8話
「ッ……ここだ」
グランハルトは苛立ちながら乱暴に錠を外し、力強く鉄格子を開けた。
錆びた鉄が叫ぶように軋んで、耳に不快な音が残る。
「すごい音……。錆びていますね」
ヴァサが耳を塞いで呟いた。
「まあ……普段は、使わんからな……」
鉄格子の先――避難通路は湿った空気で満たされており、埃かカビか……そんな、鋭く鼻を突くような臭いが漂っている。
先の見えない薄暗さも相まって、何かが体にずしりと乗るような重さを感じた。
「ここに来たのは、子供の時以来で……この先の道案内は……出来んぞ……」
「問題ありません。幼少の頃にも、このように避難をしたのですか?」
「違う。……ただの、肝試しだ。兄と、二人で……」
「なるほど、納得です」
「……ッ、はあ。ちょ、ちょっと、待て!」
するりと歩み出したヴァサを、グランハルトの苦しそうな声が鋭く制止した。
本来なら地下階への移動は昇降機を使うのだが、今は魔力回路も予備の電力回路も絶たれている。
そのせいで、階段を駆け下りてきたのだ。
初めこそグランハルトが先導していたものの、途中からヴァサが追い抜き、みるみる距離が開いた。
最早“共に向かう”のではなく、グランハルトは置いていかれまいと、“必死に食らいつくように”走らざるを得ず――。
到着した今、グランハルトは真っ赤な顔で呼吸を荒げていた。
……涼しい顔をした、ヴァサの真横で。
「はあッ、はぁ……」
「……酷く疲れているようですね。少し休みますか?」
「誰の、せいだと……」
「貴方の体がそこまで脆弱だと思いませんでした。……可哀想に」
「……、……」
グランハルトは応えない。
代わりに息を整えるため、力無く壁に凭れかかった。
肺に空気が通る度、喉が焼けるように痛む。
だが、肩越しから伝わるひんやりとした石壁が僅かに心地よく、乱された呼吸も心も次第に落ち着いていく。
「……、……」
目を瞑ると自分の心音以外に、時折遠くで滴る水の音が聞こえた。
「……もう、いい。大丈夫だ……」
「まだ、息が荒いようですが」
「いや。それより先を……急がなくては……」
グランハルトは呟き、額の汗を拭う。
そして、重たい足取りで一歩、また一歩と踏み出した。
その背中を追ってヴァサも歩み出す。
迷いのない、軽やかな足取りで。
「それにしても……実に、いいものを見ることができました」
背後を歩いていたヴァサがぽつりと呟く。
「これだけで、アイゼンラントを選んだ価値があったと思えます」
その口調はまるで研究者のようで、幼い声色には酷く不釣り合いだった。
「選んだ、価値……? 何の話だ」
グランハルトが息を正しながら振り返って問い返すと、彼女は顔を上げて抑揚の無い声で淡々と語る。
「貴方達の事です。仲間と手を取り合い、脅威に立ち向かう姿……とても尊いことだ、と思いました」
「と……尊い?」
真っ直ぐに見つめ返してくる深い青には、静かな熱が灯っている。
けれど、今の言葉にどういった意図があるのかは、まるで想像がつかない。
……相手が“惑星の意思”という、何か大きな力を自称する存在なら尚更。
「それは……弱者の馴れ合いだと嗤っていると?」
睨むかのように、グランハルトの目が細くなる。
しかし、ヴァサは目を逸らさずに言葉を続けた。
「いいえ、嗤ってなどいません。ただ、羨ましく思っただけですよ。私には……縁がないものですから」
「……、……」
彼女の声色には自嘲でも嫉妬でもなく、ただ事実を淡々と語る乾いた響きだけがある。
それがなんとなく、グランハルトの胸にちくりと棘を残した。
ふと、バルコニーでの会話が脳裏に蘇った。
ヴァサの『貴方も私と同じく人では無いのに』という、あのぽつりと落ちた言葉。
今になって思えば、『友人になりたい』と言ってきたのは、やっと自分と“同じ”孤独な存在をやっと見つけた――という、同族意識を抱いたからだったのだろうか。
「……縁がない、か」
それは力を持つ者の宿命だ、と言いかけて既のところで言葉を呑み込む。
