第10話 ハロージャバウォック
後半の展開をなおしすぎて遅くなりました 後半戦です
午後4時15分
「音無ふあるこ・・・ふある姉を・・・どうか・・・」
音無元総理。力無い齢80歳の少年の言葉。
提示された仁川の座標を脳裏に焼き付けたまま、宿木たちはすぐさま麹町の屋敷をあとにした。秘書が手配したスモークガラスの黒い高級車は、夕暮れの都心を滑るように走った。
車内で、アレンは一度だけ電話をかけた。
通話は短かった。英語だった。
宿木には、すべては聞き取れなかった。
だが、アレンの声が変わったことだけは分かった。
それは、映像の中で見た。学会の壇上で聴く声ではなかった。穏やかな紳士の、場を和ませるための声でもない。単語のひとつひとつが、余計な感情を削ぎ落とされ、鋭利な金属片のように相手へ差し込まれていく。電話を切ると、アレンはしばらく黙っていた。傍目には25歳程度の若者だが、その眼差しに宿る光は確実に悠久の時を生きた経験値を燻らせていた。
「本当に、仁川に行くのですか」
宿木は沈黙に耐えきれず、聞いてしまう。
「はい」
「いや、その、言い方が悪いですが……行って、どうにかなるものなんですか。相手は国際的な企業と、外交特権と、たぶん、警察が触れない闇の力を使って動いている」
「だからこそ、私が行くのです」
アレンは、窓の外を見たまま答えた。
「国家には、表の顔があります。法、条約、手続き、声明、会見。どれも重要です。しかし、それだけでは届かない場所がある。届かない場所へ、届かなかったことにして手を伸ばすための制度もまた、国家は持っています」
「……それを、貴方が作ったんですか」
「一部は」
アレンは否定しなかった。
「ファルは今、生命科学の希望であり光です 絶対に闇に委ねてはいけない」
生命科学。自分が扱ってきた「不妊治療」も生命科学だ。ここに来て、自分に重くのし掛かる現実を噛みしめていた。妊娠。出産。母体。胚。細胞。遺伝子。
それらは、家族の希望であり、医療の対象であり、同時に政治と資本の動力源ともなる。
命は尊い。尊いから高く売れる。
高く売れるから奪い合いが起こる。
その単純な事実が、宿木の胃のあたりを重くした。
車は港区麻布の広大な敷地にそびえる駐日英国大使館へと入っていく。
門構えの前に普段は地面からせり出している車止めはなくなっており、アレンの乗った車が滑り込んでいく。大使公邸に入るとその石造りの城塞の地下には、まったく別の世界があった。
分厚い防音壁。無機質な白い通路。カードキーと生体認証。壁面には、見慣れない通信端末と、外交文書を扱うには妙に無骨すぎる機材が並んでいる。
そこは、外務省の外交特権と英国秘密情報部の最高機密に守られた、極東におけるインテリジェンス活動の心臓部だった。
防音ガラスの向こうでは、「外交官」の肩書きを持つ現役のエージェントたちが、仁川までの非公式ルートを確保すべく、低い声で暗号通信を交わしている。
アレンは、地下の一室で支給された防刃仕様のダークスーツに着替えていた。機能性を極めた無駄のない服だ。普通の人間が着れば、ただの警備会社の人か、妙に高級な葬儀屋か。
しかし、アレンが着ると違った。
その翠玉色の瞳には、昼間までの温厚な学者の面影がなかった。そこにあるのは、何百年も影の世界を生き抜いてきた狩人の圧力だった。
「ギヨが仁川のラボでファルの初期検査を行うなら、そこが唯一の隙になる。時間は早くて24時間。長くて48時間です」
「私は、どうすればいいでしょうか」
アレンは、少し口元に軽い笑みを作り、荷物をまとめる手を止めた。
「ドクター。あなたは行けません」
「・・・それは・・・分かっています」
「分かっていない顔をしていますが」
宿木は黙った。
アレンは近づき、肩に手を置いた。力は強くない。だが、拒絶の余地はなかった。
