5話
それは隣国のウェストゥへ行った両親に、兄と二人で城の留守を任されていた時だった。
両親の不在を狙われたのか、突発的な襲撃だったのか。
それらは今に至るまで、何も分かっていない。
――まだ、私が15歳の秋だった。
その日。私は初めて聞く、避難誘導音声に怯えながらも、兄に手を引かれて司令室に連れてこられていた。
中央にある大きなスクリーンが北方関所での戦闘を映し、派手な魔法で森が焼いているのが見える。
いつもの静謐な城内ではない。
息が詰まる程の緊張と混乱が場を支配していた。
グランハルトは青ざめた顔でスクリーンの中の戦闘と、無線機を使って指示を出すクリストハルトの横顔を交互に見ることしか出来なかった。
「に……兄様、父上と母上をお呼びしましょう」
「連絡は出来るけど、帰ってきて頂くには時間が無さすぎる。……だけど、大丈夫。僕が傍に居るだろ? グラン」
無線機に声を通している時のクリストハルトの険しい目が、弟に向くと穏やかな兄の目に戻る。
「……、……」
グランハルトはそこで、『自分も力になる』と言えなかった。
……否、言わなかった。
兄を魔術師として信頼していたし、事実自分よりも冷静で賢いから大丈夫だ、と頼る事を選んだ。
「……はい」
グランハルトは協力の代わりに弱々しく、不安げに腕を組むことしか出来ない。
クリストハルトはその腕を優しく撫でるように掴み、そっと離した。
モニターを見ていたクリストハルトが、考え事をするように僅かに俯いた後。
ふと、顔を上げて笑った。
その顔はいつにも増して、爽やかな――しかし、確かな信念を感じさせる熱がある。
くるりと振り返ると司令室に集まっていた王国騎士数名に、兄はまだ幼さの残る声で命令を下した。
「グランハルトを部屋に連れて行ってくれ」
「……えっ?」
「はっ! ですが、クリストハルト殿下は……」
「僕は少し、魔術を使うから集中したい。ここには一人だけ残って、後はグランと城内の防衛に回って欲しい。いい?」
「かしこまりました!」
「に、兄様……?! 私は……」
“魔術を使う”と聞いて慌てて駆け寄ったが、優しく手で制止され、グランハルトの足が止まる。
「……グランは部屋で待ってて。後で迎えに行くから」
「……ッ、はい」
私の弱々しい肯定を聞くと、兄は優しく微笑んだ。
……いつもの優しい、完璧な笑みで。
「また後でね、グラン。……さぁ、行って! 皆も」
兄の号令で騎士達が動く。
騎士に促された私はそのまま司令室を後にしたが、その心は不安で満ちていた。
「兄様……」
振り向いたグランハルトのか細い声は、重い扉に阻まれてクリストハルトには届かない。
それでも、どうしても伝えたかった。
「……また後で。兄様」
グランハルトが自室に到着して扉を閉めた瞬間、窓を震わせる程の轟音と共に、嵐のような突風が駆け巡る。
この大地と大気すらをも揺るがす、エーテルの震え。
恐らく、排撃魔術だ。
先日両親から口頭で聞いたばかりで、一度構造式を見ただけの魔術だというのに。
……ここまで、安定して持続できるものなのか。
やはり、兄様はすごい魔術師なのだ――とグランハルトは誇らしげに、騎士達の制止も聞かずカーテンの隙間から空を見上げていた。
暫くして風が凪いだ後、アイゼンラント上空を覆うエーテルの壁がきらりと輝く。
それは排撃魔術で作られた壁が、相手の魔術を反射させている事を表している。
……まだ、戦っているらしい。
やがて、空で波が打つようにエーテルが煌めいた。
排撃魔術が解かれたのだ。
静かになった城内を鑑みるに、恐らく制圧したのだろう。
「終わった……?! 早く、兄様の所へ!」
グランハルトは『後で迎えに行く』と言われたのも忘れ、騎士達をすり抜けて自室から飛び出し、急いで司令室に向かった。
「……兄様!」
