孤児
音が聞こえた。
卵の殻を歯で砕く音、そんな音。
「ほら、あそこにいた!」
彼が指しても、他の子には見えない。
石祠の影に、分かりにくいが黒い者がいるのに……
薄紫のランドセルを背負った女子が呼びかけた。
「しんちゃん。寄り道してると遅刻するよ」
本当の名は慎二なのだが、当時、彼はそう呼ばれていた。
「なおちゃんも見えないの?」
「見えない」
奈緒は慎二の住むアパートの大家だった。
家が近いため、仲良くしてくれていた。
「お前以外誰も見えないんだから、お前が狂ってるんだよ。何回言ったらわかるんだ」
「奈緒もそいつといたらおかしくなるぞ」
同じ小学校に通う子どもたちが言いながら追い越していく。
慎二は泣きそうな顔になる。
奈緒が、彼のランドセルをポンと叩く。
「気にしない。ほら、学校行こう」
二人は学校へ向かった。
慎二は学校で授業を受けていると、窓の外、ベランダに人影を見た。
立ち上がると、言った。
「先生、知らない人が入ってきてる」
「えっ?」
先生がベランダ側を見るが、誰もいない。
「しんじの言うことは嘘ばっかり」
「先生、騙されたんだよ」
慎二はクラスメイトからも責められた。
しばらくすると、また窓際に人影が見えた。
白髪まじりの女性だった。
顔に涙の跡のような刺青がしてある。
慎二と目が合うと、女性は逃げた。
「待て!」
慎二は授業中なのに、ベランダに飛び出した。
「村上くん! 待ちなさい。授業中だぞ」
先生は教室の生徒をコントロールしながら、ベランダを見る。
先生は慎二を見失ってしまっていた。
慌てて職員室に連絡を入れる。
慎二は女性を追って、校舎内の階段を上がっていた。
後ろ髪だけ長く伸ばし、その髪を結っていた。
後ろ髪の先端には、何か爪のような金属が付けられている。
「待て!」
慎二は走った。
階段を上り詰めてしまった。
扉があるだけで誰もいない。
どこで曲がったわけではない。
「ここだ」
扉のガラスに、女性の影が映った。
慎二は扉の外に出ようとするが、扉には円筒のキャップが付いていて、鍵を操作できない。
子供ながらそのキャップをどうにかしようと考えるが、硬くて動かない。
扉の外から、また声がする。
「開けてみろ」
慎二は周囲に視線を感じた。
「あっ!」
天井の隅、階段の角、扉の端……
誰にも見えない『黒い者』がそこにいた。
五月雨と出会った後の今ならわかる。この黒い者は『鬼』なのだ。
カリカリと言う音を出し、黒い者が慎二に近づいてくる。
慎二は頷いた。
「お願い、開けて」
黒い者の手は、扉の鍵を覆っているキャップをすり抜けて中に入った。
そしてキャップの中で、サムターンを回した。
ガチャン、と鍵の開く音がする。
慎二は取手を回して外に出る。
慎二を見ると女性が言った。
「鬼を追って来てみれば…… その歳で手懐けておるのだな。これが選択と集中による成果なのか」
屋上の扉が再び開くと、先生が出てきた。
慎二は振り返る。
「村上くん、ここで何をしてるの? 授業中だよ」
「ほら、この人、学校に入っちゃいけない人がいるよ」
慎二はそう言って女性の方へ向き直ると、誰もいなくなっていた。
「さっきから誰もいないですよ。学校に誰かが入ったら、監視カメラでわかるんだよ」
「……」
その後、慎二にも一切あの女性の姿が見えなくなった。
学校が終わると慎二は奈緒の家で、母の帰りを待っていた。
母の仕事が終わり奈緒の家に、慎二を引き取りにきた。
二人はアパートに向かって歩き出した。
「今日学校から連絡がきたよ」
「変な女の人を見たんだ」
「……」
慎二は母に詳細に話す。
顔に刺青があること、後ろ髪だけが長く、先端に金属の爪が付けられていたことなどだ。
「慎二、お出かけしよう。電車に乗るよ、どんな電車がいい?」
「『ラージA』」
「そうだったね。じゃ、今から新しい新幹線に乗ろっか?」
アパートに戻ることなく、大家の家からそのまま大通りに出て、タクシーを捕まえ、駅に向かった。
二人は新幹線に乗ったが、すぐに下車してしまう。
様々な電車を乗り継いだのち、さびれた町のはずれ、遊具がある公園のような場所についた。
門は閉まっていて、門のところで二人は座り込んだ。
母はバッグからブランケットを出して、二人で包まる。
「今日はここで寝よう」
「えっ、お外だよ? ホテルとかじゃないの?」
「うん。今日は天気がいいから外で寝るの」
体を寄せて寝ていると移動の疲れと、母の温もりで慎二は寝てしまう。
慎二が目が覚めると、母はいなかった。
呼んでも、返事はなかった。
それが、母との最後の記憶だった。
公園と思っていた場所は、児童養護施設だった。
慎二は様々な経緯がありつつも、その児童養護施設で暮らすこととなった。
身元を示すものが一切無く、彼の戸籍は新しく作られた。
母が逃げたのか、連れ去られたのか、それとも亡くなったのか。
彼はそれすら知らない。
ただ、母がいなくなって一つだけ変わったことがあった。
度々聞こえていた卵の殻を砕くような音だ。
慎二の周囲からその音が消え、同時に黒い者も現れなくなった。
それが母が原因だったのかは分からないが、彼は平和で安寧な生活を得られるようになった。
慎二はぼんやりと面影を思い出し、空を見て呟いた。
「お母さん」
「!」
体が揺すられる。
「村上! 気がついた!?」
母の面影が消えると、五月雨の顔が見えた。
「……えっ、どうしたんですか?」
「気がついたのね!」
「だから、何がどうしたんですか?」
泣き崩れる五月雨に訊いても、何も答えない。
村上は徐々に、自分の置かれた状態に気づき始める。
「病院? どうして、どうして病院にいるんです?」
五月雨が顔を上げるが、涙が溢れて言葉が出ない。
「看護師さ〜ん」
村上が大声で呼ぶと、看護師が病室を覗きに来た。
そして村上のことを見ると、廊下を歩いている別の看護師に言った。
「先生、先生を呼んで来て!」




