9話
「セラルウ!」
光の障壁の中で鋭くヴァサが叫び、空気を焦がす。
まるで、子供を叱咤する母親のように鋭さがあるが、そこに愛情は一切無い。
対して赤い瞳のレタは、悪戯を見つけられた子供のように笑っていた。
「あははははっ、ヴァサじゃない! 態々来てくれたのね。探す手間が省けたわ!」
その声は甘く幼い。
しかし、同時に恐ろしい。
レタの中から響く声は、グランハルトの知らない言語だった。
それなのに、その意味が脳に直接流れ込んで来て……暴力的に“分からされている”と感じる。
腹の奥底から凍るような、悪寒。
対峙するこの存在を、強大な力と呼ぶにはあまりにも悍ましい。
……なんなんだ、これは。
「どうやって入り込んだのですか?! この人から出て行ってください! 人間は、貴方の玩具ではありません!」
ヴァサが恐怖と嫌悪の入り交じる声で、必死に声を張り上げる。
「ふふっ……だったら、新しい玩具を用意してよ。それとも……やっと、降参する気になった?」
「誰がっ……貴方なんかに……!」
「へえ、そんな顔もするようになったんだ。……生意気ね」
「セラルウ……!」
“セラルウ”と呼ばれた存在は、ヴァサの障壁を打ち破ろうと手で直接触れている。
脳を揺らし、鼓膜を直接突くような、エーテル同士が激しく削り合う音が、辺りの空気を震わせている。
力の差は、ほぼ互角。
セラルウは障壁のエーテルを削り、ヴァサはその損傷を瞬時に補修。
どちらも引かず、どちらも揺るがない。
しかしセラルウに操られている、レタの肉体は別だ。
生身の人間は、この過剰なエーテルに耐えられない。故に――レタの身体は限界だった。
突然、レタの喉からごぼっと水音が鳴り、上体を仰け反らせて激しく痙攣した。
「――ッゴ、ッ……」
痛みから逃れるように伸ばされた、異様に膨れ上がった腕。
その内側から――新たな赤黒い結晶が突き出た。
血晶病の進行。
しかも、目に見えて分かる早さで。
器であるレタにだけ痛みがあるのか、内側にいるセラルウは心底愉快そうに笑っていた。
「あーあ! ヴァサが降伏しないからこの体、壊れちゃうわね。……可哀想!」
「やめて! それ以上、その人を傷付けないで! 早く出て行って!」
ヴァサが一歩、障壁の中で踏み出す。
風は吹いていないというのに、ヴァサの重たいスカートが波打つ。
憤り、昂る彼女の心を強く反映した濃いエーテルが、障壁の中をみるみる満たしていくのが分かる。
守られているはずなのに、まるで嵐の中にいるようだった。
……苦しい。
段々と喉が空気を拒み、無意識に締まる。
酸素が薄く、意識が薄れ……目の前がちかちかと点滅していく。
息が、上手く出来ない。
しかし今、目を伏せるわけにはいかない。
この意識を、手放しては――。
命の危険に晒されているのに、何も抵抗ができないグランハルトは、せめてもの抵抗としてぐっと下唇を噛んだ。
……誰も救えず、何も知らず。
何も成せないまま、無力なままで死にたくない。
その気持ちに呼応したのか、ふと、自分のものではない感情が濁流のように流れ込んできた。
流れ込んできたもの。
それは――純粋な憎悪だった。
人間を心から愛し、守りたいという真摯な願い。
その祈りを砕こうとする脅威への、純粋な憎しみ。
……これは他でもない、ヴァサの感情だ。
だからか、本質は憎悪であるのに、何故だか温かいと感じた。
魔法には少なからず、術者の感情が乗るものだ。
しかし、術者の近くにいるだけで精神が繋がるなんて聞いたことがない。
ふと、顎に温い何かが伝い、ぽたりと地面に垂れた。
「……え?」
徐にそれを拭うと、指先が肌の上でぬるりと滑った。
水っぽい何か……だが、確かな不快感。
それ故、視線が自然と手に落ちた。
「……は、鼻血?」
生身の人間は、過剰なエーテルに耐えられない。
『魔法は友に非ず』
魔術師なら誰でも知っている、古い箴言だ。
強大な力は、良き友人には成り得ない。
人智を超えた存在と、人は手を取り合えない――。
それでも、グランハルトは一度でも繋いだヴァサの手を、諦めたくなかった。
私も、共にいる。
そう伝えようと無意識に手を伸ばした、その時。
僅かに振り向いた、ヴァサと目が合う。
すると、その顔色がみるみるうちに青ざめていった。
「……そんな。……あ、あああっ!」
