重ねた。
「本当のチェックメイトはね こう!」
アレンが動こうとした瞬間には、もう遅かった。
ギヨはアレンの指を押さえ、そのまま自分の胸へ銃を押し込んだ。至近距離の曇った銃声が轟く。
引き金が引かれると同時にギヨの身体が跳ねた。
弾丸は胸を貫き、背後の白い床へ血を散らした。ギヨは大量の血を吐き、目を見開いた。
その最後の形相にアレンは、銃を取り落としそうになる。
力無く崩れたギヨの三つの目が、わずかに開いていた。その目に、もう焦点はない。
アレンは即座に彼女を床へ寝かせ、頸動脈に触れた。
ない。
胸に耳を近づける。
心音もない。
瞳孔が散大していく、呼吸もない。命の灯火が目の前で消えていくのが分かる。
確実な死。
少なくとも、アレンが千年の生で見てきた死の徴候は、すべてそこにあった。
「なぜだ」
問いは、誰にも届かなかった。
奥の療養研究室で、警告音が鳴った。ファル。
アレンはギヨの胸元にクリップ止めされたカードキーをそっと抜き取った。
白い床に、ギヨの血が広がっていく。
アレンは振り返らず、奥の隔壁へ走った。
カードキーをかざす。赤いランプが一瞬点滅し、次いで緑へ変わると扉が開いた。
中は、冷たい部屋だった。
療養研究室とドアに書かれている。だが実際には、ファル一人を中心に組まれた生体制御室だった。
ファルは、白い中央のポッドのようなベッドに横たわっていた。
頬は青白い。
髪は汗で額に貼りつき、唇には血の気がない。
だが、胸は微かに上下していた。
彼女のまわりには数体のポッドがあり、それらには人工呼吸器につながれた真っ白な顔の女性がそれぞれ入っている。ファルの両腕には太いチューブが接続されている。
鎖骨下にも、腹部にも、頸部にもいくつもの細いチューブが接続されている。
透明な液体が入り、薄い赤色の液体が戻り、なんらかの処理が行われ別の機械へ流れていく。
部屋の壁には、人工子宮ポッドに似た半透明の槽がいくつも並び、膜の内側が生き物のように微かに脈打っていた。ファルは命を繋ぐ複雑なパズルの一部にされていた。
アレンは、彼女の手に触れた。
冷たい。ーーが、死の冷たさではない。
「ファル」
返事はない。
端末には相変わらずステイタスが表示されている。腰のベルトにつけられたポーチから通信端末を開いた。
英国本部へ連絡すると、日本の医師がチームを作り待機しているという。
何度目かのノイズのあと、映像が繋がった。
「あ、あの、大丈夫でしょうか、だ、大丈夫じゃないと思いますが大丈夫でしょうか」
宿木守人の顔が映る。
東京。日本側の臨時対策室に通信が繋がる。
宿木の背後には、音無玄一郎もいる。七十七歳の老人の顔は疲れて切っていたが目だけは落ち着いていた。その周囲には、宿木の同僚と思われる医師、麻酔科医、循環器の専門家、培養系の研究者、さらには医療系システムに詳しい様々なメーカーの技師。彼らは音無玄一郎元総理の呼びかけで集められている。
来るかどうかも分からない出番に備え皆万全の体制。全員、眠っていない顔をしている。
『アレンさん』
宿木が言った。
『ファルさんは』
「無事です」
その言葉に、画面の向こうで音無玄一郎がわずかに目を閉じた。宿木は画面の端で無言でガッツポーズをしている。しかし、すぐに医師の顔へ戻る。
「ただ……彼女は複雑な装置に繋がれており、私一人ではどうすることもできない状況です」
『装置を見せてください。全部です。警告表示、循環、薬液、ラインの色、分かる範囲で』
アレンは通信端末を動かし、装置の全容を届ける。チーム全体に動揺が走っているのが見て取れる。
画面の先では、宿木医師が何人かの技師と話をし厳しい顔で戻ってきた。
『お分かりでしょうが無理に外すと危険です。おそらくファルさんの循環の一部を装置側が肩代わりしています。ラインを一気に切ると危険です』
「承知している どうすればいい」
『こちらにこうした医療設備に詳しい専門家もいます、彼らと連携ととって順番に外していきましょう。こちらで画面を見ます。アレンさんは、僕らの言ったものだけ触ってください。分からないものは触らないでください』
「分かりました」
『あと、アレンさん』
「何です」
『あなたも顔色が最悪です。倒れないでください』
「それは保証できないかな」
アレンはブリティッシュジョークで返すが、宿木にその意図は伝わっていない。
『駄目です。今、倒れたら後がありません』
宿木の声は、珍しく強かった。
『返事をしてください』
「……はい、倒れません」
『よし』
ーー命を繋いだパズルの解読が始まった。
日本側でシステムの情報を元に専門家が寄り合い、解析、指示を出す。
