『神田編』
その頃おれは東京で新しい仕事を始めたこともあってさ、それもまた全国的な会社だったから、行く行くは兵庫の支社に行かせてもらえる手筈だったんだけど、その忙しさの中で埋もれるようにして、次第に関係は冷めていった。
こういうと職種なんかがバレそうだけど、男女比が男性1:女性9くらいのすんごい会社でさ、可愛い女の子たちに毎日囲まれる職場だってこともあって、彼女に疑われたこともあったし、おれも毎日朝から夜まで働いて疲れてた。
特に職業柄、人によっては変形するくらい親指を酷使するもんでさ、最初は痛くて痛くて、大好きなピアノももう弾けないなって諦めて。
でも、何のためにやってんだか、よくわからなくなっちゃってたんだよ。あの頃はとかくよく足元から地面が崩れ落ちていく感覚にとらわれててさ。
駅中でもどこでもいいんだ。階段を降りるたびにそこが崩れ落ちて、自分を押し潰してくれたらいいのになとか。
会社の非常階段のとこに灰皿があってさ、喫煙所になってるんだけど、おれはいつもそこでタバコを吸いながら、ここから落ちたら楽になれるのかとか、毎朝通勤に使ってる都営浅草線に飛び込むことを考えるようになってたんだよ。
すると、そんなおれの事情を察してか、話を聞いてくれて、慰めてくれる子もできた。
きっかけはなんだったかな。
よく覚えてないんだよ。
そもそも女性ばっかりの職場だったからさ。そこで何ヶ月もやってこうってんだから、年上だろうが年下だろうが、女の子と親しくなること自体は別に珍しくもなんともなかった。
ただ、おれはよく遅刻した。
それでよく怒られてた。
というか遅刻に限らず、おれは何かにつけて怒鳴られてたな。同期からも「(おれ)さん狙われてるよね。御愁傷様」なんて言われるくらいには、毎度おれがお説教の槍玉に挙げられてた。
そんなある日、またおれがみんなの前で怒られてるときだった。
ふと、その子と目が合った。するとさ、その子、どうしたと思う?
ぷっ、て笑いだしやがったんだよ。
なんだこいつ、と思った。
それからだったかな。向こうがおれをからかうようになったのは。
「ふわふわしてて、くらげみたいで見てて面白い」
話を聞くと、そう言われた。
くらげ。
未だに意味がわからないんだけど、ふわふわしてる? どこがくらげなんだって聞いたら、
「仕事中はずっと死んだような顔してるのに、仕事が終わると、急に生き返ったように笑顔になるの」
って、彼女は言った。
ぜんぜん自覚はなかったし、それでもくらげではないだろとは思うけど、でも、なんでも嬉しかったんだよ。
毎日毎日怒られてさ、また今日も怒られるんだろうなって思いながら仕事してた頃だったから。
そんなおれを見て、ぷっと笑う奴がいたんだ。
腹は立ったけどな。ちょっとだけ。
意気投合すると、仕事が終わってもまだ話し足りなくてさ、仕事終わりに会社の非常階段のとこでまとまって話をするのが日課になった。
加古川の彼女のことも話した。するとさ、彼女はこんな最低なおれの頭をぽんぽんと叩くようにしてくれたんだ。
最初はさ、ほんと髪の毛に触れるか触れないかって感じだったのが、おれが彼女のほうに頭を差し出すと、もっとちゃんとよしよししてくれて、終いには抱きしめるようにしてくれたんだ。
久しぶりに人肌に触れられた気がしたよ。職業柄毎日のように触ってたのにさ。
異性の子に触れられる、ってのが肝心なんだな。男同士でじゃれあって、いきなり後ろから肩を抱かれたり、背中を叩かれたり、そういうのとは全然違うんだ。
それだけで自分の過去の罪とか現在進行形で起きてる嫌なこととか、全部洗い流してくれる気がするんだ。
その日は駅前まで送ってくれて、おれはお返しに彼女の頭をよしよしし返した。
ズルい。と彼女は言って、改札口を通るおれを見送ってくれた。どっちがズルいんだかわかりゃしないよ。
加古川の彼女との付き合いが終わったのは、その頃のこと。そこまでいくともう双方の合意のようなもんだったな。
こう書くとちょっと作り話みたいに聞こえるかもしれないけど、本当のことなんだ。
で、綺麗さっぱり別れたってことで、今度はその慰めてくれた女の子におれは甘えるようになった。
単純なもんでそうして一度吹っ切れるとさ、自由な気になれちまうもんなんだ。
職場でも仕事中でも、二人きりになれる機会を作ってはちょっとしたイタズラをしあったな。他の同僚から変に見られたってお構いなし。