扉を開いてすぐ目に飛び込んできたのは、笑顔で迎えてくれる兄――。
……ではなく。
騎士や家臣に応急手当され、ぐったりと横たわる――血濡れの兄の姿だった。
口や目、耳から溢れる血の匂い。
青白く変色する肌。
冷えていく体温。
駆け寄って抱きしめた腕の中で、静かに“物”になっていく兄を、私はただ呆然と見つめることしか出来なかった。
「……排撃魔術は、兄様が最期に使った魔術です。素晴らしい魔術ですが、術者への負荷が強すぎます。それを、この魔術に組み込んだのですか?」
「うん。……しかし、それをさらに縮小して安定させたものが、この循環魔術だ」
ヴォルフガングの指がつう、と魔術構造図を撫でる。️
まるで、産まれたての赤子を撫でるかのように優しく、愛おしそうに。
「お前が継いでいく力だ。……出来るな?」
それは確認ではなく、命令と同義だ。
期待であり……血の、宿命。
それらを理解しているからこそ、グランハルトはすぐに声を出すことが出来なかった。
アイゼンラントを継いでいくということ。
……果たしてそれは、本当に自分が継ぐべき物なのだろうか?
兄より劣り、生き永らえただけの人間が。
最早魔術師としても落ちぶれ、血族である以外何も取り柄がない。
ただ怠惰で臆病な、愚かな人間だ。
そんな存在が、アイゼンラントを背負えるのだろうか。
今ならば、はっきりと分かる。
私は――……。
「……グランハルト」
その翳る心に気が付いたのか、父が私の名前を呼んだ。
その瞳は真っ直ぐに心の奥底を覗くようで、しかし同時に優しく諭すような色をしている。
……どうして、そんな目で見るんだ。
どうして、今更。
そんな、父親の目で……。
いつもなら嫌悪感で溢れる心も、今だけは罪悪感や羞恥心のような気持ちがじわりと滲む。
兄の代わりとしてしか生きる価値を見いだせないのに、今はそれすらも出来ない。
私は、王の器ではない。
そんな事は既に理解しているから。
だから、やめてくれ。
許してくれ。
そんな目で、私を――。
「……父上」
やっと喉から吐き出されたグランハルトの声は、僅かに震えていた。
「今の私は、エーテルを……上手く扱う事が、出来ません」
実際に口にするということはとても恐ろしい。
自分には、もう何も無い。
差し出せるものも、価値も無いのだと、改めて現実を突き付けられてしまうから。
「王家の血を引いているからといっても、魔術師として落ちぶれた私が……循環魔術を継承することは果たして、王国の為になりますでしょうか。……もっと、相応しい者に――」
「待て」
ヴォルフガングがぴしゃり、とグランハルトの言葉を遮った。
「グランハルト。自分で言っていただろう。循環魔術は、人為的に魔術師を作れるのだと」
「それは……」
確かに言った。
けれど、それは……。
循環魔術は楔に“活性”か“停滞”の指示を出して、エーテルのコントロールをする魔術だ。
本来の主な用途は、荒れて偏った環境エーテルへの干渉と調整。
そんなものを人体に使うということ自体、狂気の沙汰だ。
エーテルが完全に静止している非魔術師だったとしても、内臓破裂や意識障害……最悪の場合、エーテルに耐えられず即死するリスクが伴う。
けれど不安定に流れ続けている私にとっては、非魔術師よりもさらにそのリスクが高い。
連続して使うなら尚更――。
そんなこと、父も分かっているだろうに。
「父上。私に使うのは、あまり……現実的ではないかと」
「グラン、何を弱気になってる。何度も循環魔術を掛け直す必要は無いんだぞ」
「えっ。……そう、なのですか?」
「お前のそれは、不規則で不安定ではあるが流れているだろ。だから一度だけ正常な波に……軌道に乗せてやればいいだけだ」
「軌道に載せる、ですか……」
――そんな簡単に、成功するものじゃなかろうに。
