7話
『私も一緒に行きます』
——その言葉通り、ヴァサはグランハルトの手を引いて前を走っていた。
「こっちです!」
「何処へ行くつもりだ?!」
「あのエーテルを追います。走って」
「“あの”エーテルって?!」
「邪神のエーテルです。人を助けに行くのでしょう?」
――邪神のエーテル?……何を言ってるんだ、お前は。
そう言ってやりたいのに、後に続いた『人を助けに行くのでしょう?』という声がやけに嬉しそうで、一拍返事が遅れた。
「……、……ッ」
前を走る少女はどう見ても十四、五の子供だ。
だというのに、走る速度も体力も成人男性である自分を軽く上回っている。
不気味だと思う一方で、頼もしさも感じていた。
だが、引き摺り回されている今は、それを認めるのが悔しかった。
だからつい、声が乱れて震える。
まるで、何かを言い訳するように。
「たっ……助けるとは言ったが……!」
ほんの少しの間に、色々な事が起こりすぎたのだ。
惑星の意思、揺れ、邪神――。
事態の把握も情報の整理も、何もかも出来ていない。
ただ、今が緊急事態であることだけは理解していた。
「ちゃんと説明をしてくれ! お前の説明では何も分からん!」
そんなグランハルトの乱暴な嘆きに応える代わりに、彼女は目線も寄越さずに一つだけ間違いを正した。
「私の名前はヴァサです。“お前”、ではなく」
「ッ……ヴァサ!」
グランハルトが乱暴に名前を呼ぶと、ヴァサは跳ねるように駆けながら行儀良くはい、と短く返事をする。
「如何しましたか?」
「この騒ぎの、何を、どこまで知っている?!」
息が乱れ、怒っている訳でもないのに語気が強まる。
ヴァサはその吠えるような声を聞いても動じず、淡々と言葉を返した。
「詳細は私にも分かりません。ですが、この国に血晶病患者が侵入した事は確かです」
「確か……? 何故そう言える?!」
「“視えている”からです。人間や貴方とは違って」
一貫してヴァサの言葉は、嘲る冷たさも叱責する熱も持たない。
ただ正直に、機械的に事実だけを言葉にしているように答える。
……だからこそ、気味が悪かった。
「み、視えている、って何の話だ!」
「……、……」
ヴァサはその言葉には答えない。
答えられないのか――そう思った瞬間、ヴァサの姿が視界の端でふわりと揺れた。
猫のように音もなくしなやかに。
勢いを落とさないまま、突き当たりを右に曲がったのだ。
「――ッ?!」
「正常な人間の反応があります。行きましょう!」
突然の方向転換。
手を引かれるグランハルトはバランスを僅かに崩したが、それでも食らいつくようにヴァサの後に続く。
「ッ……もっと早くに言え!」
「貴方ならこれくらい、出来ると思っていたのですが……駄目でしたか」
意外と欠陥が、とヴァサがその先を言いかけた、その時。
廊下の先にある二つの人影の輪郭がはっきりと浮かび上がった。
「グラン! 良かった!」
「殿下、ご無事で何よりです!」
姿を見ずとも声で分かる。
この健気で柔らかな声は、アルフレートとリリィのものだ。
「敵襲か?! どうして障壁や警報器が作動していない? 他の者はどうした?」
グランハルトは近付いてきた二人に、矢継ぎ早に質問を投げかけた。
普段であればこんな状況は有り得ない。
難攻不落と称されるフリートホーフ城が予兆もなく、誰にも気付かれず侵入を許す訳がない。
仮に許したのだとしても……兵士達がいなさすぎる。
現にグランハルトは自室から一階に駆け下りてきたというのに、今まで誰とも出会わなかった。
それがどうしても不気味で、押さえ込んでいた不安が口からとめどなく溢れてしまう。
「街への被害は?……今、敵は何処へ?」
抜刀し、警戒していたアルフレートは剣を鞘に戻すとグランハルトに向き合う。
そして不安気に目線を少し泳がせた後、静かに口を開いた。
「落ち着いて、グラン。今のところ、街への被害はない。でも、その――」
「リリィさん」
重く苦しげなアルフレートの言葉を突然、場違いな程に優しいヴァサの声が遮る。
名前を呼ばれたリリィがはっ、と短く息を吸うとヴァサを見つめた。
「……、……」
すると、鋭かったリリィの目が僅かに和らぎ――驚いたように見開かれる。
「あっ……貴方、昨日の?!」
「はい」
やっと気がついて貰えた、と言わんばかりに微笑んだヴァサは、恭しくお辞儀をする。
その仕草はまるで、姉を慕う妹のように柔らかかった。
