知らない扉
界斗の意識は微睡の中にあった。
心地の良い睡魔と疲労に抱かれながら、意識だけが目覚めてしまったような。
界斗は再び欲求に従って意識を手放そうとした。
しかし、そんな界斗を懐かしい声が引っ張り上げようとする。
「―――いと、界斗、起きろってば」
耳元で喧しく鳴り響く甲高い声。
不思議と不快感はなく、それよりも何故か酷く寂しい気持ちに襲われた。
「まったく、また徹夜でゲームでもしてたのかー? 起きろー!」
明るくて能天気で、そんな当たり前で平凡な声なのに、どうしてこんなにも心をかき乱されるのか。どうしてこんなにも胸が苦しくなるのか。
「今日は新作アイスを食べに行くって言ったじゃんかー」
声の主は、いつまでも目を覚まそうとしない界斗に起こっているようだった。
界斗も直ぐに起き上がり、その主の声に答えたがったが、体が石になってしまったかのように固まり、言うことを聞いてくれなかった。
その上、何故か界斗には、声の主の名前が何なのか解らなかった。
「おい、いい加減しろー」
その言葉一つ一つが懐かしく、深く胸に染みこんでいく。
知っているはずなのに、頭の中からその名前だけを奪われてしまったかのように思い出すことができなかった。
「もういい。私だけで行っちゃうんだから」
界斗が目を覚まさないことに腹を立ててしまったのか、声の主の気配が急激に遠ざかってゆく。
待って。
そう言いたかったが、相変わらずに指一つ体を動かすことができない。
界斗がやきもきとしているうちに、声の主の気配は完全に感じられなくなってしまった。
(おい、待ってって! 一人で行くなよ! どうして置いていくんだよ!)
いくら叫ぼうとしても声は出ない。彼女には届かない。
彼女を掴むための腕も、伸ばすことすらできないのだ。
(俺も行くんだ! だって、俺たちはずっと一緒だっただろ!)
自分が一人になってしまう事よりも、彼女が一人で行ってしまう事が悲しかった。
それと同時に、一人にさせてしまった自分の不甲斐なさが嫌で、少しでもできることを、必死に声を張り上げようとする。
そして叫んだ。
彼女の名を。
(待って――――)
「――――未來っ!」
界斗の視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の天井でも教室の黒板でもなく、物であふれた見知らぬ部屋の風景であった。
「……え?」
手を前へと伸ばし、上半身を起き上がらせた状態で固まる界斗。
勢いよく起き上がったためか無数の小さな埃が立ち、日に照らされて輝いていた。
「ここって……」
見ると、界斗は固いベッドの上におり、体には薄っぺらい布のようなシーツが掛けられている。そのため、直ぐに自分が先ほどまで眠っていたことが解った。
界斗は未だ覚醒しきらぬ頭に手を置き、今までの事を思い出そうとすると、記憶が雪崩のように蘇り、全てを思い出すにはそう時間はかからなかった。
あのような衝撃の連続だったのだ。忘れようにも、忘れられぬはずがなかった。
むしろ、忘れてしまった方が幾分か幸せであっただろう。
界斗は手を下すと、深く、胸の中身を全て吐き出してしまうかのように深く、溜息をついた。
「はあぁぁぁぁぁぁぁ……」
思い出した事を酷く後悔するというのは初めての経験だった。
界斗は両手で頭を抱え、そのままベッドに倒れこんだ。ベッドが軋む音を立てて、再び埃を舞い上がらせる。
ベッドは思いのほかに固く、背中が少し痛んだ。
アオとマリアから衝撃の事実を伝えられた界斗はしばらくの間、声を発することもできず、心配した二人が声を掛けるまで放心し続けた。
何とか取り繕うとしたが上手くはいかず、界斗を案じたマリアが休息を提案し、今は使っていないというこの部屋まで案内してくれたのだ。
この時ばかりは異様な雰囲気を感じ取ったのか、出会いから騒がしいアオも何も言わず、界斗を心配そうに見ているだけであった。
そうして、部屋に一人になると、靴も脱がずにベッドに倒れこんだ。心身共に疲弊しきっていた界斗は、そのまま気絶するかのように眠り落ちた、と言う訳であった。
「……これからどうしよ」
頭を抱えたまま、誰に言う訳でもなくそう呟く。
界斗は少しだけ期待していた。