ヴァサの何かが抜け落ち、諦め、孤独を選んできたこの顔に、いつかの幼い――まだ“孤独”を直視できなかった頃の自分を見てしまった気がした。
だから、だろうか。
その暗がりにある、孤独に手を伸ばしたのは。
「……私がいるだろう。少なくとも、今は」
この言葉が彼女の心に届くかは分からない。
でも、届かなくてもいいと思った。
元々、私自身も他者と触れ合うことに慣れていないのだから。
だから……これもきっと、真意は届かず消えるのだろう。
そう、諦め混じりにヴァサの目を見つめる。
しかし、見つめた先。
彼女の目の奥。
透き通る深い青がほんの僅かに揺れたのを、グランハルトは見逃さなかった。
「……そう、ですね。ありがとうございます」
ヴァサはぽつりとそう口にすると、柔らかく笑った。
「ありがとう。……アイゼンラントの王子」
あまりにも“人間的”なその笑みに、ついグランハルトも微笑み返した……が、慣れない穏やかなやりとりが妙に照れくさい。
……下手なことを言うものではないな。
静かに心の中で反省し、照れ隠しに目線を逸らして髪を耳に掛けることしか出来なかった。
そんな会話も束の間。
何かを感知したらしいヴァサが短く息を吸い、ぴたりと動きを止める。
虚空を見つめて、不安そうに……そっと胸に手を当てた。
「……色が、濃くなりました」
今まで冷静に振る舞っていたヴァサが、突然に分かり易く狼狽える。
苦しそうに絞り出された言葉は不安だけではなく、どこか恐怖が滲んでいるようにも見えた。
けれど、グランハルトは周囲に目を凝らせども耳を澄ませども、何も変化を感じない。
寧ろ何も分からないからこそ、漠然とした不安が無遠慮に心を浸していく。
「……何の色が濃くなったんだ。私にも分かるように言え」
痺れを切らしたグランハルトがヴァサに問う。
必要以上に不安を煽らないよう、優しい声色になるように努めながら。
「わ、僅かですが……対象の中の、邪神のエーテルの色が濃くなりました……」
「それは……どういう意味だ? レタはもう、助からないと?」
「い、いいえ。試してみない事には、まだ……。ですが、こんなことは今までありませんでした」
ヴァサの深い海のような静謐な青が、今は嵐の如く揺れている。
「こんな所で話している場合ではありません。……い、今すぐ全員、城から撤退すべきです!」
今までにない強い口調は、怒っているのではない。
混乱と、嫌悪と――そして、強い恐怖心。
幼い声だというのに、芯のある澄んだ主張は痛い程グランハルトに刺さる。
それでも……ここまで来て、引き下がる気は毛頭ない。
ましてや、レタや父達に危険が迫っていると聞いては尚更だ。
「……病に侵されようと、レタは私達の仲間だ。それに、父や王国騎士達を見捨てる訳にもいかない。だから……一人でも、私は行く」
「こ、こんな時に理想論を語るものではありません! 命が惜しくないのですか?!」
「皆を助けるために必要ならば、惜しくはない」
「惜しくはないって……貴方、正気ですか?! 貴方一人が増えたところで、死者が増えるだけです! 全く、本当に愚かな人! でも――」
呆れるような、叱咤するような。
そんな苦しげな声に涙が混じり、ヴァサは短く息を吸った。
そして、小さく被りを振ると何かを決意したような真剣な瞳で、グランハルトの手をとる。
「“貴方について行きたい”と思う私も――本当に愚かで……救いようがありません!!」
その手は小さくも確かに温かく、グランハルトを見つめる瞳はどこか柔らかかった。
ヴァサに手を引かれるまま、グランハルトは通路を蹴り出すように突き進んだ。
これは恐らく、避難広場へ続く道だ。
……そこに、レタがいるのだろうか。
こんな形で再会したくなかったと何度も後悔しつつも、生きていた事に不思議と心が救われる。
グランハルトは今に限り、ヴァサと自分の走る速さを焦れったいとすら感じた。
「……あれです!」
ヴァサの指が先を差す。