……こいつ、そんな顔も出来たのか。
グランハルトは無意識にヴァサを睨んだ。
「昨日は美味しい紅茶をご馳走頂き、どうもありがとうございました。またお会いできて光栄です」
「ど、どうしてまだここに……?」
二人のやたら親しげな距離感に、グランハルトが口を挟む。
「知り合いか、リリィ」
「し、知り合いというか……この子が昨日、関所を抜けて入ってきた例の少女です」
「……、……」
昨日、関所、少女。
グランハルトの中で少しずつそれらが組み立てられていく。
……なるほど。
例の侵入者とは、こいつのことだったのか。
リリィは僅かに興奮した様子でヴァサの華奢な肩に手を置いて、目線を合わせるように屈む。
「昨日城門まで見送ったじゃないですか。どうして、まだ城内に……?」
「はい。せっかく綺麗なお城なので、観光してから出ていこうと思い……外に出た後、また戻ってきました。ここは大きな絵が沢山あって、楽しい場所ですね」
「そっ……それは、何よりですが。そうじゃなくって――」
そんな二人の間に割り込むように、大きな手が翳された。
アルフレートは優しく諭すように、ヴァサに語り掛ける。
「……ごめんね。そのお話は一旦後で」
普段より低いアルフレートの声が、冷たく廊下に響く。
「グラン。この混乱の中心にいるのはレタさんだ」
「れ、レタ?!……本当、なのか。それは」
レタというのは、王妃の側近を示す“王の槍”を務めていた王国騎士だ。
そして――5年前に突然、失踪してしまった人物でもある。
……まさかこんな形で再会することになるとは、夢にも思わなかった。
「俺はレタさんと直接会ったことはないけど、リリィさんがさっき顔を見たから間違いない。……そうですよね」
「はい……確かに、レタさんでした。ですが、末期の血晶病です。意思疎通は……測れないかと」
リリィは冷静を装ってはいたが、目にはしっかりと焦りと悲しみが滲んでいる。
苦しそうに顰めた眉を見ると、まだ現実を受け入れたくないと感じているようだった。
「末期症状、か……。彼女は今、何処に?」
「分かりません。でも、何かを探すように城を駆けているようでした。血晶病末期というのを考えると、ただ“帰ってきただけ”なのかもしれません」
「……帰ってきただけ、か」
グランハルトは目を伏せて俯く。
「なら、持て成してやらないといけないな」
5年前、王妃が――母が死んだあの時。
同時期に行方不明になってからずっと気にかけていた彼女とこんな形で再会するとは。
こうなることなら、もっとちゃんと彼女と話せば良かった。
彼女を、全力で探すべきだった。
当時、王国中が王妃の死を悼みつつも、中立国となったばかりのアイゼンラントは、今後の在り方を定めるために大きく動いていた。
国力強化のための防衛魔術と防衛機構の見直し。
新たな魔術研究の推進。
軍事派と防衛強化派の対立。
そして――幾度となく催された、王家の血を絶やさぬための夜会。
多方面からの重圧に縛られ、王子であるグランハルトは易々と王都を離れることすら許されなかった。
……だとしても、無理をするべきだったのだ。
――いつもだ。
いつも、手遅れになってから、“ああしたら良かったのに”と後悔する。
それが酷く不甲斐なくて、腹が立つ。
「……レタさんの所在が分からない今、被害を最小限にするためにも俺達は下手に動けない。グラン、その子を連れて……避難出来そう?」
理知的なアルフレートの声が、深く沈んでいく意識を現実に引き上げた。
短く息を吸い、頭を冷やす。
……そうだ。
今は、自分に出来ることを果たさなくてはならない。
王家の者として。
そして、彼女の仲間として。
しかし――。
「被害を最小限に……と言ったが、この騒ぎはレタが起こしたものではないのか? 被害も何も、レタを拘束すればこの騒動は……」
「そうだけど、そうじゃないんだ。レタさん一人じゃない」
「“一人じゃない”?……何だそれは。仲間がいると?」
――ふと。
グランハルト達の会話にざり、と何かを引き摺るような音が混ざる。
振り向くと、一人の紅血兵団の兵士がふらふらとした足取りで、向かってきているのが見えた。
項垂れるように顔は俯き、姿勢もどこか不安定。
そんな立ち姿にグランハルトは、居心地の悪いじめっとした違和感を感じたが、それよりも兵への心配の方が勝った。
一歩踏み出し、問う。