その心の内を読んだかのように、父の口角が満足そうににんまりと上がった。
「楔ならば、それが出来る」
爛々と輝く父の目は、悪戯が成功した子供のように無垢で……残酷なものに見えた。
気のせいかもしれない。
けれど、グランハルトには弱った動物を甚振るような……そんな昏い興奮が宿っているように見えた。
「楔……ですか」
「ああ。理論上、指示を出さないまま“内側”に置けば、作った流れを恒常化させられる」
内側。
それが何を意味するのか、すぐに分かった。
「魔具を……体内に」
「ああ、そうだ」️
ヴォルフガングはさらりと言って、笑う。
「直接エーテルに触れさせて、流れに組み込んでしまうのだよ。簡単だろう?」
詩を読んでいるかのような優しい声なのに、その内容はとてつもなく悍ましいものだ。
体内に魔具を入れるなんて、聞いたことがない。
恐怖がないと言えば嘘になる。
……けれど。
もう一度、魔術を使えるようになる。
戦場に……戻れる。
その可能性だけで世界が色付き、心臓が早鐘を打つように感じた。
国を守る兵器であること――それはグランハルトが諦めかけていた、“自分の価値”そのものだ。
幼い頃からずっと追い求め、喉から手が出るほど欲した力。
……絶対に、逃す訳にはいかない。
グランハルトは昂る心を抑えて、努めて冷静に振る舞う。
「仮に私に使うのだとして……術者は?」
「私以外に適任が居るか?」
当然だと言わんばかりに、ヴォルフガングがにっこりと笑う。
……人は皆、いずれ死に至る。
他者との違いは、それが早いか遅いかだけ。
目を伏せ、無意識に拳を握る。
しかし、次に見開かれたグランハルトの瞳からは、迷いが消えていた。
「魔術が認可された暁には、是非私に循環魔術を使ってください」
「ふふ、勿論。そう言ってくれると思っていた。では……魔術論文から始めようか?」
魔術論文の査読。魔術構造仕様書の精査。
グランハルトは逸る気持ちを抑えながら、魔術登録用の必要書類をヴォルフガングと揃えていく。
没頭する二人には、時間はいくらあっても足りず、あっという間に溶けてしまうようだった。
とうに深夜0時を過ぎていたが、資料に視線を注ぐ二人はそれに気が付かない。
たまに交わされる会話は業務的。
寧ろ、会話よりも紙の上を走るペンの音の方が多い。
けれど、燭台とシャンデリアの灯りが、二人の影を楽しげに揺らす。
家族団欒とは程遠い。
それでも今だけは、凍って止まっていた父子の時間が、少しずつ動いていくように感じた。
日付が変わって、更に短針が二周した頃。
やっと、循環魔術の️魔術論文と魔術構造仕様書が完成した。
元々殆ど父が纏めてあったとはいえ、膨大な知識を扱ったせいか脳の疲労が凄まじい。
けれど、不思議と嫌ではない。
グランハルトには、そんな心地のよい疲労があった。
「……お疲れさまでした、父上」
「ありがとう。これで、機関に申請が掛けられそうだ」
「ええ」
ふと、構造仕様書の図面に目が留まる。
中央に描かれた人体から延びる、円環状に重なる複数の線。
複雑な魔術だと一目で分かるのに、無駄を極限まで削ぎ落としたそれはまるで、一枚の絵画のようだった。
「……本当に、美しいですね」
「そうだろう?」
「あとは、登録申請書ですか?」
「それもそうだな。だが……今日は終わりにしよう。あまり根を詰め過ぎるのも良くない」
「はい。では、そのように」
グランハルトは机の上に散らばった筆記具を手際よく片付けていく。
けれど背後に刺さるような視線を感じ、ふと手を止めて顔を上げた。
その視線の主――ヴォルフガングと目が合うと、グランハルトは堪らず訝しげな声で問う。
「……まだ、何か?」
「元々循環魔術が完成したら、最初にお前に使いたいと思っていてな」
「“元々”、ですか?」