薄暗闇の先に、仄かに明かりが灯っているのが見えた。
じめじめとしたカビの臭いに、鉄と砂埃が混じった戦いの気配を肌で感じる。
広場で蠢く人影達が軍服に血を滲ませた王国騎士達だと理解した時――ユストゥスの理知的な声と、人間とも獣ともつかない、“何か”の咆哮が響いてきた。
「囲え! 絶対に逃がすな!」
「アアアアア!」
明かりの正体は、床に転がっている幾つかの電気回路式のランタン。
王都でよく見る魔術回路式のものとは違い、鋭く青白い光が王国騎士達の長い影を作っている。
そして、その向こう――赤黒い結晶が肌を突き破り、血を流しながらも王国騎士達を“威嚇”する、変わり果てた“彼女”がいた。
「……ッ」
グランハルトの足が無意識に止まる。
頭では覚悟していたはずなのに、どうしても……柔らかく微笑んでくれた彼女が、脳裏に過ぎるのだ。
「レタ!」
グランハルトが吼えるように名前を呼ぶ。
決して、血晶病の末期患者を初めて目にした訳ではない。
ああなってはもう、声が届かない事くらい知っている。
それでも……その名を呼ばずにはいられなかった。
「……ッ、殿下!?」
「グランハルト殿下、お下がりください!」
「いけません、撤退を!」
グランハルトの声を聞いた数人の王国騎士が戸惑い、人垣が視界の端で揺れる。
その中央には、厳重に守られるように立つ男――父、ヴォルフガングがいた。
「来るな、下がれ! グランハルト!」
ヴォルフガングから発せられた低く鋭い声が辺りに響いた。
20メートル程離れているのに、聞くだけで背筋が伸びるような――そんな、鬼気迫る口調だ。
普段ならば少し、『本当に引くべきかもしれない』と一度考えてしまっただろう。
だが、今日のグランハルトは違う。
父の命令を振り切り、さらに一歩踏み出す。
そして中央の彼女を見据えて……剣の柄に、そっと手をかけた。
彼女の脛を覆う、赤黒い結晶。
あの大きさを見るに、最早完全に精神を蝕まれたのだろうと想像に容易い。
……辛かった、だろうに。
そんなグランハルトの思考も、レタの興奮した唸り声に掻き消された。
「グウウゥ……ァア……」
声だけはなく、四肢で構えているのを見ると、本当に獣のようだ。
レタは一際大きく吼えると、ヴォルフガングに飛びかかった。
「……ガアァアッ!!」
「レタ!!」
咄嗟にヴォルフガングの前に飛び込んだユストゥスが、剣でレタを受け止めた。
剣と結晶がぶつかり、剣先が滑ると赤黒い結晶の欠片が飛び散る。
「……っく!」
反射的に飛び退いたレタだったが、それでも攻撃の手を緩める気配はない。
とにかく手当り次第に狙いを定めて、掴みかかり――時には噛み付こうと喉元を狙う。
怒号。
装備の軋む音。
叫び。
結晶が欠ける音。
あの誇り高かったレタが、国王に……さらには同胞である王国騎士達に、文字通り牙を剥いている。
あんなもの、彼女が望んだ姿ではない。
グランハルトはレタを見つめて、静かに剣を鞘から引き抜いた。
「レタ。今、君を……助けてやる」
その動きを遠目で見ていたユストゥスが声を張り上げる。
「殿下、お止めください!」
グランハルトはユストゥスにちらりと目線を送ったが、それは同意ではない。
――もう、君に誰かを傷付けさせたりしない。
私が相手をしてやる。
私が、止めてやる。
「……来い!」
グランハルトがレタに向かって走る。
その動きに素早く反応したレタは、威嚇するように上体をさらに低く構えた。
「グァ、……ぐ、ルァ!」
獣のように唸った後すぐにだん、と爆発のような音を立てて踏み込む。
王国騎士達の合間を驚異的な速さで縫うように駆け抜け、あっという間に距離が縮まった。
「レタ!」
もう、ぶつかる――そんな寸前で、グランハルトは剣を“振るわない”。
代わりにターンをするように引き返し、服の裾が旗のようにはためいた。
その隙を格好の好機だと思ったのだろう。
レタはグランハルトの背中を掴みかかるように飛び込んできた。
……馬鹿だな、レタ。
この誘い方はお前が教えてくれたものだろ。