アレンが従う。
画面の向こうで、別の医師が数値を読む。研究者が装置の構造を推測する。
焦らなかった。焦れば、ファルの命を奪ってしまうかもしれない。
太いラインを一本ずつ切り替える。
薬液の流れを止める。
補助循環を段階的に落とす。
MOTHER-0の同期を切っていく。
ファルの身体が、自分自身の拍動を取り戻すまで待つ。
ファルの指が、わずかに動いた。
アレンは息を止めた。宿木が言う。
『急がないで』
ファルの胸が、小さく上下する。
モニターの警告が、一つ消えた。
次いで、もう一つ。
MOTHER-0同期率が、79から60へ落ちる。
54。
38。
10。
4。
最後に、画面が赤く点滅した。ビーっというアラートが数秒なり装置は沈黙した。
MOTHER-0
同期喪失
部屋に、物々しい装置のモーター音が減り、眠り続ける女性らのポッド用の呼吸器が動く音と心電計の音だけが残った。
アレンは、彼女の頬に触れた。
「ファル」
瞼が震え、意識が戻りつつあることが分かった。ゆっくりと数分かけ、ファルが目を開ける。
焦点はすぐには合わない。
薄い瞳が天井を見て、機械を見て、最後にアレンを見た。
「……アレ、ン」
掠れた声だった。表情が崩れた。百戦錬磨のエージェントから最愛の人を取り戻したただの男の顔になっていた。
「はい」
ファルは、何かを言おうとした。
だが声にならず、代わりに小さく息を吐いた。
アレンは彼女を抱き起こした。
無理に強くは抱かない。チューブの外れた跡、皮膚の赤み、痩せた肩、冷えた指先。壊れ物のように丁重に、これ以上失わないように。心の底から、そっと抱きしめた。
「遅くなりました」
ファルは、アレンの肩に額を預けた。
「……泣き虫アレン だったのね 覚えてるよ」
ほとんど息のような声だった。最愛の人を取り戻しその安堵に目を閉じた。一本の涙があふれ出た。
「はい ファル姉さん」
扉の外で、足音がした。大佐だった。急いで涙を拭い、エージェントの顔に戻す。
「おっと お邪魔でしたかな」
折れた腕を固定し、顔色は悪い。それでも立っている。背後には、意識を取り戻した二人のSIS隊員がいた。さらにその後ろに、耳元に包帯をまいた若手が壁にもたれながら立っていた。全員満身創痍だったが生きていた。時計を見ると9時15分を指していた。島への突入から数時間……長い長い朝だった。
「コーヒー、先に淹れるつもりだったんですけどね」若い隊員が生意気そうに言う。
アレンは、ほんのわずかに笑った。
宿木の声が端末から飛ぶ。
『笑っている場合ではありません。全員、医療搬送が必要でしょう』
音無玄一郎が、画面の奥で深く頭を下げていた。
『フィリピン政府にはすでに連絡済みだ、暫くすれば迎えが来るだろう ふある姉やを……頼みます』
アレンは頷いた。
「必ず」
そして、ふと思い出したように大佐にアイコンタクトをする。
「手前の部屋に、ギヨの遺体があります」
その一言に、大佐の表情が変わった。
「死亡確認をしたということか」
「ああ。脈も呼吸も心音も。……弔ってやってください。敵でも、死者で、それに数少ない――」
そこで言葉が止まった。大佐は何も言わず、数秒だけその顔を見つめた。そこにあったのは、これまで戦場では一度も見せなかった、深い疲労と哀惜の色だった。
大佐の返事は意外なものだった。低い声で告げる。
「アレン。……死体などなかった」
「……何?」
「ここへ来る道は一本だけだ。荒れた研究室を通ってきた。あの状態で人一人倒れていれば、見落とすはずがない」
抱えていたファルの重みが、急に消えたような感覚がした。
彼女をベッドへそっと戻し、隣室へ向かう。白い床。
倒れた研究機材。砕けたガラス。壁の弾痕。
そして、床の血だまり。
そこにギヨの亡骸は無かった。確かにここにあったはずだ。
胸を撃ち抜かれた身体を床へ寝かせた。頸動脈へ指を当てた。胸に耳を寄せた。呼吸も心音もなく、開いた瞳孔まで確認した。千年という時間の中で、死を見誤るなんてことはあり得ない。確かに死んでいた。
「……そんなはずはない」
声が、自分でも驚くほど乾いていた。
床に広がった血痕は、すでに縁から赤黒く乾き始めている。だが、その中心にあるはずのものだけが消えて存在しないことに理解が追いつかなかった。
「誰が……」
問いに答える者はいない。
ただ、主を失った研究室で機械の冷却ファンだけが回り続けていた。
ーーーそこからの撤収は早かった。
カサ・デ・ラ・ビダの外縁は、すでに英国とフィリピン側の合同部隊によって制圧されていた。港も、滑走路も、第二ヘリポートも、巨大なコンテナエレベーターも沈黙している。
