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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
解せない把握

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212/212

02

 ――旅人よ。


 間違いない。


「ひ姫様っ?」


 すると。

 対面の岩盤際の湯面ゆおもてが、ぱしゃん、と音をて。

 なにもない湯けむりの下に波紋が広がった。

 さらに二つ、また三つと、立ち消える輪がおれに近づく。

 そうして四つめの波立ちが止んだのは、目の前だった。


 ――我も、こので湯には折々(おりおり)参る。


 姿は見えず、声のみが耳に届く。

 この状況は、自意識の覚醒環境を示していた。

 刹那の落下感覚そして直後の外部知覚。

 あのときと同じなのだ。

 姫様の案内でサリアタ様の里に到着した、あのときと。

 隠されていた里の有り様を明かすため強制的な眠りへ。

 まさに今みている夢の中に、これは違いなかった。


 思わずおれは両膝を湯の底にばしゃり突き、低頭。


「ご機嫌うるわしゅう、姫様」


 お出ましの先触れがなかったので、動転したが。

 状況を把握した途端に……嬉しさが込みあげる。

 ルイメレクの名を求めて就いた長い旅路の締めくくり。

 共に過ごした出来事の数々は生涯、忘れ得ぬものばかり。

 自称、鹿たる森の小さな女神おんながみ様。

 マルセマルスカス氏の話だと、人間ならば推定八歳。


 ――ん。機嫌は悪うない。


 そのお姿は、夢中の視界には映らずとも容易に浮かぶ。

 体高およそ一メートル、黒褐色の短毛に覆われ、首下から胸元にかけて生えた白い長毛は立派な白髯はくぜんを思わせる。

 円錐形をした二本の鋭角、すらりと伸びた四本の長い脚。

 神秘をまとう孤高の立ち姿が、額前の虚空に彷彿ほうふつした。


 ――なれど、こたびはで湯でなく、おまえが用。


「人これに。なんなりと」


 畏敬いけいを込め前傾する脳裏に神言しんげんを受ける。


 ――用向きのゆえは、おまえの陰者かげものだ。


 え?


 ――先方さきがた、我にこうべを垂れに参った。


 おれの陰者?

 御陰おかげ様のことか?