グランハルトのブーツが床を擦り、短く音を立てた。
――そこだ。
ターンの勢いを殺さず、そのまま左肩を目掛けて剣を振り下ろす。
バランスを僅かに崩したレタの目が大きく開かれ、瞳孔が拡がったのが見えた。
今、気が付いても遅い。
グランハルトの剣は付与魔術で熱を持っている。
撫でるように滑らかに……しかし、鋭くレタの肩を斬りつけた。
血が吹き出し、レタが絶叫と共にのたうち回る。
それは痛みと憎しみだけを表す、獣の咆哮そのものだ。
「……痛いか。レタ」
剣先についた血液を振り飛ばしながら、グランハルトはレタに近寄る。
呻き声と、ごぼごぼと喉の奥で血液と空気が混ざる音。それが今のレタの声だ。
血の流れる肩を押さえ、その声で何かを必死に訴えている。
「私だ、レタ。分かるか」
分かる訳がない。知っている。
けれど、どんな状態であってもレタは仲間だ。
いや……自分にとっては、それ以上の存在でもあったのかもしれない。
今更そう思うのはこの顔がどんなに憎悪に塗れても、どんなに姿が歪もうと、どうしても“醜い”とは思えなかったからだ。
「……、……」
何もかもが遅いな、私は……。
そんな事を思いながら剣先を蹲るレタに向けながら、グランハルトは優しく語り掛ける。
「……レタ、父上の循環魔術が完成した。すぐには用意が出来ないかもしれないが、必ず君の血晶病を……」
治してやる。
――そう、口にするつもりだった。
しかし、レタが突然、糸の切れた操り人形のように力無く倒れる。
あまりにも唐突な出来事に、グランハルトは立ち尽くすことしか出来なかった。
「……レタ?」
「……、……“繋がった”」
レタの瞳が血のように赤く光った。
風は無い。
けれど、服や髪が風を纏ってふわりと動く。
直観的に“別の誰か”を感じて、剣を構えようとした、その時。
「ああ……。会いたかったわ、王子様!」
彼女から、彼女ではない誰かの声がする。
赤の瞳は嘲るように細くなり、明確な殺意でグランハルトの喉元に手が伸びた。
「……ッ!」
咄嗟に剣を盾にして構えるが、ほんの少し反応が遅れたことが自分でも分かる。
これは、防げない――そう思った次の瞬間。
離れて見ていたはずのヴァサが、眼前に割り込むように現れた。
その景色を最後に、眩い光に視界が弾かれる。
何が起きたのか理解するよりも早く、鼓膜の奥で鈍い振動が鳴り響く。
痛くはない。
いや、痛覚が無くなってしまったのかもしれない。
けれど、次第に焦げた匂いが鼻を掠め、風が前髪を揺らしていることに気がついた。
ふと、ぎゅっと閉じられた瞼から力が抜け、ゆっくりと見開かれていく。
すると、目の前には赤く濁った瞳のレタと――それと対峙するヴァサの背中があった。
ヴァサは小柄な体を精一杯広げ、グランハルトを守るように光の障壁を張っている。
対して“赤い瞳のレタ”は、あろう事かそれを素手で破ろうとしていた。
魔法で練り上げられた障壁や武器は、世界に循環する命のエネルギー……エーテルの塊に等しい。
どんなに優れた魔術師であっても、素手で触ればただでは済まないことくらい、この星に住まう誰もが知っている。
だが、この赤い瞳の“彼女”もまた、ヴァサと同じように“人ではない”のだとしたら――。
「グラン!」
目の前の事象に混乱していると、障壁の外から名前を呼ぶ声がする。
この鋭くも低い声はヴォルフガングのものだ。
いつもの飄々とした声色ではなく、鋭く刺すような声。
しかし今は、僅かに震えていた。
ふと視線を送ると、切なそうに歪むヴォルフガングの顔が見えた。
ユストゥスや王国騎士達も同じく姿勢を低くして剣を構えているのを見ると、強いエーテルに気圧されて、誰もがグランハルトの元へ近付けないらしいことが分かった。
そして……グランハルトも例に漏れず、ここでは“無力で非力な人間”の一人に過ぎない。
「……ヴァサ」
グランハルトはただヴァサに守られるだけで、呆然と彼女の背を見上げることしか出来なかった。




