村上の母親
窪みに落ちたピ子は、助けにやって来た見習いの者と一緒に熊から逃げようとしていた。
「いかん!」
行者が状況を察知し、叫んだ。
熊が穴から飛び出してくると、二人に襲いかかる。
「あっ!」
ピ子は声を上げた。
見習いの者が、ピ子を突き飛ばしたのだ。
熊は見習いが持っていた松明を前足で弾き飛ばす。
そのまま大きく開いた口で、見習いの首元に噛みついた。
この獣は人の急所がどこか、理解している。
そのまま熊にのし掛かられ、見習いは勢いよく倒された。
ピ子を連れていた行者が回り込み、突き飛ばされた彼女を素早く抱きかかえると、斜面をのぼる。
「逃げろ」
行者の言葉に、残り四人の見習いは戸惑った。
「奴は、まだ生きてる。助けないと!」
行者は悩んでいる見習いに向けて、もう一度言った。
「助からない。逃げるんだ」
行者の言葉に従い二人の見習いは逃げ出した。
残りの二人は顔を見合わせ頷くと、熊に向かって斜面を下りていく。
「今助けてやる!」
ピ子が行者の肩越しに見た光景は、そこで終わっていた。
寺に戻ったピ子は泣いていた。
「私のせいで、熊に」
行者はピ子の言葉を聞いても、否定も慰めもしなかった。
見習いの者も、自らの気持ちを整理するのが精一杯で、ピ子のことなどかまっていられない。
涙が止まらないピ子に、一人の女性が近づいてきた。
「ピ子ちゃん。話は聞いたわ」
女性に肩を抱かれ、ピ子はさらに気持ちが昂って、声を出して泣き始めた。
「私が見えもしないのに、見えたように話したからだ」
「誰にも変えられないことはあるの。もしピ子が行かなくても、熊と出会わなくても、同じ結末の時もある。逆に、同じことをしても誰も死なないことも。これは人が望んで変えることができないことなの」
「そんなはずない」
抱きしめられ、背中を優しく一定のリズムでトントンと叩かれると、信じられないことも何か受け入れてしまいたくなってくる。
「けど、あなたのせいじゃない」
夜は更けて、寺は静かだった。
ピ子はそのまま、その女性と一緒に寝床についた。
二人とも、長袖と長ズボンの寝巻きを着ていた。
布団に入ると、女性はピ子の足の間に足を差し入れてきた。
「えっ?」
「寺はどこで寝ても寒くてね。少しの間、こうさせて」
ピ子は頷いた。
女性はそれだけでは収まらず、差し入れた足をこするように動かしてきた。
足を動かしているうち、寝巻きははだけ、素足と素足が触れ合っていた。
滑らかな肌。体温の温もり。
「……」
暖かい。
暖かい、いや、熱い。
不快なのではない。その逆だ。
ピ子は彼女の腕に頭を預けていた。
いつの間にか、女性だけではなくピ子も足を動かし始めた。
だが、それは寺であってはいけないこと。
他の誰かに知られてはならないことで、決して声をあげてはいけない。
幼いピ子は耐えきれなくなっていた。
「あっ……」
女性はその声を聞いて寝床の中で突然身体を離した。
直前までピ子の唇に触れそうなほど近かった顔も、反対側を向いている。
ピ子は感じた。
風を受けぐんぐん上がっていく凧が、急に回旋して地上に激突する。
地に落ちた衝撃で、凧はバラバラ。
バラバラに壊れた凧では、もう遊べない。
そんな気持ちだった。
暗いビジネスホテルの部屋で、ピ子は目を覚ました。
夢。
それはピ子の重要な部分を形成した、大切な出来事だった。
「あの女性の名が確か……」
この時、ピ子を慰めてくれた女性が『水上』。
彼女はそう記憶していた。
もしこの水上という女性が村上の母親の可能性がある……
彼女はこれから山に入り、寺を訪ね、そのことを確かめるのだ。
身支度を整えると、ホテルを出た。
人気のない街を抜け、麓に向かう。
舗装道路から外れ、登山用の道を上っていく。
暗く、不気味な雰囲気がある。
熊に遭遇した夢を見たばかりで、周囲の風景が夢と重なって見えてしまう。
ここから入るには、幾つかの峠を抜ける必要がある。
五月雨は、岩陰に当時のピ子には見えなかった鬼の姿を見つけた。
地に縛りつけられ、動けない鬼。
五月雨は自らの成長を改めて確認すると、自分に言い聞かせる。
『今はあの頃の私じゃない』
寺に住む行者たちにも負けない自信があった。
見鬼すら出来なかった五月雨が、才能無しの烙印を押され寺から追い出された。
後に彼女は独学で見鬼や対魔の能力を身につけた。
何も不安に思うことはない。あの頃の私じゃない。
何度もそう言い聞かせる。
だが、彼女は幼い頃追い出されてから初めて戻る寺に対し、感じる不安とプレッシャーを拭い去ることは出来なかった。
寺に至る道中最後の峠に着くと、五月雨はそこで立ち止まった。
手頃な岩に腰掛けて、山頂からの景色を見て心を落ち着けようとした。
普通、世の中は均等に穢れているが、寺とその周辺は穢れのバランスが崩れている。
そのせいか、この寺の周囲には鬼や鬼もどきのような、奇怪なモノどもが集まってくるのだ。
「気配がする」
少し岩の上で休んでいただけなのに、ピ子は周囲を鬼に囲まれていた。
彼女は立ち上がり、伸ばした人差し指と中指を顔の前に構え、祝詞のような経のようなものを唱え始める。
鬼は踵を返し、離れていく。
ピ子はそのまま寺に向かって歩き始めた。
しばらく進むと、森の中に石の階段が現れた。
石の階段の先に寺を囲む塀と門が見える。
さらに寺の近くまで下りてくると、見習いの者がピ子に気づいた。
「……何者だ」
ピ子は唱えることを止めた。
見習いの者を見つめ、言った。
「私は五月雨ピ子と申します。この寺で生まれ育ち、捨てられた者です」
「五月雨……」
見習いの者は、持っていた箒を槍のように構えた。
「!」
ピ子は殺気を感じて飛び退く。
飛び退いた場所に、どこからか深編笠を被った行者が飛び込んできた。
「ここは女が入るところではない」
五月雨は手刀を構えるが、素手で戦える相手ではないことはわかっていた。
深編笠を被った白衣の行者が飛び出してくる。
「ここは女が入る場所ではない」
五月雨は感じる圧力に怯えながらも、戦う姿勢を見せる。
彼女は震える声で、言った。
「中で女を囲っているくせに」
後ろの見習いが箒を振り上げ、五月雨に向かう。
行者は手を横に伸ばし、それを抑えた。
「五月雨…… どこかで聞いたことがある名だ」
「天城方玄に会いにきた」
行者は深編笠に手をかけた。
「まさか……」
行者はそのまま笠を持ち上げると、五月雨と目があった。
再び深編笠で顔が見えなくなると五月雨に背を向け、行者は寺に向き直った。
「ついてこい」




