洞窟3
界斗は、反射的にケイとマイを突き飛ばしていた。
二人は小さく驚いたような声を上げながら地面に倒れこむ。
その瞬間、それは怪しい動きを見せた。こちらを見つめる視線はそのままに、闇の中で蠢いたかと思うと、すさまじい勢いで界斗の眼前に迫ってきたのだ。
避けなければと本能が言うが、上手く体を動かせず、尻餅をつくことしか出来なかった。しかし、それが幸いしたのか、間一髪、爪先擦れ擦れのところを化け物は着地し、
界斗は事なきを得る。
「何……これ」
マイが今にも泣きだしてしまいそうな震え声で言う。
そう聞かれても解るはずもなかった。
ブヨブヨと揺れているゲル状の体。幼児ほどの大きさのそれは、冷やし足りずに失敗してしまったババロアのようにだれている。そこから二本の触手が伸びており、その先にはいつか見た赤い瞳があった。
あまりにも不格好で歪だが、視覚があり、それを自身の意思で動かしている以上、生物なのであろう――だが、どう見てもまともではなかった。この大きさで、アメーバ状の生物など見たことも聞いたこともない。
あるとしたら、そう、漫画やゲームと言うフィクションの世界だけだ。
それは落ちた時の衝撃からか、眩暈を起こしたかのように瞬きを数回繰り返すと、目の前で尻餅をついている界斗に視線を合わせた。
その目は正に獲物を視界に捕らえた獣のそれであった。
ズリズリと体を地面に擦りつけながら界斗へと迫っていく。その目的は、容易に察しがついた。
「――くそーっ!」
そう叫びながら、界斗は体に力を込め、素早く立ち上がった。
意外にも体は素直に言う事を聞いてくれた。界斗自身の経験がそうさせたのだろう。
このような状況に慣れ始めている自分に気が付き、界斗は嫌な気分になった。
界斗は後ずさりしつつも考える。
現在、界斗達三人は化け物を挟み、界斗一人とケイとマイの二人に別れている。合流することが最善に思えたが、その為には、この化け物の横をどうにかして通り抜ける必要があった。この狭い通路の中で、あの化け物に近づくのは、できればご遠慮いただきたかった。
ちなみに立ち向かうという選択肢は始めからなかった。こちらは丸腰な上、このような訳の解らないものに喧嘩を売る気など全く起こらない。できるだけ穏便に、状況を終息させたいのだ。
しかし、そうも言っていられない。
化け物はゆっくりとだが、今も界斗に迫り続けている上、その向こうにいる二人は不安そうな表情で固まってしまっている。今は大丈夫かもしれないが、いつこの化け物の気が二人に向くかわからない。
ここは、自分がどうにかしなければ――。
そこまで考えてからの決断は早かった。
界斗はぐっと表情を引き締めたかと思うと、おもむろに駆け出したのだ。
化け物の方へ――ではない。自身の背後、今進んできた道へと向かって、だ。
速度はジョギングをするかのようにゆっくりで、界斗はその状態のまま足の動きを止めず、顔だけで振り向いて叫んだ。
「ここはなんとかするから、そのまま二人は先に進んで!」
「カイト兄ちゃん!」
「なんとかって……どうするの!?」
不安そうな二人の声。
その声を少しでも和らげてあげようと、なるべく明るく努めた。
「大丈夫! 安心して任せてよ!」
――だって、俺はアオさんの友達だよ。
その言葉を口には出さず、心の中だけでそっと付け加えた。
二人は相変わらず不安そうではあったが、やがて顔を見合うと、ゆっくりと走り出した。チラチラとこちらを何度か窺っている様子も、やがては闇の中へと消え、見えなくなる。
一人になった界斗を孤独感が襲うが、不思議と嫌な気分ではなかった。これが無理やり与えられたものではなく、自身の選択によるものだからであろうか。
(なんだ、俺だって意外としっかり見栄を張れるじゃないか)
こんな状況ではあるが、新たな自分を見つけられたような気がして、少しだけ嬉しかった。
界斗は化け物の瞳を一度だけ睨みつけると、手を振って、こちらに誘って見せる。当然、反応は返ってこない。
化け物と洞窟の奥を交互に見て、界斗の中で一つ懸念が生まれる。
(今更なんだけど、ケイとマイを二人だけにして大丈夫だったかな……。マイはしっかりしてるとは言え、まだまだ小さい子だし……)
先ほどまで自信に溢れていた界斗の頭に、早くも後悔が押し寄せ始めた。
自分の気持ちが萎んでいくのに気が付いた界斗は、頭を振ると、目の前の事に集中した。
(駄目だ、二人の為にも早く何とかしないと……!)