「これから先は、医療現場ではありません。法も倫理も、届くまでに時間がかかりすぎる場所です。あなたの世界ではない」
「それも、分かっています」
アレンの声は穏やかだった。
「あなたの手は、テロリストと戦うものではない、もちろん銃を握るためのものではない。患者をこちら側へ戻すためにある。私は彼女を闇から引き剥がします。あなたは、戻ってきた彼女を診る。その準備をしてください」
「戻って、来ますよね?」
「当然です」
即答だった。
「私は、奇跡を闇から闇へ葬ろうとする者たちを追う。あなたは、戻ってきた彼女を診る。お互いに、己の領分を全うしましょう」
アレンはそう言うと、脇のホルスターに一挺の拳銃を滑り込ませた。
ドイツ、H&K社製のP7。
重量850g、装弾数13発。グリップを強く握り込むことで初めて発射可能になる、スクイズコッカー式のピストル。設計開発から半世紀もの時を経た殺しの道具である。その鋼塊は、アレンの佇まいに恐ろしいほど馴染んでいた。
「ファルが戻る場所は貴方です ドクター」
アレンはそう言って、別室に消えていった。
全てはは、ただの知的好奇心で音無ふあるこを診たことに始まった。そこからの運命はもう受け入れるものだという強い思いを抱いていた。
*
午後11時38分。
韓国、仁川。バイオ系企業社屋裏手。
空港からほど近い工業地区の一角に、その施設はあった。
表向きは、クローンペット、遺伝子検査、卵細胞の冷凍保管サービスを扱うバイオベンチャーである。白と青を基調にした清潔な外壁。エントランスには、家族連れの犬や猫が写った柔らかい広告がある。
「大切な家族を永遠に」などという綺麗事が書かれたポスターが照明の落ちた無人の受付ロビーを飾っていた。そんな企業の夜の研究棟。
建物の奥にある搬入口からは、消毒薬、冷却剤、培養液、そして生き物を扱った後にだけ残る、獣臭が残る。表向きは合法な優良企業だ。
しかし、この時間に貨物用シャッターの横で、軍用規格の靴を履いた警備員が、突撃銃をぶら下げ民間警備会社のワッペンだけを貼って立っているのは、闇の臭いがする。
アレンは、仁川へ入ってから、公式な肩書きは英国文化担当官の随行調査員ということになっている。もちろん、その肩書きでこの裏口へ来たわけではない。エルフ特有の耳を隠すため大きめの帽子を深々と被る。
ここから先は、存在しない行動だ。これくらいの危険は過去にそれこそ何千とくぐり抜けてきた。
もちろん失敗すれば、彼は英国政府からも、欧州エルフ学術評議会からも、最初からいなかった者として扱われるだろう。
「止まれ」
搬入口の警備員が、韓国語で低く言った。
アレンは止まった。
両手を見える位置に置き、怯えた外国人研究者のように、わずかに眉を下げる。
「すみません。搬入確認で、こちらへ来るように言われたのですが」
流暢な韓国語だった。言葉の壁が無いことを感じ、警備員の目が、一瞬だけ揺れる。しかし、昨日の極秘めいた搬入騒動を思い出し、この時間、この場所、この男。・・・警備員としてきちんとした仕事をする。腰の無線へ手を伸ばした判断も正しかった。
ただ、相手が悪かった。アレンは、踏み込んだ。
その動きは速いというより、短かった。余計な予備動作が一切ない。警備員が無線のボタンを押す前に、アレンの左手が手首を取り、右手が肘の内側へ添えられる。
関節が外れる音はしなかった。外さなかったからだ。
ほんの少し、人体が痛みを「これ以上は壊れる」と判断する角度まで導いただけで、警備員の膝から力が抜けた。男が痛みを感じる刹那、首元へ指を当て、頸動脈洞を圧迫する。
数秒。
警備員は、呻き声すら上げずに意識を失った。
「ご苦労 キミは何も悪くない」
アレンは誰にともなく呟いた。