強い憎悪で塗り潰されていた彼女の瞳が、激しく揺れた。
それはまるで、大切なものを壊してしまったかのような――。
その取り乱したヴァサを見て、追い打ちをかけるように、セラルウが高らかに笑って宣言する。
「あははははっ! 残念ね、ヴァサ。その王子様は貴方が殺すの!」
「ち、違います! 私は……わたし、は……!」
ヴァサの動揺で障壁のエーテルが揺らぐ。
そして……その一瞬の揺らぎを、セラルウは見逃してくれない。
不敵な笑みを浮かべ、一段と強いエーテルを手に込めると、ついにヴァサの障壁にヒビが入った。
「ッ……やめて!」
「ごめんなさい、ヴァサ。私にも、譲れないものがあるの」
グランハルトはヴァサの後ろでただ座り、来たる運命を受け入れることしか出来なかった。
それが、たまらなく怖い。
不可解な存在も、己の無力さも……全てが得体の知れない闇になって胸を満たしていく。
そしてついに、皮膚が削れて白い骨を覗かせたレタの指が、障壁にめり込む。
ああ……ついに終わるのか……。
グランハルトがヴァサの背中から目を逸らそうとした、その時。
レタの頭が、何かに“貫かれた”。
その勢いに攫われるように、ふわりとレタの体が浮いて投げ出されたのだ。
爆発音のような音と共に、分厚いコンクリート壁が一部割れて、派手に砂埃が舞う。
「っ……なんだ?!」
グランハルトは慌ててその“何か”が飛んできた方向を見た。
その先には、アイゼンラントの国王。
“紅き死神”――ヴォルフガングが息を荒らげつつ立っていた。
しかし、エーテルの風圧に抗って動いたせいか、苦しそうに胸を押さえている。
「それ以上の狼藉ッ……この国の王として、認める訳にはいかん……!」
「あははっ……酷いじゃない、王様」
砂埃が舞う中、レタがゆらりと立ち上がって笑う。
その頭部には、細い何かが刺さっている。
グランハルトはその何か――細剣を見て、思わず息を呑んだ。
「あれ、は……」
柄頭についている、リボンのような布飾り。
あれは、父が5年前から肌身離さず持ち歩くようになった、父曰く“王妃の遺品”だという剣だった。
けれど、その刀身は――血を固めたかのように“紅い”。
ただの剣ではない。
グランハルトは、直感的にそう思った。
「セラルウと言ったな!」
ヴォルフガングがまたしても声を張り上げる。
まるで、敵はこちらだとでも示すように。
「その者は私の臣下だ。好き勝手に触ってよいものではない。その体……返してもらおうか!」
レタは壁に打ち付けられた衝撃で頭は半壊。
右目は飛び出し、右膝は反対方向にひしゃげ、覚束無い足取りだ。
セラルウは不敵に笑いながらも、静かにヴァサから標的を変えたらしい。
ヴォルフガングに体を向けて立つレタの口は、血と唾液が混じった泡立つ水を垂らし、ごぼごぼと不気味に音を立てて笑うように歪み続けている。
「ふふふ……弱いくせに、勇気だけはあるのね。私に勝てっこないのに!」
「はっ。試してみるかね?」
ヴォルフガングは紅き死神と恐れられ、どんな戦場でも常に最後に立ってきた“勝者”だ。
けれど、この圧倒的な力を持つ異形を前にすれば、紅き死神であろうと、等しく“力無き人間”に成り下がる。
そんなことは、ここにいる誰もが嫌でも理解していた。
「なりません、陛下……お下がりください!」
王の剣、ユストゥスが叫ぶ。
縋るような、切なげな声で。
しかし、ユストゥスが叫ぶと同時に駆け出したセラルウが、ヴォルフガングの喉元を先に掴んだ。
そのまま押し倒されるように冷たい地面に打ち付けられ、空気を引き裂くようなヴォルフガングの絶叫が響く。
「――ゥ、ぐッ……!」
「陛下!」
「だめ、だッ……来るな!!」
咆哮のようなヴォルフガングの怒号が、駆け寄ろうとしたユストゥスの足を凍りつかせる。
来るな――その言葉の裏にあるのは、仲間を道連れにしたくないという優しさだけではない。
この状況を、“楽しんでいる”。
如何に父子間の会話が乏しくても、遠く離れた場所からでもよく分かる。
ヴォルフガングの顔には戦場でよく見た、“狩人としての楽しみ”が滲んでいたのだから。
セラルウはヴォルフガングに馬乗りになって髪を掴み、無理矢理顔を上げさせて笑う。
「私、大人しい人間は好きよ。だから……そのまま抵抗しないなら、痛くしないであげる」