見知らぬ場所も魔物も龍も全てが夢で、目を覚ましたらいつもの自室で、いつも通りに服を着替えて、いつも通りに家族に挨拶をして、いつも通りに学校に行って未來や友人と会話をする。界斗にとって当たり前にあったもの。
しかし、そんな淡い期待も目を開けた瞬間に霧散し、冷えた空気と古めかしい木の香りが現実へと引っ張り上げてくれた。
全く持ってお節介であるそれに文句の一つでも言いたい気分なのだが、話が通じない相手であることはわかりきっていた故に、界斗はこうして頭を抱えるほかなかった。
「……はぁ」
界斗はもう一度だけ深い溜息をつく。
このまま天井のシミを数えるのもいいのだが、完全に頭が冴えてしまっていて、到底そのような気分にはなれそうにはなかった。
だから界斗は、まず起き上がることから始めた。
乱暴にシーツを剥ぎ、体を起こす。
そうして、ベッドに腰掛ける状態になるよう体を擦るように移動させると、いつの間にか脱ぎ捨てていた靴を履き、ゆったりとした動作で立ち上がった。
息を吐きながら、体を上へとぐっと伸ばす。
疲労が溜まっているのか、まるで体が自分のもので無いかのように重く感じた。
「……喉乾いたな」
界斗は歩き始めた。
その肩には重く何かがのしかかり、界斗の足取りを重くさせていた。
扉の前に立ち、取っ手を掴む。
しかし、扉を引くのを躊躇われる。
扉の向こうがまるで知らない世界のように感じられ、開けてしまったら最後自分が一人放り出され、孤独になってしまうかのような妄想に襲われたからだ。
扉の前で立ち尽くす界斗。
時間が無意味に流れ、静けさが辺りを支配する。そんな時間が永遠に続くかと思われたが、怯える界斗の背中を押したのは、あの夢。未來だった。
一人、先へと行ってしまう未來の背中。
幻のはずなのに、嫌にはっきりとした現実味を感じるそれは、再び目の前に現れ、夢と同じように界斗を置いて先へと行ってしまう。
夢、幻だと解っていても界斗は追わずにはいられなかった。
自然と手は扉を引き、体を外の世界へと晒しだす。
新鮮な空気が一気に流れ込み、界斗の体を優しくなでた。世界を隔てるものは消え、一つに繋がる。
そして、界斗は再び歩き出す。
いつの間にか幻は見えなくなり、不思議と夢の事も忘れていた。
まずはアオとマリアに会おう。そして、話をしよう。
何を話をするかは考えていない。
ただ、それ以外どうしていいか解らないから。これが思いつく限りの精一杯だから。
相変わらずに体も肩も重いが、足取りは軽く、前へと向いていた。
部屋から出た界斗が最初に目指したのは、あのリビングだった。
薄っすらと残る記憶を頼りに通路を進み、何回か角を曲がると直ぐに辿りつくことができた。
「すいませーん……」
通路から顔だけで覗き込んでみると、アオやマリアの姿はなく、ガランとした静けさに包まれていた。
当然だが、使用された食器は綺麗に片付けられており、人の気配を感じさせない。
「誰もいないのかな」
そう言って界斗がリビングに足を踏み入れると、テーブルの上に一冊本が置かれていることに気が付いた。
タイトルに『ドラグルド大陸』の名が入った本。界斗が見つけてしまったこの国の地図。
手に取り、改めて中に書かれている内容を確認してみる。
表紙を捲った一ページ目。そこには確かな筆跡で『ドラグビルド大陸』と大きく書かれていた。まるでそれが激しく自己主張をしているように思え、無性に腹が立った界斗は直ぐにページを捲った。
しかし、一ページ、また一ページと捲っても目に入るのは知らない名前ばかりで、いくらページを捲っても見知った名前が出てくることはない。
ついには最後の何も書かれていないページまで捲りきると、界斗は本を閉じて肩を落とした。
「やっぱり、ない……」
界斗は恨めしそうに表紙の『ドラグビルド大陸』の文字を睨む。
こうして見ていれば、そのうち『日本』の字に変わらないかというありもしないことを思いながら、一人唸っていた。
「はて、ついに馬鹿息子が帰ってきたかと思えば、見知らぬ者ではないか」
不意に背後で発せられた初めて聞くアオともマリアとも違う声に、界斗は体をびくっと跳ね上げさせた。
声は老婆のようにしゃがれていて、魔女を連想させた。思わず取って食われるところを想像し、背中に冷たい汗が流れる。
