系譜
榊原課長が、白目を剥いたまま資料倉庫に入ろうとしていた。
発言におかしな所は見つからない。
そう思っている鈴木は、課長の言うことに従おうとしたその時。
『ダメだ! 鈴木さん!』
榊原課長から村上の声が聞こえてきた。
「キモっ!」
鈴木はようやく異常を察知して、五月雨の後ろに下がった。
「何、今の。村上の声?」
『そうです。村上です』
「そんなところで何やってるの?」
鈴木がそう言うと、村上はどう返していいか分からなくなった。
『あのどこにいると思ってますか?』
「課長の中でしょ?」
『課長の中? そんな訳ないでしょ。自宅ですよ。たまたま手に取った手鏡に、妙な字が書かれているなと思って覗き込んだら、五月雨さんと鈴木さんが映ったんです』
五月雨は首を傾げた。
そして五月雨は課長に向かって話しかける。
「いろいろ説明がつかないわ。今言っただけの理由だと、どうして鈴木さんに『ダメだ!』と言ったか根拠がない」
『鏡に書かれている文字が、いかにも邪悪だったので…… それじゃ説明にならないですか?』
五月雨は「ならない」と言いかけて止めた。
村上にはそういう才能があるのだ。
「とにかく村上のおかげで助かったわ」
鈴木が言う。
「あなたが課長を救えないの?」
『これが榊原課長からの視点なんですね』
五月雨が必死に何か関係しそうな知識を思い出すが、解決方法には至らない。
『なぜこの手鏡に文字とそちらの様子が映るのかすら、分からないんです』
「その手鏡って、以前母親が持っていたとか、代々受け継がれたとか、そういうもの?」
『はっきり分からないけど、そうなのかも。意識する前から身近にあったものです』
その言葉で五月雨はある知識に辿りついたが、この場で口に出すことは出来なかった。
五月雨は言う。
「ちょっと私から仕掛けてみる」
五月雨は上着の内ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
薬のように、何かを包んでいるような折り方だ。
その紙の包みを左手に持ち、右手は人差し指と中指を伸ばして口元に近づける。
例によって『祝詞』のような『読経』のような不思議な言葉と音階が彼女の口から流れ出てきた。
だが、榊原が苦しむ訳でも、踊り出す訳でもない。
見かけ上、周囲で変わったことは何もないのだ。
鈴木が耐えきれず、言った。
「村上、そっちになんか変化は?」
『特に何も』
鈴木は五月雨を見た。
五月雨は目を閉じて、詠唱に集中している。
「……待つしかないの?」
榊原に対して効果がない訳ではなく、全く動かなくなったという点では効果が出ていると言えた。
ただ、この膠着状態がいつまで続くかが問題だ。
「五月雨さ……」
「五月雨、やめろ」
鈴木の言葉に、榊原の声が重なってきた。
榊原の動きに気付き、鈴木が五月雨の前に立ち塞がる。
「五月雨さんは殺らせない」
「なら、まずお前から」
榊原は鈴木に手を伸ばす。
襟を掴まれそうになり、鈴木は榊原の手を払う。
何度も繰り返しているうちに、鈴木の手がスピードで負けてしまった。
鈴木は引き剥がそうと懸命に抵抗するが、榊原の力が優っている。
『やめろ!』
と、榊原の体から、村上の声がした。
『鈴木さんを離せ』
急に、榊原が締める力が緩んだ。
すると鈴木の力で、榊原の手を外すことが出来た。
咳き込みながらも、息を吸い込む鈴木。
だが、再び榊原の手は鈴木の襟元を狙って伸びてくる。
「村上!」
『鈴木さん、課長の頬を叩いて!』
鈴木が手を上げ、振り下ろし気味に課長の頬を叩いた。
派手な音がして、課長の首が横を向いてしまう。
『痛い…… なんでこっちまで痛くなるの…… ただ鏡で覗いているだけなのに』
「そんなこと知らないわよ。ねぇ、これで良かったの?」
課長は崩れるように膝をついた。
『鏡に書いてある呪文のようなものが消えていくから、成功だと思います』
「そう。村上から見て、五月雨さんは何してるんだと思う?」
『よく分からないです』
意識が戻らないのか、課長は完全に廊下で横になってしまった。
「村上、なんか怖いよ」
『なんか、こっちも…… 見えなく』
「ちょっと、村上? 村上!?」
鈴木の鼻に焦げたような匂いが漂ってきた。
どうやら匂いは、課長から流れてくるようだ。
鈴木は課長の体を押して、回転させた。
スラックスの右ポケットから少しはみ出た紙を摘んで引っ張り出した。
「……」
紙の中心が茶色く焦げていた。
流れてきた焦げた匂いはこれで間違いなさそうだ。
鈴木が紙を開くと、そこには梵字や図形が書かれていた。
「五月雨さん、これいる?」
五月雨は詠唱しながらも鈴木の言葉が聞こえていたらしく、小さく頷いた。
鈴木は紙をハンカチに包んでポケットにしまった。
しばらく静寂が続くと、五月雨が口の前に構えていた右手を下ろした。
「ふぅ……」
ため息と共に、五月雨は体を折り、膝に手をついた。
「疲れた」
鈴木は訊く。
「何をしてたんですか?」
「呪い返し」
「呪い返しって、呪って来たのは誰ですか?」
五月雨は首を横に振る。
「分からない。この花瓶に呪いを掛けた術者に呪い返しをしたのよ」
「花瓶ってのは?」
「花瓶に呪いをかけ、霧島さんに会いに行った私をポロシャツ男に襲わせたの」
鈴木は首を傾げながら、
「返した呪いはどうなるの?」
「術者に印をつけた」
「えっ? そんなことしたら、気付かれちゃうんじゃ」
術者を苦しめる訳でもなく、なぜそんなことをしたのか、鈴木には理解できなかった。
五月雨は急に体の向きを変えた。
鈴木にはその意図が分からない。
「?」
五月雨はさらに口元を隠すようにして言う。
「私が近づくと額に印が浮かび上がる」
「なるほど、それなら」
「覚えておいて。それが敵だから」
鈴木はゆっくりと頷いた。
五月雨が話を続ける。
「それより、さっき村上が痛がっていたようだが」
「村上は私に課長の呪いを解く方法を指示して」
「まさか、呪いを掛けたのは……」
五月雨の言葉を聞いて、鈴木が目を見開いた。
花瓶と榊原課長への呪い。
鈴木は考える。この二つが同じ人物が仕掛けたのだとしたら、五月雨をギリギリで助けることも、呪いの解き方を知っていても、不思議ではない。
そしてその能力の持ち主なら、五月雨と同じように紙垂で鬼を倒せてもおかしくない。
「村上」
「鈴木さん、あなた何を考えて」