それは仲良くなった後で知ったことなんだけど、そもそも彼女もどこかちょっと変に見られてたようなんだな。
おれ以上にふらふらしていて、行動が大袈裟というか、女の子連中から言わすとぶってるってんで、入社仕立ての頃から親しくしてくれてた別の同僚には、バカみたい、と陰ではっきり言われてたよ。月並みだが、女の社会ってのは怖いって思ったね。
で、その時も飲み会だったかな。その帰り道でさ、彼女は一人グループから飛び出して自販機にべったり張り付いて何かを見上げてた。
他の連中は何かを察したようにそろって無視したし、おれの顔を見るなり、顎先でくいくいっとやるんだ。奇行を繰り返す彼女のお世話係の出番ってわけだ。
で、おれが仕方なく後をついてって、隣に立って自販機を見てみると、彼女はこう言った。
「マックスコーヒー! マックスコーヒーがある!」
おれにはその『マックスコーヒー』ってのがどんなものなのかわからなかった。後で調べてみたら一部の界隈ではすごく有名だけど、そんなコーヒーのことなんてぜんぜん頭になかったからな。
「なにそれ。知ってるの?」
「なんかね、めちゃくちゃ甘いらしいよ」
「飲んでみれば?」
「うーん」
彼女は迷ってたようだった。
ただ白状するとさ、ここから先が、どうにも記憶が曖昧なんだな。
買わなかったような気もするし、結局おれが買ったような気もする。缶を開けた記憶がある。先、飲んでいいよって渡そうとしたら、彼女が「(おれ)くんのお金だからいいよ」って言って「いや、(間接キス)気になるでしょ? おれは気にしないから」みたいなやりとりがあった記憶もある。嘘じゃないんだ。ただ、マックスコーヒーのあの味だけは知ってるんだな。馬鹿みたいに甘かった。あれを初めて飲んだのが、あの夜だったのかはもうわからないな。
記憶ってのは妙なもんだね。
出来事の順番なんかすっかり抜け落ちてるくせに、彼女が自販機にべったり張り付いて、「マックスコーヒー!」って喜んでる姿だけは、妙に残ってるんだから。
そんなもんで、しばらくは楽しかった。
でも、実のところ、そのおれを慰めてくれた子にももう彼氏がいたんだ。
遥か遠くの地元に、だけどな。
会社とはいっても、そこは中央本部みたいなものでさ、数ヶ月の研修が終わったらめいめいの地元に帰るんだ。
おれは元々関東の出だから、そんな気にする程のことでもないんだけど、地方の出身者は違う。
彼女も研修が始まった頃は心細くてさ、毎日この非常階段に出てきて、その彼に電話しながら、泣いてたんだって。
そのうち気付いたら、そこにタバコを吹かしにくる男が現れるようになったわけだな。
しかし、その時のおれはそれをどんな風に聞いてたと思う?
最低だぜ。
チャンスだって思ったんだ。
むしろ、じゃあ今しかないじゃんって。
しかも彼女も彼女でさ……そこまでおれの内心を聞いた上で「それが本能だよ。人間、仕方ないことなんだよ」とか言うんだぜ。そのやわらかなお胸で、おれの頭を抱えながらな。
そのときよく覚えてるのが、彼女はそこの寮生活だったから薄着でさ、下着が透けてたんだ。おれはラッキーと思ってチラチラ見てたんだけど、駅前での見送り際になってそのことを注意したら「なんでもっと早く言ってくれんかったん。ここまで出てきたやん」なんて怒られたりもしたな。
おれは期待せずにはいられなかった。
ちょうど休みが被った日があって、その日に遊びに行こうと誘った。やる気満々だった。
でも彼女はそんな日に限って、風邪をこじらせたんで行けないと言い出したんだ。おれはどうしようもないバカだから、それも鵜呑みにして、じゃあ仕方ないかって身を引いちまうんだな。
しかし、その次に出勤した日だった。おれは別の同僚から彼女がその日渋谷のスイパラに行ってたことを知るんだ。おれには嘘をついてたってわけだ。
おれはもうブチ切れてさ、なんて送ったっけな——いや、あんまりにも酷いセリフなんで忘れたふりをしているんじゃない。嘘じゃないんだ。本当に思い出せないんだけど、とにかく酷いセリフをLINEで送ってさ、彼女とはそれきりになった。
新しく出会った人にも、そこで傷付いたおれに優しくしてくれた人にも、最後には自分の欲求をぶつけて終わる。
つくづく、どうしようもない奴なんだよ。
おれって人間は。




