第六話 声が聞こえた気がした
夜が深まるほどに、胸の奥のざわめきは静かに形を変えていった。
几帳の向こうで灯火が揺れ、影が長く伸びるたび、彼女はふと顔を上げる。
「今、あの方は、どこにおいでなのだろう」
そう思った瞬間、胸の内側がひやりと冷える。
つい先ほどまで、彼の声が耳の奥に残っていたはずなのに、
その余韻さえも、夜気に溶けて消えてしまったように感じられる。
彼が帰った後の部屋は、妙に広く、静かすぎる。
残された香の匂いだけが、彼の存在をかろうじて繋ぎとめている。
けれど――
その香りさえ、風がひとつ吹けば消えてしまうのではないか。
「もう、あの方から声をかけていただけないのでは…」
そんな思いが胸を締めつける。
理由もなく不安が押し寄せ、
自分でも持て余すほど心が揺れ動く。
ふと、膳に手を伸ばしかけて、止めた。
食べなければ、と頭では分かっている。
けれど、口に運ぼうとするほどに、喉が細く閉じていくようだった。
まるで――
何かを拒むかのように。
彼女はそっと手を引き戻す。
いつからだろう。
こんなふうに、何もかもが思うようにいかなくなったのは。
彼女は袖を握りしめる。
指先がかすかに震えているのに気づき、
その震えを隠すように、袖を胸元へ寄せた。
ほんの少し前まで、
彼の言葉ひとつ、微笑みひとつで、
世界が柔らかく色づいて見えたのに。
今はただ、
「待つ」という行為が、こんなにも心を削るものだったのか
と、初めて知る。
灯火がぱちりと音を立てる。
その小さな音にさえ、彼女の心は揺れた。
――いや。
揺れたのは、本当に灯火のせいだったのだろうか。
ふと、顔を上げる。
今、誰かに名を呼ばれた気がした。
振り返る。
当然、そこには誰もいない。
静まり返った部屋。
揺れているのは、ただ灯火だけ。
それなのに――
(今、確かに……)
耳の奥に、かすかな余韻が残っている。
それは、彼の声に似ていた。
けれど。
ほんのわずかに――
違っていた。