「……どうした、君。大丈夫か?」
「殿下、お下がりください!」
リリィがグランハルトとヴァサの一歩前に出て、庇うように構える。
「アルフさん!」
「はい!」
リリィの呼び掛けに応えたアルフレートは、素早く兵士に向かって駆け出す。
それに反応したように、兵士の項垂れていた上体が僅かに引き起こされた。
兵士は鞘から剣を抜き、構える。
そして――あろうことか、同胞である王国騎士のアルフレートに“剣を振り下ろした”。
「ッく……!」
アルフレートがそれをひらりと躱すと、宙を斬る勢いを殺さないまま床に叩きつけられた。
耳を刺すような不快な金属音が、辺りの空気を震わせる。
剣の重さでぐらりとバランスを崩した兵士は、それでも剣を構え直そうとしていた――が、アルフレートはその隙を見逃さない。
「はッ!」
大胆に懐に飛び込み、容赦なく兵士を蹴り飛ばした。
兵士は人形のように弾かれ、そのまま壁に鈍い音を立てて激突。
ぐったりと倒れたかと思うと、一度だけ痙攣するようにひくりと身体が跳ねた。
「……あ、アルフ! お前……!」
突然の事にグランハルトは呆気に取られていたが、すぐにアルフレートが彼に蹴りを入れた理由が分かった。
倒れた兵士の首筋辺りに、見覚えのある細い針――結晶の針が刺さっていたのだ。
「あの針……レタの、“人を操る魔術”か……?」
ぽつりと呟いたグランハルトの言葉に、アルフレートが目を丸くして答える。
「れ、レタさんの魔術? 血晶病なのに、魔術が使えるなんて聞いたことないよ?!」
「私だって聞いたことは無い。しかも、仲間にこんなこと……あの誇り高い騎士であるレタが、一番したくない事だろうにな」
じり、とグランハルトは兵士に躙り寄る。
「あっ、いけません……その兵にはまだ針が!」
リリィの声に反応するように、兵士がゆっくりと不器用に立ち上がる。
その異様な姿に、グランハルトは今まで感じたことが無いような薄気味悪さを感じた。
「……、……」
兵士のだらしなく開いた口から血が垂れ、肩は不自然に外れている。
そんな痛々しい姿に、アルフレートは顔を顰めて呟いた。
「うっ……い、痛かったよな。ごめんっ……!」
「アルフレートさん、もっと手加減してあげて下さい。彼等を殺さないように!」
「わ、分かってます。でも……!」
「……落ち着け」
二人の混乱を、グランハルトの低く落ち着いた声が制止する。
「そうやって仲間内で混乱を誘うのも、レタの手の内だ。増援が来る……構えろ」
グランハルトは静かに剣を構え、背後から近寄ってきた虚ろな目の兵士達を見る。
ざっと目算すると、十人程度だろうか。
全員が力無く項垂れ、一目で正気ではないことが分かる。それが確実に一歩ずつ、四人を取り囲むように迫っていた。
前方の一人にはアルフレートが。後方の兵士達にはグランハルトとリリィが、それぞれ対峙するように見合っている。
……異様な間合いだ。
剣を構えてはいるが、誰も動かない。
兵士達は攻撃を仕掛けるような動きもせず、ただ虚ろな目で立ち尽くしている。まるで、何かの展示物かのように。
剣を握る手の力を入れ直す。
唾を飲み込む音すら煩く感じる今、遠くの廊下が不愉快にうねり、歪んでいく感覚がある。固い大理石の床も微かに波打ち、天井と床の位置がずれていく……そんな、形容し難い気持ち悪さ。
だが、重く沈んでいくグランハルトの意識は突然、現実へと引き戻された。
ばつん、と爆ぜるような音と共に、全ての明かりが消えたのだ。
「今の音……まさか、城の魔術回路も、電力回路も絶たれたのか?」
「そのようです。ご留意ください、殿下。アルフレートさん」
「……ああ」
月明かりだけが淡く照らす廊下に、静寂と息が詰まるような緊張感が満ちる。
次にどう動くかで、生死が決まる。
そんな仄暗い空気を裂いたのは、グランハルトの前方に立つ一人の兵士だった。
突然、乱暴に剣を大きく振りかぶると、同時に喉の奥からくぐもった声を洩らした。
それは守るべき存在に剣を振り下ろすことを良しとしない騎士の嘆きであり、慟哭だった。
「ぐう、おおああ……!」
「……大丈夫だ。私が受け止めてやる」
そう宣言して一歩踏み出したグランハルトは、その一太刀を剣で受け止めた。
刃がキンと高く鳴り、速く、滑らかに受け流す。
辺りのエーテルが震えているのが分かる。
そして、それを――“素手で掴んで”いるかのような感覚。