界斗が本を両手で本を持ったまま恐る恐ると言った感じで振り返ると、そこには柔和な雰囲気を顔に纏わせた老婆が不思議そうにこちらを見つめている姿があった。
顔は皺だらけで腰が曲がっている老婆からは、不思議なことにアオと同じものを感じた。
「一体何者か?」
界斗が何も言えずに黙っていると、老婆が表情を変えずにそう問いてくる。
このままでは家に不法侵入した物取りに見えてしまうのではないか。老婆の言葉を聞いた界斗はハッとしたように目を見開くと、いい加減に慣れ始めた自己紹介を口にした。
自分の名前、村の外から迷い込んで来た事、それでアオとマリアにお世話になった事。
別の世界から来たかもしれないなどということは伏せた。まだ、妄想であることは否定できないし、言っても混乱するだけと思ったからだ。
老婆は耳が遠いらしく、何度か聞き返されながらもなんとか自分が不審人物ではない事を理解してもらうことができた。
アオとマリアの名を出したのが良かったらしい。老婆は直ぐに表情を緩め、老人らしい声でほっほっほっと笑った。
「ほほう、界斗、と言うのかい。いい名だの」
「いえ……そんな……」
名を褒められ慣れていない界斗は、胸の奥がむず痒くなる。自分の名前をそう言われるのは初めてだった。
「しかし……帰り方がわからぬとは大変だのう。何かできることがあればいいのだけんのう」
老婆は心配そうに界斗を見る。その表情に界斗はまたも申し訳ない思いに襲われる。
ここで目が覚めてからというものの、出会った三人全員が界斗を心配し、気遣ってくれている。これは界斗にとっても幸運であり、トータスという土地柄がそうさせているのだろうか。
だからか、界斗の口からは自然と感謝の言葉が出た。
「ありがとうございます。でも、既にもうこうしてお世話になっちゃってますから。これ以上望むのは悪いですよ」
感謝を込め、出来るだけ言葉が優しくなるように言う。
老婆も「そうかの」と笑ってくれた。
「ともかく、よく来たの。こんな何もない村だがの、ゆっくりとしていくといい」
老婆がくしゃっと破顔させ、それに界斗も笑顔で答えた。
「はい、そうさせていただきます」
子供のような可愛らしい笑顔を浮かべる老婆に、思わずつられて笑顔になる。
「困ったことがあれば気軽に聞くといい。皆気性の優しい人間ばかりだからのう」
そう付け加える老婆の優しさに界斗はもう一度だけ感謝を述べ、早速ご厚意に甘えることにした。
「では、一つ……」
それから界斗は老婆にアオとマリアの居場所を老婆に聞いた。
すると、二人とも今の時間帯はいつも外に出ている事がわかった。それぞれにやることがあるらしい。
それを聞き、外に出ることにした界斗は、最後に礼を言ってから、すっかり手の熱で温まった本をテーブルに置き、外を目指したのであった。
外に出れば必然的に他の村人に出会うだろう。比較的に人見知りな界斗だが、不思議と不安はなかった。
この村では上手くやっていけそう。そう思えるほど出会った人々は皆優しく、暖かったのだ。
リビングを出て廊下を進み、隙間から日差しが漏れ出す扉の前に立つ。
恐らくこの扉の向こうには、来た時とはまた違った見知らぬ世界が広がっているだろう。そう思うと少しだけ緊張してくる。
しかし、いい加減に悩むのも馬鹿らしくなってきた界斗は腕に力を込め、勢いよく扉を開いた。
扉はガタガタという不穏な音を立てながら開くと、暖かな光が一気に界斗へと襲い掛かった。
眩しさに思わず手を翳す界斗。
やがて目が慣れると、そこには暖かな太陽が見守るのどかな田舎の風景が広がっていた。来たときには気が付かなった人々が生きる音、空気が身体を包み、歓迎してくれているようであった。
界斗は一瞬、目の前の風景に圧倒されたが、直ぐに気を持ち直し、前へと足を運び始めた。
こんなにも歩くことは簡単なのだ。扉を開けるたび、前に進むたびに悩んでいたのも変であろう。
そう思って進む。前へ、前へと。
少ししてから気が付いたのだが、老婆に名前を聞き忘れていた。
あの家にいたのだから、きっとアオとマリアの家族であろう。アオに聞けば解るだろうか。
界斗はアオの馬鹿っぽい顔を思い出しながら、見知らぬ道を歩いていた。




