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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
解せない把握

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211/212

01

 いおりに戻ってまもなくサリアタ様がウチウ猫の根城へ。

 日暮れ前には帰ると言い置き、手ぶらで出向かれた。


 屋内の掃き掃除は二人が済ませてくれていて、おれは自分の弁当の包み布を雑巾に下ろし、床をかるく水拭きする。

 拭いてるそばから寝転がって服で乾拭からぶききする少年。

 外にいたセナ魔法使いが玄関口に顔を出した。

 どう丸め込んだのか、左肩に小鳥を乗せていた。

 先ほど見かけた緑色の羽をした鮮やかな野鳥である。


「この子ひとなつこいのよ。飼われてたことあるんだと思う」


「ねえ先生。つまんない。温泉いこう温泉」


「綺麗ですし、あり得ますね。温泉、案内してくれるかい」


「おいでって呼ぶと飛んでくるのよね。アラムより賢そう」


「ぼくのほうが賢いね。ぜったい」


「あんた言うこと聞かないじゃない。ほうきを持ったのは誰?」


 雑巾掛けがあらかた済んで、短弓を背負うアラマルグ。

 いおりの扉に錠前は付いていなかった。

 息抜きはやぶの中の一か所とわかってはいるものの、その一か所の位置が繊細で、自力で当てるのは何度やっても難しく、少年が通ったあとを素直に辿って結界を抜ける。

 続くセナ魔法使いの手のひらには小鳥が乗っていた。

 老魔法使いの隠れ家に偶然、迷い込んでしまったのだろう小さなお客さんへ、彼女が優しい口調で言った。


「さ、お行きなさい。あなたの庭の本当は、こっちよ」


 手のひらの上で小首を傾げた小鳥はたちまち飛び立って、そばの木立の枝に止まるとしきりのさえずりが降ってきた。

 礼を言っているのか、はたまた喋り足りないのか。

 頭巾をもたげて見あげた魔女のくすくす笑う横顔を見る。




 ずっと前だけどさ、温泉に何匹もウチウ猫が入ってた。

 そんな恐ろしいことを軽く言う少年の案内で向かった森の秘湯は、林冠のぽっかり抜けた明るい陽の下にあった。

 河川跡と推定された祈祷場から南へおよそ二百メートル。

 かつての川の下流域に相当するそこも小規模ながら似たような岩場であり、露出した岩盤の窪地に湧き出た総面積は五平方メートル程度と小さかったがやはり細長で、そこから湯けむりが白々と、微かに立ちのぼっていたのだった。

 先客は、いなかったので、ひとまず安心。


 岩の隙間に落ち葉が積もり、苔や羊歯しだに囲まれた森の空所くうしょに熱気はほとんどこもっておらず、硫黄臭はない。

 かがんで覗いた湯張りの底は約三十センチと浅く、聞いていたとおり足元しか浸かれない深度、湯面ゆおもてには泡がぽこぽこ浮き出ており、思ったとおり泉質は酸性のようである。

 周りの岩盤は湿気で黒ずみ、その至るところに乳白色の物質がこびりついていて、それらはおそらく熱水泉に溶け込んだ炭酸成分の沈殿物であろう。

 差し入れた指先は熱くもぬるくもなく、丁度よい湯加減。

 その温度から推し量るに、熱源はかなり深そうだ。


「あれえ。いつもよりお湯の量がちょっと多いぞ」


「だからって、やめてよ。静かに入りなさい」


 靴を脱ぎ散らかして勢いよく跳び込んだ飛沫しぶきをまともに浴びてしまったひとが結構な勢いで怒っている。

 ホズ・レインジは十中八九、火山であったが、そのふもとに表出した温泉が必ずしも溶岩溜まりに起因するとは限らない。

 おれは湯際に屈んだまま、辺りの地面をまわし見た。

 湿り気を帯びた土のところどころ、黒みが目につく。


 魔女の白い素足の傍らで立ちあがり、温泉から少し離れて歩いてみると点在する黒みは暴露した岩盤のようで、汚れた墨色の表面のあちこちに気泡跡のような穴が散見され、指でなぞるとおろし器のように荒々しい風化作用のその様子。