「……ッ、はは。大人しい、だと? お嬢さん。私をどこの、誰だと思っているのかね……」
「あはは! どこの誰、って……この小さい王国の王様でしょ? 名前なんか興味ないけど!」
「……はっ。礼節に欠ける、お嬢さんだ……」
「そんなことより、貴方でしょう? 循環魔術とかいう、邪魔なモノを作ってた人は」
……循環魔術。
その単語を聞いたヴォルフガングの瞳が怪しく光った。
「おや……? ふふっ……邪魔かね」
「ええ、邪魔よ」
二人の口調は穏やかだが、水面下で行われる冷たい取引に障壁を解いたヴァサが慌てて割り入る。
「セラルウ……私はここです! 私が目的なのでしょう?! どうか……どうか、もう人間達に危害を加えるのは止めてください!」
「煩いわね。楽しくお話してるだけでしょ? 少し静かに……あら」
ふと、セラルウがぴたりと止まった。
「貴方。一体、何を――」
ヴォルフガングはセラルウのすぐ真下で不敵な笑みを浮かべている。
「……まさか」
「その“まさか”……だとしたら?」
「……ッ」
嘲笑うように口角を歪め続けていたレタの顔が、ふっと真顔になった。
「……っ、アハハハッ!」
ヴォルフガングが声を出して笑う。
その声は悪戯が成功した子供のようでいて、どこか底知れない闇を孕んでいた。
グランハルトの背筋に冷たいものが走る。
父が考え無しに、敵の懐へ飛び込むとは思っていない。
脳内で散らばっていた断片が一気に繋がる。
――やはり。
父は、勝つために踏み込んだのだ。
今ならば分かる。
あれは、循環魔術の距離だ。
だから父はあの距離へ……セラルウのすぐ傍へ行く必要があった。
術者から楔まで、45センチ。
それが今の、最大発動可能距離。
しかし、もう楔は無かったはずでは……。
グランハルトがそう思った時、レタの頭部に刺さったままの細剣が眩い光を放つ。
目が焼かれたかと思うほどの、眩い光だった。
強く、激しいのに、どこか温かく感じるこれは……循環魔術だ。
――あの細剣そのものが、楔だ。
それが意味するのは、強大な力と“破滅”。
「ッ……だめだ! 父上、それ以上は!」
グランハルトが喉から血が出そうな勢いで叫ぶ。
あんなに大きな楔で循環魔術を使うなんて……最早それは、自殺行為だ。
けれど、今はこの方法だけが、セラルウに“直接触れられる”唯一の方法だった。
「……だからって、無茶苦茶だ……!」
グランハルトの口から呆れや諦観のような、苦しそうな声が漏れた。
息が詰まるほどのエーテルの圧を感じる。
父はレタの体からセラルウを根こそぎ引きずり出し、追い出そうとしているのだろう。
無謀でもあるが……何と父らしい、大胆で豪胆な考えか。
けれど、それは――術者への負荷が強すぎる。
父は優秀な魔術師だが、十中八九耐えられない。
「……ッ、……私も手伝います!」
その“死しても場を繋ぐ”という真意に気が付いたのか、ヴァサが眩く光る細剣に手を翳した。
ヴァサのエーテルを帯びて更に輝きを増した細剣を起点に、赤黒い霧状の何かがレタから溢れ出す。
「……ああ、お嬢さん。ありがとう……魔術師として尊敬に値するが、……ふふっ。グランの嫁には、幼すぎる……」
口と鼻、そして目と耳からも血を垂れ流すヴォルフガングが軽口を叩く。
恐らく、もう前すら見えていない。
それでもただ、レタの体から“余計な”エーテルを霧散させようと手を伸ばしている。
「……いいから、気をしっかり保って! 今は貴方だけが頼りなんです!」
弱々しい声のヴォルフガングにヴァサが涙声で叱責する。
グランハルトは、いよいよ声すら出せなくなっていた。
煌々と光に満ちた地下階の避難通路で、恐ろしくも温かいエーテルに圧倒されていたのだ。
魔術師であればエーテルは肌で感じられるものだが、ここまでしっかりと感じることはそうそう無い。
ヴォルフガングが道筋を示し、ヴァサがそれを支えるように辿り、セラルウを押し流す。
ヴァサのサポートで循環魔術は安定し、押し出されたセラルウのエーテルは流れ、散っていく。
「……、……」
グランハルトは暫く、細剣の光を眺めていた。
やはり、恐ろしい魔術だと思わざるを得ない。
確かに、循環魔術は素晴らしい魔術だと思う。
楔さえあれば、他者のエーテルでもコントロール出来てしまうのだから。
……だが、その代償は?