楽園を装っていた島から、その皮だけが剥がれ落ちていった。
残されたのは救助、証拠保全、事情聴取。そして、この場所で行われていたことを各国がどう処理するかという、戦闘よりも長く続く政治的な後始末だった。
身重の女性たちは順次保護された。事情を知らず勤務していた医療スタッフは別区画へ移され、聞き取りが始まる。武装していた者たちは拘束され、装備と記録媒体が回収された。
MOTHER-0の周囲で生命維持装置に繋がれていた女性たちは、すでに脳死と確認された者たちだった。検体でも、筐体でもない。それぞれに名前があり、人生があり、待つ家族がいる。
それを取り戻す作業も始まっていた。
長い朝が、ようやく終わろうとしている。
ファルは再びその腕の中にいた。
戦闘の騒音も警報も遠ざかり、今はただ、小さな呼吸だけが胸元に伝わってくる。
眠っているようだった。自分の手に戻ってきた。今度こそ、誰かの装置としてではなく。
「もう、大丈夫……だよぉ」
弱々しい声で、彼女は言った。アレンは答えた。
「それはこっちの台詞……いや……」
日本に戻るまでの記憶は、断片的だった。
ヘリのローター音。
海の朝焼け。
大佐が痛み止めを拒否し、医療班に怒られる声。
若手が耳を押さえながら、気圧はもう勘弁だとぼやく声。
宿木の通信が途切れないよう、何度も回線を繋ぎ直す技師の声。
そして、ファルの小さな寝息。
日本には、18時過ぎに到着、元総理の計らいで空港から集中治療室への直行便の医療バスが用意されていた。空港に近い大型国立病院に向かう。
宿木守人は、白衣のまま病院で待っていた。
音無玄一郎もいた。背筋は伸びていたが、杖を握る手は震えていた。
ファルは搬送ベッドの上で、薄く目を開けた。
「もう大丈夫」
「駄目です」
宿木が即答した。
「大丈夫な人は、そんな顔色で搬送されません」
「でも、私、けっこう丈夫で……」
「丈夫な人ほど、医者の言うことを聞かないんですよ、今日は嫌でも言うことを聞いて貰います」
宿木は看護師へ指示を出しながら、ファルを集中治療室へ押し込んだ。
アレンも中へ入ろうとしたが、宿木が止めた。
「あなたも患者です」
「私は」
「あなたも患者です」
宿木は二度言った。その声には、反論を許さない医師のプライドが滲み出ていた。
「ファルさんを助けたいなら、まずご自身を治してください」
アレンは、黙った。
*
数時間後。深夜。病院の主要な照明は落とされている。
集中治療室の照明も落とされていて、機械のLEDの点滅がまぶしい。
タタタタタと機械音が静かに鳴っている。
ファルの呼吸は安定し、血色も少し戻っていた。アレンは最低限の治療を終え、本来は就寝しているはずだが、起きていた。眠い目をこする宿木はアレンのしつこさに折れ、短時間だけならと面会を許した。
アレンはベッドの横に座った。
ファルは目を開けていた。
薄い瞳が、ぼんやりとアレンを見ている。
「……泣き虫アレン?」
「はい」
「夢じゃなくて?」
「はい」
ファルは、しばらく黙っていた。それから、少しだけ笑った。
「大きくなりましたね」
ファルはアレンの頭に手を伸ばす、アレンは頭をさげ頭をなでさせた。
「九百年、かかりました」
「そんなに?」
「はい ずっと探していました」
「私……なんかを?」
「はい」
ファルは、天井を見た。
長い長い沈黙だった。
「そっか」
その一言には、九百年分の疲れがあった。
アレンは言った。
「遅くなりました」
ファルは首を横に振ろうとして、うまく動かせず、代わりに目だけを優しく細めた。
アレンの手が、ベッドの横で握りしめられる。ファルは、その手に指を伸ばした。弱い力だった。けれど、確かに触れた。
「アレン」
「はい」
「私、役にたったのかな」
アレンは、息を止めた。そして、ゆっくりと答えた。
「世界を変えました」
ファルの目から、涙が一筋落ちた。
「そっか・・・……」
ファルは、長く息を吐いた。
その顔から、力が抜けていく。
「じゃあ、少し寝るね」
「では、明日……また」
ファルは、薄く笑って目を閉じた。
アレンは、その手を握ったまま、動かなかった。
千年近く失われていた会話は、驚くほど短かった。
だが、それで十分だった。眠りに落ちていくしなやかな手をずっと強く握り返していた。
「ああもう、入り辛ぁあ 早く病床に戻れってどのタイミングで言えばいいんだよ 」
集中治療室の入り口の横で、ボサボサに伸びたヒゲをいじりながら宿木医師はタイミングを計りかねていた。
大団円? 後1話続きます。応援のメッセージや感想などいただけると励みになるので、ヨロシクオナシャス