 どうやら湧口わきぐち近くの岩肌の黒みは湿気ではなさそうだ。

 ここの岩盤は、もともと黒い。

 ホズ・レインジ山麓の地盤はおそらく凝固した溶岩。

 熱水泉の温度からは熱源の深さが相応に見込まれる。


「先生なにしてるのよ。入らないの?」


 蒸気機関が残る渓流沿いの洞穴ほらあな

 溶岩洞窟と推定される奥の岩盤は、断ち割れていた。

 その直下の深層に残る破砕した岩盤の瓦礫群。

 有史以前、南麓一帯で発生した大規模な地盤沈下。


「たぶん今、先生どっか行っちゃってる」


 温泉が湧き出たこの地形は、その際に起こった陥没跡?

 そういえば、祈祷場に見られた断層に露出していた岩盤も黒ずんでいたが、苔の蔓延はびこりで目立たなかっただけか?

 だとしたら二百メートル程度しか離れていないあの窪地の形成理由も、ここと同じなのでは。

 サリアタ様の仕事場は河川跡ではないのかも。


「ほらね」


「笑ってるし」


 現状、地球国が放棄された原因の有力は、戦争であり。

 地盤沈下はまったくの無関係かもしれなかったが。


「遠い昔に山麓を襲った天災の発生を裏付ける状況証拠を、また一つ、見つけたと言えそうです」


 歩み寄りながらそう答えた。

 ほっこり足湯に浸かる二人の反応は……ふうん、だった。




 おれも岩盤に腰をおろし、森の小さな秘湯を囲む。

 足首から下しか浸かれてないが、ほぐれていく温かさ。

 酸性湯特有の肌の刺激が心地好かった。


 セナ魔法使いがここに来たのは今日が三度目だそう。

 一方アラマルグは年に何度も来ているそうで、その時々、獣が温泉に入っているところに出くわすらしかった。

 近づいても逃げない場合は、彼のほうが去るのだと言う。

 人間に対する警戒心、恐怖心にも勝る緊急事態が、獣の身に起こっていることがわかるからと聞いて、感心した。


「体調が崩れたときは風呂に入って体を温めると治りが早い。きっと野生動物たちも、それを知ってるんでしょう」


「リリが言ってたわ。ここは森の湯治場とうじばだって」


 おれは頷いた。


「確かにこの泉質なら、殺菌や消毒など効能ありそうです」


「アラムも、一時期ここ通ってたのよね」


「うん。リリに無理やり連れてこられたんだ。傷口が治ってから。左腕だけ、ずっと浸けてた。つまんなかった」


 ああ、そうか。

 ウチウ猫たちとの決闘で左腕の上腕部に負った大怪我。

 神経が断裂寸前で縫合手術が施されたと聞いている。

 彼が今も頻繁にここへ足を運ぶのにはそうした事情も。


「マルセマルスカス様は医術の道に深いお方だ。従ったからこその快癒だと思うよ。わたしも随分と世話になって」


 意識が突然がくんと落ちる感覚。

 はっと即座に見ひらいた視界に……二人の姿がない。

 共に秘湯を囲んでいたセナ魔法使いとアラマルグ。

 彼らの姿が瞬時に消えた。

 咄嗟とっさに見やった周りの景色は森の木々と葉の繁り。

 陽の当たる空所くうしょのどこにも、二人の姿はなかった。

 何事かと狼狽しかけた、その時である。


 ――これに憶えがあろう。


 不意に彼方で声が響いた。

 それは、おれの聞き知っている声だった。

 幼い少女の声音こわねながら、深い精神性を秘めた響き。

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