「お言葉の陰者とは、わたしの守護様のことでしょうか」


 ――うん。お力添えをとな。いに参った。


「なんと。それは恐縮に存じます」


 なんだろう。


おそれながら、わたしの守護が、姫様にうた助力とは」


 ――ねね様のお膝元へと望んでおる。


ねね様? どなた様でございましょう」


 ――我のねね様よ。我らがかか様の子。


 姫様のかか様とは、樹海の御神木ごしんぼく御座おわす女神サオリ。

 すなわち大門主神オオカドヌシノカミ様の分魂わけみたまが、姫様ご自身。

 マルセマルスカス魔法使いの言葉を借りれば、御神木のこずえからこばれ落ちた一滴ひとしずくが、森の小さな女神おんながみ様だった。

 推定で八年前に天下にお成り遊ばされたその姫様が、同胞令姉どうほうれいしと見なされ、先んじて敬われる子たる神。

 つまり。

 千年前に誕生した大門主神オオカドヌシノカミ様の申し子。

 この星にって立つ人類の歩みを知る古霊これい


「サオリ・クラモチ」


 と、言うことは。


「わたしの守護は……神の子と、浅からぬ関わりが?」


 ――ねね様が、人の名を持つ由縁ゆえんかな。


 聞いて、かちり、と。

 頭の中で音が鳴った。


「神の子を出産した母親」


 ――かく由縁ゆえん陰者かげものが、こうべを垂れに参ったのだ。


 否定しなかった。

 おれの守護様は、やはり倉持さおりの実母。


 ――ねね様との深きえにしゆえ、聞いてやらずばなるまい。


 瞬間、視界が闇に転じた。

 あたかも暗幕が切って落とされたように夢に見ていた秘湯の景色が、一瞬のうちに真っ暗となった。

 たちまち前後不覚となって動揺するも、おのれの体勢は膝を突いたまま、足元が濡れている感触、湯にかっている温度感が肌に残っていることに気づく。

 現実世界のおれの身体は、変わらず温泉にあるようだ。

 けれども鼻が、嗅ぎ分けた匂いは……違っていた。

 森林の澄んだ空気ではなく、立ちこめている土臭つちくささ。

 生気が一切、感じられないよどんだような水の匂い。

 得も言われぬ雰囲気が、闇間やみまに充満していた。


「姫様……姫様?」


 ――ここが、現身うつしみを持つおまえが用だ。


 ひときわ強く耳朶じだとよもした。

 戸惑いつつも安堵する。


「あのう。これは、いったい」


 問いながら方々(ほうぼう)へ投げた目が、頭上に小さな光を見た。

 わずか数センチほどの楕円形をした光だった。

 見あげた暗中に微動せずともっており、とても目映まばゆく乱反射するようにぼやけていたが、おれの視界まで届いていない。

 光源との距離が、かなりあるのだろうか。


 ――さてこれぞ、現身うつしみを持たぬ陰者かげものが望みである。


 わだかまる闇の一か所が、ぽわん、と不思議にあからんだ。

 正面おそらく数メートルほど離れた先で。

 不意の視界に浮かびあがったのは……一本の棒だった。

 長さ一メートル弱、太さ四、五センチ程度の丸い棒状の物体が、少し斜めになった状態で、そこに突き立っていた。

 その棒のたもとの周り、細石さざれのごとくにきらきらと耀かがやいて見えるのは、不思議な光を照り返している水面だった。


 ――旅人よ。これに憶えがあろう。


 言われたそれは近づかずとも一見いっけんで、古物こぶつわかった。

 焦げ茶色をした細い円筒面にまだら褪色たいしょくが随所に見て取れ、擦り傷のような跡も多数あり、材質はどうやら木の様子だがその傷み具合は、並々ならぬ年季のり。

 悠久の時を経てきた貫禄が窺えたのだった。

 古色こしょくに染まる物品と接する機会は職掌柄、幾度もあって、再見の際には以前の観察を必ず思い出すおれだった。

 だが、あれを過去に目にした憶えは、まるでない。


「お示しのその棒状の品について、記憶に当たりましたが、わたしは存じません。ですが、心当たりはございます」


 倉持さおりの実母が確定的となった守護様に由来する物品とのことであれば、重度の経年劣化を示す外観からも間違いなくあれは先史遺物……相応のいわくをもって当然と頷けるところだが、しかし、その曰くの内実を知るのは……ちからを失った一人の魔女と、同時代人だった沢田沖夏。

 彼は確かにおれなのだが、おれではなかった。


「思いますに、知見を持つのはおそらく、わたしの過去生」


 ――早合点をするな。よくよくあらためよ。


 否定された。

 え……違うの?


 ――千歳ちとせを経ての巡り合わせ。おまえにとっては数奇すうきであったが、けがれはとうに我がはらった。後顧こうこには及ばぬ。


「どういう意味でしょうか」


 ――よくよくあらためよ。


 重ねて促されたのだった。


「かしこまりました」


 胸騒ぎを覚えつつ踏み出した足が、ばしゃり。

 温かな湯張りの底を歩いて近づき、照らす光の渦中へ。

 まもなく眼下となった突き立つ棒の前で腰を落とし、その細部を認めた瞬間、変な声が出た。

 傷みの酷い棒の外周……螺旋状に巻き付く龍の彫刻が。

 纏繞てんじょうする龍の姿が、うっすらと彫り込まれてあった。

 もしやこれはラズマーフ?

 龍の意匠が施された高級杖。


 ――引き抜きて見るがよい。我がことあかしがそこにある。


 おれは躊躇ためらうことなく逆手さかてにつかんで引き抜いた。

 水面下に隠れていた先端部分。

 すぐさま手首を返して目近に寄せる。

 ……切断されていた。

 に彫り込まれた龍体から続く龍頭の部位が、ない。


「ひ、姫様これは」


 ――憶えがあろう。その龍杖りゅうづえに。


 アデルモの宿にて暖簾掛けになっていた一本の長杖。

 龍頭が欠損した古物市流れのラズマーフだった。

 それを譲り受け、おれは樹海行きの道連れとした。

 呪詛絡みの禍根かこんを指摘されながら、愚かにも手放さず。

 山麓の南へ向かう路程で、座標を見失う原因となった。

 結果まんまと死の淵へ、おれは……誘い込まれ……。


 ゆっくり、頭上へ目をやった。

 距離感の失せた暗中に点る楕円形をした小さな光。

 やたら目映まばゆく、陽射しが乱反射するようにぼやけていた。


「いや、しかし」


 腑に落ちない点が……大きな相違が二つある。

 大人の背丈ほどの寸法は近似するもののその長柄ながえに彫り込まれている龍神像はどの角度から見ても立体感が薄かった。

 確かに残る記憶では、巻き付く龍体を巧緻こうちに浮き彫りした見事な出来栄えだったはずなのに、手元のそれはかたどられた龍の意匠がほとんど潰れてしまっている。

 あまつさえ、おれが道連れとしたあの無頭のラズマーフの状態は、アデルモから聞いたとおり中古のさまであったが、歴史を感じさせるほどの年季を帯びてはいなかった。

 深く見積もっても半世紀と言ったところだろう。

 一千年もの時の流れを納得させるこの無頭のラズマーフの状態とは、印象が寸分も重ならない。

 頭部の欠損が同じなだけで、まったくの別物なのだ。


「お言葉ながら、姫様」


 造形そして状態が、あきらかに異なる点を訴えると。


 ――さても。かれていたおまえのまなこ。確かなりや。


 そう聞いて、息をのんだ。


 樹海を目指す行程で、陸標りくひょうとしていたホズ・レインジの山が、視界からまるごと消えたのだった。

 あり得ないその事態は、おれの認知の問題だった。


 嗚呼……そういうことか。


 足元に感じていた湯の温度感が、たちまち消え失せた。

 水の冷たさが、じんわりと肌に触れはじめる。

 両足をひたしているこの場所が、森の秘湯の中ではないことを、ようやく今、はっきりと自覚したからだろう。

 朽ち果てた森の墓場にて、踏み抜いた天然の落とし穴。

 あの引割ひきわりの底には、水が溜まっているらしい。

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