受け止めた剣の重さをしっかりと全身で感じると、グランハルトは人知れず、口元を歪めて小さく笑う。
ああ、また戦場に戻って来られたのだ……と。
攻撃を受け流された兵は僅かに体勢を崩し、その隙をグランハルトは鞘で強く突く。腕に鞘越しの肉の感触が伝わり、すぐに消える。
転がるように倒れた兵士は、再び立ち上がり――今度は両手で掴みかかるようにグランハルトに飛び掛かった。
「ゥ、あ……!」
「来い」
低く、重たい声が廊下に落ちる。
剣を構えるグランハルトは仲間を背にしながら――どこか、この戦いを楽しんでいるかのようだった。
更に一歩踏み出そうとしたその瞬間。
突然、視界を鮮やかな青が覆った。
「……!」
四人を中心に守るように蠢く、分厚い壁のような竜巻。その正体は、青く発光する蝶の群れだ。
リリィの得意とするこの魔術は、普段は偵察や追跡のために僅かな数しか飛ばさない。
だが今は、数百……いや数千にも及ぶ小さな翅が幾重にも重なり、耳を打つ羽音が空気を震わせている。
「殿下!」
「何があった? リリィ」
「今、強い反応が……恐らく、レタさんのエーテルを感知しました」
エーテルで編んだ無数の蝶を操る、リリィの声と指先が微かに揺れる。
「地下階からです!」
その言葉を聞いて、アルフレートが青ざめた顔で叫ぶ。
「地下?!……地下には陛下がいる!」
「ち、父上が?!」
「さっきユストゥスさんが陛下と避難するって、無線で連絡が……」
その時、ヴァサがグランハルトの服の裾を僅かに引いた。
見下ろしたその瞳は、静かな熱を湛えていて『そこに邪神がいる』と口外に言っているようだった。
「……チッ。一体、何なんだ……!」
「グラン、地下に行くなら俺も――」
アルフレートの言葉に、リリィが被せるように言う。
「いけません! 私達はここで兵達を食い止めないと、被害が拡大します!」
「……っ、でも!」
「殿下! 地下への道は私が作ります。ですから、その隙に!」
「分かった……頼む。リリィ」
グランハルトはリリィとアイコンタクトを取ると、剣を低く構える。
それは、突撃をする前の構えだ。
「……ッ、グラン」
アルフレートは横目でその構えを見て、くっと喉を鳴らし、それから口を閉ざした。
「……殿下。レタ先輩のこと、よろしくお願いします。こんなこと絶対に、望んでないはずなんです……」
リリィの掠れた声に涙が滲む。
『よろしくお願いします』――それが、何を託す言葉なのか、グランハルトには嫌でも分かってしまう。
「……、……」
……そうだな。
辛いよ、私も。
けれど、グランハルトはそれを声にすることはせず、ただ温かな低い声で答えた。
「……ああ。任せておけ」
レタは隣国ウェストゥからの移住者でありながらも、アイゼンラント王国軍である紅血兵団に入団。
昇進を重ねて行く中で、類稀なる白魔術の才能を王妃に見初められ、特例として“王の槍”に選ばれた実力者。
魔術師としても、武術家としても――そして、母の心の支えとしても、国に尽くしてくれていた。
グランハルトとは剣術の稽古をしたり、レタからは白魔術を教わったり、反対に黒魔術を教えたりする仲だった。
歳の近い二人は話も合い、時には本を貸しあったり、何でもない城内を並んで散歩することもあった程だ。
それ故にグランハルトはレタを見てきたし、知っていた。
かっちりと纏められた艶やかな赤毛も。
長いまつ毛の下の、凛々しく澄んだ瞳も。
そして、純粋ゆえに危うい儚さすら滲んでいた気高い魂も。
……これ以上、穢させる訳にはいかない。
「私が合図を出したら、走って下さい!」
「俺とリリィさんでここの皆を止めたら、すぐにそっちに行く! だから……また後でね!」
「……ああ」
――また、後で。
あの日、果たされなかった約束だ。
けれど今は……不思議と怖くない。
「……ッ、今です!」
リリィが鋭く合図を放つ。
ぐるりと手首を返して押し出すように払うと、青の渦が激しくうねり、波のように兵士達を壁際へ押し返した。
辺りを鮮やかな青が、まるで舞台の一幕のように華やかに彩り、グランハルトのために道を敷く。
「ありがとう、二人とも!……行くぞ、ヴァサ!」
「はいっ……勿論」
すぐ後ろにいたヴァサの手をグランハルトが掴むと、彼女は僅かに目を見開き、しかし躊躇わずに握り返す。
駆け出したその横顔には、戦場に不釣り合いな程に柔らかく淡い、優しい色が滲んでいた。




