117. 不安のかけら
出発の朝、イチカは父マシュートの部屋でお別れの挨拶を交わしていた。
「お父さん、それじゃあ、行ってきます。お父さんはしばらくここにお世話になるのよね?」
「ああ。だから何かあれば遠慮なくここに戻っておいで。手紙も受け取れるから、どんどん送っていい。」
「うん。ドレスは一旦置いていくね。また着られる日を楽しみにしてる。」
マシュートは優しく微笑みながらイチカの頭を撫でた。
「わかった。ああ、これは推薦状だよ。植物学の教授なんだ。詳細は後で手紙を読んでくれ。まだ二十代だったと思うが、とても優秀な方だよ。彼がまだ十代の頃に会って以来直接お会いしてはいないが、論文は読んでいるからわかる。イチカのことは、すぐには行けないがいずれ伺うと知らせてある。他にもやることがあるんだろう、焦らずに向かいなさい。」
「はい。」
そしてマシュートはイチカを抱きしめて言った。
「ファルシオン君とは仲良くね。ああでも節度を守ること!いいね?」
「はい、心しておきます。」
「ははは、そうしてくれ。」
イチカは父との名残惜しいその時間をもう一度しっかり胸に刻みつけてから、笑顔を見せた。
「じゃあ、行ってきます。」
「気をつけて。」
そしてイチカは、父の部屋を離れ、玄関ホールで待つシオンの元に向かった。
「イチカ、行こうか。」
「うん!」
前の日に他の全員と別れの挨拶を終えていて、イチカ達はその日早朝にはジャルデン邸を出発した。外はまだ朝の冷たい空気がそこかしこに残ってはいたが、すでに暑くなりそうな予感をイチカは感じ、持っていた帽子をしっかりと被った。
「イチカ、そういえば手紙を一通預かったんだ。」
「え?誰から?」
シオンがそのシンプルな封筒をイチカに手渡す。
「エレノアさん。レオンが荷物に紛れて見つからなかったので渡しそびれてましたって言って今朝渡してきやがった!あいつ全く相変わらず整理整頓ができてなくて・・・」
イチカはシオンのその手の愚痴を何度か聞いているので、つい可笑しくなって噴き出してしまう。
「ふふっ、またそれ!レオンさんも懲りないなあ。ところでこの手紙、私が読んでいいの?」
シオンは面白くないという表情を一転させ、笑顔でいいよとイチカに告げる。
その手紙の内容は、もしイチカに興味があれば、魔女としての力をさらに高め、身を守るための方法を模索するための手伝いができるがどうするか、というものだった。今はたまたま家を離れ王都に向かっているので、もし手伝いが必要ならそこで会いましょうとも書かれていた。
そしてその手紙の最後には、シオンとまた会いたい、という言葉が記されていて、イチカの表情がこわばる。
「シオン、これ・・・」
「ああ、最後の文は気にしなくていい。あの人はいつもそう書くんだ。」
「・・・そう。」
イチカは何かよくわからない不安に駆られながら、その手紙をシオンに返した。
「エレノアさん、心配してくれてたんだね。」
「ああ、そうだな。だけどまずは予定通りエリアスさんが紹介してくれた人に会いに行こう。エレノアさんに会うかどうかはそのあと決めればいい。」
「うん。」
イチカの小さな変化には気付いていない様子のシオンは、少し先を歩き続ける。そしてイチカは先ほど感じた不安のかけらを捨てきれないまま、足の速い彼に置いていかれないよう黙ってその後ろをついていった。
二人が今回向かう先は、王都に向かう道の途中にある廃坑が残されている村で、大きな街道から外れて北側に進むとあるらしい。以前は金や銀が採掘され賑わいのある町だったようだが、エリアスによると今は見る影もなく寂れた村になっている、とのことだった。
途中まで海を見ながら徒歩で進み、コクレの町を出る辺りから街道沿いを走る乗合馬車に乗って移動する。この道も馬車もコクレと王都を繋いでいるが、イチカ達は途中の小さな町で降りてそこからまた徒歩で移動をすることになった。
「このまま真っ直ぐ向かうとグレイ領に入る。今回の目的を果たした後この道を使って行くのは危険かもしれないな。またどうすべきか考えるよ。」
「グレイ領・・・そっか、王都の近くにあるんだね。」
「ああ。できれば通らないように進みたいんだが、まだ悩んでる。」
「わかった。」
珍しく深刻な表情になるシオンを見ながら、イチカも気を引き締めていた。
ここで今自分ができることを一つ一つ形にしていく。それが二人の未来に繋がると信じて、イチカは再び歩き出した。
目的地に近づくと、初めはのどかなよくある村の風景に見えていたが次第に家が減っていき、あばら屋や空き家となって久しいのではないかと思われる朽ちた家々が目に入るようになってきた。
「こんな寂れた場所に、本当に人が暮らしているのかしら?」
「どうだろうな。エリアスさんが来たのも数年前らしいから、それからさらに人が減っていったのかもしれない。」
イチカは辺りを見回しながら、その静かすぎる村の様子と気配を確認していった。すると前方の大きな岩がある場所から人の気配を感じて立ち止まり、シオンの服を引っ張った。
「待ってシオン。あそこに誰かいる!」
「え?」