圧倒的な力の代償は、やはり、破滅でしかない。
「グランハルト!!」
突然、ヴォルフガングに名前を叫ばれたグランハルトは顔を上げる。
「よく見ておけ、これが力だ……。お前が受け継いでいく、世界に抗う力だ!!」
その咆哮を合図にレタから赤黒いエーテルが完全に絞り出され、そのまま仰向けに倒れた。
同時に細剣から光が消え、ヴォルフガングの差し出していた腕がだらりと垂れた。
「……父上!」
「陛下!」
エーテルの風圧が消え、動けるようになったグランハルトと王国騎士達が駆け寄る。
だが、それを鋭くヴァサが制止した。
「彼に触れないで! 私に診せて!」
駆けてきたヴァサがヴォルフガングの前に座る。
医者のように献身的に手を取り、胸に手を当てて、何かを読み取るようにじっと押し黙っていた。
その様子をグランハルトや王国騎士達は見守ることしか出来なかった。
ふと、ヴァサが呟く。
「……体内エーテルが完全に崩壊しています。もう長くは持ちません」
「ど、どうにかならないのか?! 頼む、ヴァサ……父上を……!」
「出来ません。貴方は、穴の空いた瓶に水を満たせるのですか?」
「……ッ……!」
「貴方だって分かっていたでしょう? 今の魔術がどんな危険を孕んでいたのか」
その言葉はグランハルトの微かな希望を打ち砕いた。
そうだ、分かっていた。
でも、ヴァサなら“何か”出来るのではないかと淡い期待があったのも事実だった。
「……、……」
何か自分でも出来ることは無いのか?
もう、本当に何も無いのか?
グランハルトの拳に力が加わり、指が白くなる。
その時、薄らとヴォルフガングの口が開いた。
「……くっ、はは……」
その声を聞いたグランハルトや王国騎士達は一斉に響めく。中には涙を流す者もいた。
「アイゼンラントの王……危機は退けられました。よく、頑張りましたね」
ヴァサが労わるようにヴォルフガングの頭を撫でる。
それはただ、『もう大丈夫だ』と教えるようでいて、『もう眠っていい』と別れを告げるようでもあった。
「君の……おかげだよ。お嬢、さん……」
一瞬、ヴォルフガングの口角が引き攣るように歪んだ。恐らく、笑ったのだろう。
……父はいつもそうだった。
臣下や国民の前でする、“相手を安心させるためだけ”の笑い癖。
こんな時にまで、笑わなくてもいいのに。
どんな時でも、王であろうとするんだな。この人は……。
グランハルトは胸に迫り上がる、靄のような冷たく苦い何かが溶けていくように感じた。
そんな事を知ってか知らずか、ヴォルフガングはふすふすと鼻を鳴らして弱々しく、更に言葉を紡ぐ。
「グ、ラン……傍に……」
「……! はい、父上。ここに……お傍にいます」
そっと近くに腰を下ろし、ヴァサが掴む方と反対の手を握る。
いつ振りだろうか……父の手を掴むなんて。
その手は乾燥してささくれ立ち、所々小さな傷がある。無骨な太い指は、老いた戦士のそれだ。
「……すまな、かった」
「……、……」
どうして、こんな時に謝るんだ。
遅すぎる。
何もかも、遅すぎる。
でも、その不器用な所が自分とそっくりで……自分に流れる父の血を感じた。
「……ッ、は……」
ヴォルフガングは空気を求めるようにぱくぱくと口を開き、何かを話そうとしている。
その口元にぐっと耳を近づけると、微かに涙を滲ませた声が聞こえた。
「グラン、国を、頼む……」
か細く、囁くように。
「……、……生きてくれ」
そう言うと満足したのか、力が抜けたように口角が力無く下がる。
眠ったようにも見えるその顔は、血で濡れているのにどこか穏やかだった。