考えはない。恐怖心がないと言えば嘘になる。
だが、やるしかない。
そう思うと、少しだけ気持ちが楽になった。
それから界斗は走りながら、アオの事を思い出していた。
この化け物がアオのところにもいるのではないかと思ったが、心配はしなかった。していないふりをした。
だってアオは、
「ちょー、強いんだから!」
そう、言っていたんだから。
界斗はこの闇の中で、皆の存在を感じようと、静かに耳を澄ました。
その耳には化け物の蠢く音しか届かない。
それでも、どこからか三人の温かさを感じられた気がした。
幻かもしれないそれは、界斗の心を優しく包み込んでくれたのだった。
乱れた息遣いが洞窟内に響く。
忙しなく動かされる脚は、止まることを決して許されない。
体中からは汗が吹き出し、顔に前髪が貼りついて、それが不快で仕方が無かった。
(なんで――)
界斗はがむしゃらに走っていた。
始めのようなゆっくりとしたものではない。息が乱れるほどの全力に近い速度で、だ。
(なんでなんで――)
その後ろを同じ速度でついて行く物体。
アメーバ状のそれは跳ねるようにして、界斗の背に追いすがっている。
界斗との間隔が広がる様子は無い。寧ろ、少しずつだが縮まっている気さえした。
(――そんなに速くなってるんだよーっ!)
声に出して叫びたかったが、そんな余裕もない。化け物は、界斗のすぐ後ろにまで迫っているのだから――。
囮役を始めた時は、まだ良かった。
化け物の進むスピードは遅く、小走り程度でも距離を保つことができていた。
界斗は安心した。これなら体力のない自分にも耐えられると。
だが、そんな甘い考えは、直ぐにも打ち砕かれた。
地面を擦りながら進んでいた化け物は、そのスピードを速めていき、やがて地面を跳ね始め、今では全力で走る界斗の背に追いすがっている。
少しでも走るスピードを緩めようものなら追い付かれてしまいそうだ。
しかし、このままでは体力が持たない。
界斗は逃げるのをやめて撃退することも考えた。手頃の石を拾い、化け物に向かって投げつけてみたところ、投げつけた石が化け物の体に飲み込まれ、一瞬の内に溶けてしまったのだ。
それを見てからと言うもの、界斗はこうして必死に逃げることに専念していた。
界斗の呼吸はさらに乱れ、脚が鉛のように重い。今すぐこの場に倒れこんでしまいたかった。
(もしかして、これ……思っている以上にヤバい状況なんじゃないか……?)
そう考えてしまうと、急に息が苦しくなったかのような錯覚を覚える。
化け物に飲み込まれ、溶かされていく自分の姿が脳裏に浮かんでしまう。
(でも、あと少し……あと少しであの場所に)
界斗は嫌な幻想を自身の脚で振り切ると、頭を空にし、前だけを見つめていた。
やがて、視界に映る景色は記憶と合致していき、界斗達が落ちて来た場所へとたどり着いた。
この場所は、走ってきた道よりもずっと広い。ここでならどうにかして化け物を避けることができるはずだ。
界斗は、水溜りの前で足を止めると、息を整えながら振り返った。迫りくる化け物に備えるために。
(よし、ここでなら回り込むなりして化け物を――って、ええ!)