シオンがすぐに警戒姿勢に入り、イチカを後ろに隠す。イチカもまた近くにある木々や地に植わっている植物達の命の流れを感じ取りながら、いつでも力を出せるように準備していく。
そしてその瞬間、その岩の影から拳ほどの大きさの岩がいくつか飛び散ってくるのが見え、イチカは即座に防御の力を放った。
シオンとの練習の成果が発揮され、飛んできた岩は一つも二人に当たることはなく、別の方向へと飛んで消えていく。そしてシオンは素早く剣を抜き、一気にその岩陰へと走りだした。イチカも慌ててついていくと、そこにはやせ細った五十代近い年齢の男性が、力尽きたように座り込んでいた。
「あんた、何者だ?突然攻撃してくるなんて何考えてるんだ!!」
シオンが強い口調でそう言いながら、その男に剣を向ける。
「すまない。追手が来たんだと思ったんだ。まさかこんな若い女性が追手なわけないよなあ。失礼した。」
その男性は力無くそう言うと、そのままズルズルと寝転んでしまう。
「どうされたんですか?体調が悪いとか!?」
イチカが慌てて近寄り手を添えると、男性は小さな声でうめくように「腹が減って・・・」と言ってそのまま動けなくなってしまった。
イチカが急いで持参していたパンを取り出し、男性に差し出す。彼は目を丸くしながらそのパンにかぶりつき、あっという間に平らげてしまった。
「ありがとう!君達は命の恩人だ!!」
イチカは苦笑しながら水の入った水筒も渡し、喉を潤してもらう。
「それで、いったいどうして岩なんかぶつけようと思ったんだ?」
シオンが眉間に皺を寄せたまま男性に詰め寄る。そしてその男性は小さな声で言った。
「・・・ずっと、追われる人生だったんだ。これしか、身を守る術が無かったんだ!」
「え?」
「おい、まさか・・・」
そしてイチカがごくりと唾を飲む。
「もしかしてあなたは、エリアスさんのお知り合いの方ですか?」
「エリアス!?彼を知っているのか?」
「ああ、やっぱり!」
それは、三人の認識が一致した瞬間だった。
そしてそのリーブスという名の聖人の力を持つ男性は、イチカ達を連れて彼が今隠れ住んでいる場所へと移動した。そこは村の中でも比較的綺麗に残されていた空き家なのだそうで、今はこの村にはもう誰も住んでいないとのことだった。
家に招かれて入るとイチカはまず、自分が聖人であること、エリアスから教えてもらってリーブスに会うためにここまでやってきたことなどを説明する。
「それで君達はなぜ俺に会いに来たんだい?」
「あなたのその特殊な力を教えてもらたくて来ました。」
「ああ、そう言うことか。しかしなあ、結構危険な技なんだ。あまりお勧めはしない。」
「どういうことですか?」
リーブスは椅子に座って背中を丸め話し始める。
「あれは防御の力を岩の内側に一気に送り込んで爆発させるというものなんだ。だから慣れないうちはどの方向に岩が飛び散るかわからないし、未だに失敗すると自分を治療しなきゃならない羽目になる。仲間がいるならなおのこと、あまり積極的には使ってほしくないものなんだよ。」
「そういう方法だったんですね・・・」
イチカはそれを聞いて表情には出さなかったが、かなりがっかりしていた。シオンに当たる可能性のある恐ろしい方法を採用するわけにはいかないし、万が一当たってしまったら、魔女の薬以外に彼を治療する方法はない。
「わかりました。教わるのは諦めます・・・」
イチカがそう力無く告げると、リーブスは申し訳なさそうに頷いた。
「すまないな。俺もそろそろここを離れる潮時かなとは思ってる。もうなんなら捕まっちまって塔に入ってもいいんだが、どうしてもずっと逃げ続けてきて、今さらこの生活を変えられなくてね。髪も植物を使って染めたりして、結局ここで足掻き続けているんだ。」
その彼の言葉に、イチカは何一つ言葉をかけることができなかった。これまでどれほどの聖人達がこんな思いをして暮らしてきたんだろうと思うと胸が痛む。そしてイチカはリュックから一枚の紙を取り出した。
「リーブスさん。これ、私の父が住んでいる場所です。私のイチカという名前を出してくれれば、きっと匿ってもらえると思います。エリアスさんもそこにいますから、ぜひ行ってみてください。」
リーブスはその紙を受け取ると、手が震え出し、顔を伏せた。
「すまない、すまない、ありがとう。ここに来てくれて本当にありがとう!!」
そう言って彼は涙を流し始めた。シオンと二人笑顔でその姿を見つめ、そして二人はその家を後にする。
「さてイチカ、これからどうする?」
「うーん。この近くで野宿して、明日出発しようか。でもシオンはまだ道を決めかねているんでしょ?」
「ああ。今夜テントでイチカと抱き合いながら決めるかー。」
イチカはその言葉に真っ赤になりながら、
「父から『節度を守って』と言いつかっております。」
とシオンに告げると、あははと乾いた笑いを返される。
「とにかく今日はここで泊まりましょ?抱き合うかどうかは別として!」
「はああ。まあいいか!イチカと一緒に居られればそれで。」
「・・・もう。」
二人でいつものようにふざけ合いながらも、イチカは先ほど感じた小さな不安のかけらがその手に残っていることを、心のどこかで意識し続けていた。




