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第八話 境界の向こう側

夜か、朝か。

もう少女には分からない。


部屋の灯りは消えたまま。

ただ一つ、鏡だけが、淡く光を返している。


少女は、その前に座り続けていた。


動かない。

眠らない。

ただ、見つめる。


そこに――

光源氏がいるから。


「……ねぇ」


乾いた唇が、かすかに動く。


「昨日のこと……覚えている?」


返事はない。


けれど少女は、もう疑わなかった。

あれは錯覚ではないと、信じている。


「私……行ってもいいのよね……?」


問いかけは、確認ではなく、許しを求める響きだった。


鏡の中の彼は、変わらず微笑んでいる。


その優しさが――

すべてを肯定しているように見えた。


少女は、ゆっくりと手を上げる。


指先が、鏡に触れる。


冷たい。


はずなのに――


「……あれ……?」


わずかな違和感。


押したはずの指先が、ほんの少しだけ、沈んだ気がした。


少女の呼吸が乱れる。


「……ねぇ……」


もう一度、触れる。


今度は、はっきりと分かった。


鏡が、拒まない。


「……入れる……?」


震える声。

けれど、その瞳には恐れはなかった。


あるのは、ただ一つ。


――期待。


少女は立ち上がる。

ふらつく身体を支えながら、鏡へと近づく。


その中の彼もまた、こちらを見つめている。


距離は、もうほとんどない。


「会えるのね……」


その言葉は、祈りではなく、確信だった。


少女は、ゆっくりと手を差し出す。


鏡の奥へ。


触れた瞬間――


世界が、静かに歪んだ。


音が消える。

空気が止まる。


そして。


少女の腕が、鏡の中へと沈んでいく。


「……あ……」


小さな声が漏れる。


引き返すことは、できたはずだった。


けれど少女は、止まらない。


むしろ、前へ。


「やっと……」


もう片方の手も、身体も、少しずつ沈んでいく。


鏡の中の光源氏は、すぐそこにいる。


届く距離に。


触れられる距離に。


「やっと……会える……」


その瞬間。


ふと、少女の視界の端に――


“鏡の外の自分”が映った。


虚ろな目。

やつれた頬。

動かない身体。


まるで、抜け殻のように。


「……え……?」


ほんの一瞬の違和感。


けれど――


次の瞬間には、もう遅かった。


少女の身体は、完全に鏡の中へと消えていった。


部屋には、静寂だけが残る。


誰もいない。


ただ一つ。


鏡の中で――


光源氏が、微笑んでいる。


そして、その隣に。


もう一人、女が立っていた。


まるで最初から、そこにいたかのように。

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