だが、界斗の行動は一手遅かった。
化け物は既に距離を詰めており、今まさに界斗へと飛びかかっていた。界斗が思っていた以上に化け物は素早く、距離を放すことができなかったのだ。
「ひえっ!」
眼前に迫る化け物に情けない声を上げながらも、界斗は反射的に体を横に倒した。
水面を叩く大きな音がしたかと思うと、地面の固い感触が体を襲う。
半身に鈍い痛みがしばらく続いたが、それ以外に問題はなさそうだ。どうやら化け物に飲み込まれることは避けられたらしい。
界斗は倒れこむのも程ほどに、化け物が飛び込んだであろう水溜りに顔を向けた。
見ると、化け物は水の中で微かに蠢いているだけで、上がってくる様子は無い。どうやら水に弱いらしい。
そう思った界斗は安心し、仰向けになると、乱れた息を整えた。
「はあ、はあ、怖かった……」
思わずそんな言葉が出る。
足は重くジンジンとした痺れが疲労をしつこく訴えかけてくる。立ち上がることさえ億劫で、このまま眠りに着けるのならどれだけ良いか。
(早く二人のとこに行かなきゃ。きっと怖がっていると思うし)
二人の顔を思い出し、行かねばならないと解ってはいたが、我儘な脚がその邪魔をする。甘い考えが界斗を誘った。
(……まあ、なんとか助かったし、このまま少しだけ休んでいっても――)
その先を考える前に、水の弾ける音が界斗の思考を遮断した。
スローになる意識の中、水の中から飛び出した化け物が界斗の真上を飛んでいるのが見える。このままでは、水しぶきよりも早く化け物が界斗の顔面に降りかかるであろう。
「――全然助かってない!」
界斗は自分と化け物両方への恨みを込めて叫んだ。
叫びながら体を転がして、何とか避けて見せると、よろけながらもなんとか立ち上がった。足の痺れは相変わらずだが、そうも言っていられない。化け物は、休む暇を与えずに、再び迫ろうとしているのだ。
界斗は化け物が飛び上がろうとしたのと同時に振り返り、一目散に駆け出した。重い身体に鞭を打ち、来た道を戻って行く。
これでは逃げて来た意味がないとか、事態の解決には繋がらないとかという事を考える余裕はもうなかった。
未だに背後では化け物が迫ってきている。だから逃げる。
界斗の頭にはそれしかなかった。
「無理ー! もう嫌だー!!」
界斗の叫びを聞く者はいない。ただ、二つの赤い瞳だけが界斗を捉え、離そうとはしなかった。
地獄のシャトルランはまだ始まったばかりである。
ぜはー、ぜはーという荒い息をしながら、界斗は走っていた。息も絶え絶えで、最早脚の感覚は麻痺してしまっている。
脚を止めてしまえばどれだけ楽になろうか、という甘い考えが何度も頭を横切ったが、辛うじて自己防衛本能が勝り、今もこうして走っていられた。
我ながら走り続けている自分を褒めてやりたいが、しかし、何処まで行けばいいのか、いつまで走ればいいのか。そんな回答のない苦しみに今にも限界を迎えてしまいそうだった。
そして、ついにその時が来た。
「――っ!?」
不意に訪れる浮遊感が。
自分が何かに躓いたことに気が付いたのは、固い地面に顔面を強かにぶつけた後の事だった。
「~~~っ!!」
声にならない悲鳴を上げ、痛みに悶絶する界斗。鼻が焼けるように熱く、両頬にヒリヒリとした感覚を覚える。鼻の奥から鉄の香りが漂い、どろりとしたものが上唇に垂れてくる。
さらに、次の瞬間、倒れた界斗の背に重さが加わった。
苦しいほどではない。小さな子供が乗った程度の感覚だが、ブヨブヨとした感触が非常に気持ちが悪い。
直ぐに界斗はそれに理解した。
理解するとともに、界斗の背中に激痛が奔った。
「うあああっ! ああ……ああああ!!」
熱された鉄を押し当てられているような痛みが背中を襲う。
反射的に振り払おうとするが、吸いつくように体から離れようとはしない。界斗の抵抗空しく、為すがままにされてしまっていた。
アメーバ状の体が背の上で広がっていくのが解った。界斗の腕へ、脚へと。
やがては全身を包みこもうとしているのだろう。
考えたくもなかった。
激痛により、朦朧とする意識の中、もがくこともままならない界斗。
音が、光が薄まっていく。
体の自由も奪われていき、思考も閉ざされようとしていた。
(なんだよ……折角ここまで耐えたのに……)
界斗は悔しかった。
誰かのために苦しい思いをして、その結果がこれとは納得できるはずがなかった。これが誰かの意志であるのなら、文句の一つでも言ってやりたがったが、生憎にも言葉を考える余裕もない。
せめて、この化け物だけでも何とかしてくれと界斗は願った――その時。
「――おりゃ」
聞き覚えのある声がした。どこか気が抜けていて、この状況にはあまりにも不釣り合いな声。
同時に界斗に圧し掛かっていた重さが、包み込もうとしていた感触は消える。体を蝕んでいた痛みも次第に和らいでいくのが解った。
突然の事に事態が飲み込めないでいる界斗が唯一動かせる頭を持ち上げると、その表情は自然と緩んでいた。痛みも忘れ、見つめ続ける。
視線の先では、洞窟に差し込んだか細い光に照らされ、あの青い瞳が、宝石のように美しく輝いていた。