彼は男を搬入口脇の死角へ寝かせ、気道を確保し、両手を簡易拘束具で固定した。脈を確認する。問題ない。そこまでしてから、警備員のカードキーを抜き取った。
搬入口の扉が、短い電子音とともに開いた。
*
研究棟の中は、異様に明るかった。
夜間照明ではない。通常稼働の白い光だ。
廊下の左右には、クリーンルーム、低温保管室、検体処理室、細胞培養室を示すプレートが並んでいる。床は磨き上げられ、壁には清潔なポスターが貼られていた。
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動物福祉規範。
個人遺伝情報保護方針。
研究倫理委員会認証済み。
当施設は、国内外の生命倫理指針、個人情報保護法、動物福祉規範、および関連するすべての研究安全基準を遵守しています。
すべての生体試料は、適切な同意、匿名化、追跡管理、保管基準に基づいて取り扱われます。
研究の自由は、対象となる生命の尊厳を損なわない範囲においてのみ認められます。
当施設では、研究対象の苦痛を最小化し、代替法の検討、使用数の削減、手技の洗練を継続的に実施しています。
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アレンは、その一枚一枚を横目で見た。
汚れた場所ほど美辞麗句はよく掲げられている。
施設内のセキュリティは、民間企業としては過剰で、軍事施設としては甘い。おそらく、この場所は「本拠地」ではない。積み替え、検査、攪乱、足止め。そのための中継点に思える。
つまり、ファルはもうここにはいないかもしれない・・・。
アレンはその仮説を、頭の奥へ押し込めた。まだ、確定していない。
確定するまでは、諦める理由にしてはならない。廊下の先で、蛍光灯の下に一人の研究員がいた。
白衣の上から薄いカーディガンを羽織った、三十代後半の男。コンビニの袋から出したキンパを片手に、ネクタイを緩め、だらしない顔でモニターを眺めている。残業研究者。世界中どこの研究室でも見られるラボ畜仕草だ。
カツカツという革靴が奏でる、この時間帯に聞かない音に残業研究者は我に返り、問いかける。
「……だ、誰ですか?」
アレンは静かに近づいた。
「奥の研究区画へ行きたい。パスを貸してください」
「は? いや、あなた、どこの――」
研究員の言葉は、そこで止まった。アレンは帽子をとる。エルフ特有の長い耳介外縁があらわになる。
研究者があっけにとられて耳に注目して言葉を失っているところに、アレンは懐から取り出した黒鉄色の金属プレートを、彼の目の前にかざした。
それは王冠の紋章の入った何かのプレート。
「私は見ての通りのこういう者です」
研究員がそれを理解したわけではない。むしろ理解できないからこそ、顔から血の気が引いた。理解できない人種。理解できない権威。人間は、理解出来ないことが重なると弱い。
「いいですか? 質問は三つです」
アレンは、穏やかな声で言った。
「一つ。今夜、冷蔵医療コンテナがここへ入りましたね」
研究員は答えなかった。アレンは一歩近づいた。
「二つ。そのコンテナは、どの区画へ運ばれましたか」
「し、知りません。僕は培養管理の担当で、物流は――」
「三つ。奥の研究区画へ入るパスを、今すぐ渡せますか」
研究員の喉が、音を立てた。
「あなた、警察ですか?」
「いいえ」
「え? あ、じゃあ、何なんですか」
「あなたが関わらないほうが長生きできる類の者です」
アレンは胸元の銃をそれとなく見せ付ける。
研究員は、震える手で首から下げたカードを握りながら差し出す。
「ぜ、ぜんぶ話します。こ、この会社が売ってるクローンペットは嘘なんです、町で同じ犬種や猫を探してきて飼い主に売りつけてるだけ・・・僕は・・・」
「・・・それは、今追っているミッションではありません」
「じゃ、じゃあ何を・・・」
アレンは言った。