温い違和感が胸を刺す。
けれど、その違和感はすぐ霧散する。
「……実は、もうここに試作品があるのだよ」
ヴォルフガングは胸ポケットからするり、と掌に収まる程度の――楔を取り出した。
アイゼンラントの国花である百合を象ったそれは、鮮やかにきらりと紅く煌めいて、魔具というよりは宝飾のようだ。
これが、循環魔術の……楔。
グランハルトの喉が鳴った。
触ってもいないのに感じる熱は、楔が圧縮されたエーテル結晶だからだろう。
「……楔には莫大なエーテルが必要ですのに。こちらは一体、どうやって……?」
「私の“友人”と一緒に作ったのさ。よく出来ているだろう?」
「なるほど。……イツバの里の大長殿でしたか」
「作ってみて分かったがやはり、現在は量産には向いていない。設計図の改良は必要不可欠だろうな。であれば、またイルに頼まなくてはいけないが……まあ、何はともあれ一旦完成だ」
ふう、と息を吐いた父が徐に壁に凭れ、不敵にくつくつと笑った。
「……で、どうする? 私とお前しか居ないが」
「……、……」
好いていないとはいえ、血族だ。
この『どうする』の意味が分かってしまう自分が嫌になる。
「……父上。提出用に完成はしましたが、なりません」
グランハルトは手を挙げ、“形だけ”の否定を取る。
心の奥底では分かっている。こんな茶番をする必要なんて無いと。
それでも、本心を父は見せたくなかったのは――空の身の内に少しだけ残った、王族としての矜恃だったのだろうか。
それを知ってか知らずか、父は更に畳み掛けてくる。
「ははっ、真面目な奴め。認可前であっても、“事故が起きなければ”罪にはならんのだよ」
「……、……」
グランハルトが溜息を吐く。
未認可の魔術の行使は重罪で、摘発されれば即刻トリステスの監獄行きだ。
それに同じ魔術師として、“自分は絶対に失敗しない”と言い切れる裏打ちされた自信と、その実力が憎たらしい。
……けれど、今は。
身体が熱くなるくらい――心強かった。
「どうだ。また、魔術師としての力が欲しいだろう?」
……本当に底意地が悪い。
そんなこと、聞かなくとも答えは分かっているだろうに。
グランハルトは改めて身体の向きを合わせ、真っ直ぐにヴォルフガングを見つめた。
「……父上」
グランハルトの声は凛として、夏の風のように爽やか。けれど同時に、悪魔と契約するかのような重さがあった。
「私に、循環魔術を使ってください」
その声に満足したのか、ヴォルフガングの喉が低く鳴った。
「……、……ふふ。うん、良いだろう」
ヴォルフガングが目を伏せ、楔を両手で包むと、指の隙間から淡い光が優しく漏れ出た。
風ひとつ無いのに空気が震え、二人の髪や服が僅かに舞い上がる。
楔を起点とした、エーテルの奔流。
その流れの中に確かに父のエーテルを感じる。
これが、循環魔術――。
グランハルトはヴォルフガングに肩を掴まれたが、拒まない。
息を呑んで、瞬きも忘れ……胸に押し当てられる楔を黙って見つめていた。️
楔が当たっている胸骨を中心に、身体が焼けるように熱を持つ。️
……父が少しでも加減を間違えれば、死ぬ。
グランハルトは無意識に痛みに備え、奥歯を噛み締めた。
けれど、待てども痛みは無く。
代わりに――強い眠気と脱力感に襲われた。
……ダメだ、やめろ。
身体を強い力で押さえつけられているような圧。
直感的に今意識を手離したら、そのまま戻って来れないような気がした。
起きろ、気を保て……!
もうダメかもしれない――そう思いかけた時、突然身体の中でエーテルが駆け巡る。
久しく感じていなかった自分のエーテル。
頭から足先、細胞のひとつひとつに至るまで、作り替えられていくような、鮮烈で清々しい熱。
自分が……戻ってきた。
意識が薄れていく中、グランハルトはぼんやりとそう思った。