「知らないままでいてください」
次の瞬間、研究員の手からカードキーが消えた。
アレンは滑らかな動作でカードを抜き取り、同時に男の肩を押して壁際へ固定していた。痛みは最小限。だが、逃げる余地はない。
「大声を出せば、けが人が増える。だから、今から静かな場所で休んでいてください」
「え?」
三分後。
研究員は、廊下の奥にある清掃用具室の中で、口を塞がれ、両手両足を結束バンドで固定されていた。
床にはモップ、洗剤、業務用ワックス、そして彼が食べかけていたキンパの袋。
アレンは、清掃用具室の扉を閉める前に、呼吸に問題がないこと、無理に暴れなければ怪我をしない姿勢であることを確認した。
「二時間もすれば、誰かが見つけます それまでご辛抱を」
研究員は、涙目で何かを訴えていた。
扉が閉まる。
清掃用具室の中から、くぐもった抗議の声がした。
アレンはカードキーを手に、廊下の奥へ向かった。
*
奥の研究区画は、さらに冷たかった。
空調の音が低く唸り、壁面の温度表示は一定に保たれている。廊下には窓がなく、ところどころに監視カメラの黒い半球が埋め込まれている。一見、夜勤の研究者に見えなくもないよう、吊してあった白衣を纏い歩いて行くが、警報器がなる様子はない。
カードキーは、二つ目のゲートまでしか通用しなかった。三つ目の扉の前で、赤いランプが点いた。
アレンは足を止めた。そして、扉の横にある端末を見る。
生体認証。カードだけでは開かない。
当然だ。ここから先は、クローンペットと偽って犬猫を売りつけるインチキ会社ではなく、その奥に隠された本物の研究区画なのだろう。
アレンは端末に触れず、代わりに、周囲を注意深く見回す。
扉の下に、わずかな湿り気があった。消毒液ではない。培養温室へつながる区画特有の、高湿度の空気が漏れている。さらに、扉の向こうから低い機械音が聞こえた。
循環ポンプ。加湿。温度管理。大型培養槽。大温室だ。
アレンは、廊下の天井を見上げた。「セクター1 大温室」と案内がある。
温室なら点検用の通路や通気口が奥に通じている可能性が高い。アレンは長い人生の中で、王宮の煙突も、修道院の地下水路も、冷戦期の研究所の換気ダクトも通ってきた。
現代の点検口は、むしろ親切なイージーウェイ(簡単な道)である。
数分後。生体認証扉の向こう側、手前の連絡通路に、アレンは音もなく降り立った。
袖に付いた埃を払い、乱れた髪を軽く整える。緊急時であっても、身だしなみを整える習慣は失われない。
少し歩くと、ガラスの向こうに巨大な空間が広がっていた。セクター2中央植物温室。照明は消灯されており、満月なのか月光がやけに明るい。
天井まで届く配管、規則正しく並ぶ肥料用タンク。配管は植物の根のように床と壁を這い、透明なチューブの中を淡い培養液が流れている。天井の一部は開閉式らしく、よどんだ温室内にわずかな空気の流れを感じる。
草木の匂いと、消毒薬の匂いと、培養液の甘い臭気が混ざり合っている。生命を育てる場所のはずなのに、そこには森の安らぎなどなかった。
どこかで、拍手の音がした。乾いた、規則正しい拍手。
ピカピカの散水用タンクに映る影が突然異様に伸びた。
「先生 ずいぶんとお帰りが遅いので迎えにあがりましたよ」
若い男の声が、温室の奥から響いた。
配管の影から、細身の男が姿を現した。整えられた黒髪。神経質そうな端正な顔。仕立ての良い細身のスーツ。王立遺伝学研究所で、いつもアレンの隣に控えていた男。
ジェイコブ・バーク。
「先生ともあろうお方が、単身で来られるとは恐れ入ります」
ジェイコブは、月光の下で優雅に慇懃な一礼した。
「仁川へようこそ、アレン・エーバーハルト」
Jacob Berwk Jabberwock でした。感想などいただけると嬉しいので応援頂ければ幸いです!!




