4話
――楽しい。
つい先ほどまでの気の重さが嘘のように、父から預かった資料を繰る指先が止まらない。
目覚めてから、もう一時間は経っている。
けれどカーテンを開けることすら忘れ、手元のランプが淡く灯るだけの薄暗い部屋の中にいた。
目の奥が熱い。
知識が流れ込む度に、脳が醒えていく。
こんな感覚は、久しく覚えがない。
……心が震え、“美しい”と感じる。
魔術としての完成度の高さ、緻密で隙の無い構造美。
これを母が亡き後、父一人でここまで組み立てたのかと思うと、流石としか言えない。
グランハルトは息をするのも忘れて、書かれている情報を一文字も漏らさないように、真剣に目で追った。
循環魔術。
魔具を用いてエーテルの“流れ”そのものを、精密にコントロールする魔術。
それ自体は派手な効果ではないものの、確実に世界をより良くするだろう。
……素晴らしい。
けれど興奮と同時に、得体の知れない何かが腹の底から込み上げてくるのが気になった。
「…………殿下」
「わっ」
いつの間にかベッドサイドに立っていたユストゥスは、驚いて声を上げたグランハルトが面白かったのか、くしゃっと顔を崩して笑った。
「ふふ。おはようございます、殿下。ノックもしましたのに、全くお気付きになられませんでしたね」
「……っ、すまない。おはよう」
「朝食も摂られず、部屋からずっと出てこないのだとお聞きして参りましたが……体調はお変わりなく、でしょうか」
「ああ、問題ない……少し、研究資料を読んでいただけだ」
「お邪魔をしてしまい、申し訳ありません。軽食をお持ちしましたが……少し、お召し上がりになられますか?」
ユストゥスがワゴンを静かに寄せ、クロッシュを開ける。
部屋に紅茶とパンの香ばしい匂いがふわりと漂い、グランハルトの鼻を掠めた。
恐らく、いつもの紅茶とトーストサンドだろう。
しかし今は空腹の所為か、いつもより数段魅力的に感じた。
「……うん。頂く」
短く答えるグランハルトの視線は、自然と食事へと向いていた。
それに安心したのか、ユストゥスの声色に色が差す。
「良かった。では、準備致しますね」
「ありがとう」
グランハルトはユストゥスの背中を追うようにベッドから立ち上がり、食事が並べられていく席に着いた。
トーストサンドには新鮮なフリルレタスとトマト、そしてパストラミが多めに入っている。
付き合いが長いせいか、好みを熟知されている事が悔しくもあり……少し、むず痒い。
『お好きですよね?』と言わんばかりの自信ありげな笑みを湛えているユストゥスに、なんとなく負けた気すらする。
そんな軽い敗北感が擽ったくて、グランハルトはなんとなくユストゥスから目を背けながら食事に手をつけた。
空腹が満たされたグランハルトは再び、紅茶を片手に資料を開く。
全てに目を通した事もあり、二度目の今は雑誌でも読んでいるかのような速さで頁を捲っていた。
それを横目に、テーブルの片付けが終わったユストゥスが控えめな声でぽつりと呟いた。
「……今日の夜から、でしたね。陛下との魔術研究は」
「ああ」
普段ならあまり嬉しくない、“魔術研究”という単語は、グランハルトの中では今回初めて心から待ち遠しいと思えるものになっていた。
……それがまたしてもこの男には筒抜けらしい。
「……ふふ。殿下が楽しそうで何よりですよ」
子供を見守るような口調で、ユストゥスが微笑む。
普段ならこんな軽口には、天邪鬼のように捻くれた事を返すのだが――。
「……うん。そうかもしれない」
顔を上げたグランハルトはどこか照れつつも晴れやかに、ユストゥスと目が合うとはにかむ。
資料を読み込む度に感じた、僅かな違和感は見ないふりをして――また、頁を捲った。
ユストゥスが部屋から出て行ったあと、グランハルトは寝衣を脱いで軍服に袖を通す。
最後に姿見の前でクラバットを整える際に、自分の口角がいつもより僅かに上がっていることに気が付く。
無意識であっても、父との時間を心待ちにしているのが妙に照れくさくて、上がった口角を無理矢理指で下げた。
「……よし」
下がった口角を見て小さくそう呟くと、グランハルトは執務室へ向かった。
――その夜。
執務を終わらせて夕食を摂った後、グランハルトは足早に自室に戻ってきた。
重い軍服から、適当に取り出したゆったりとしたシャツに着替えて髪を整える。
たったこれだけで、自身が浮き足立っている事が分かってしまうのがやはり気恥ずかしい。
廊下で顔を見合せたメイド達ですら、目配せし合って笑っていたのを思い出す。
「そんなに分かりやすい……か?」
普段であれば、グランハルトの気持ちを察する事が出来る者なんて、たかが知れているのだが。
たまにこういった事があると、なんというか少し……参ってしまう。
誰も見ていないのに、グランハルトは恥ずかしさを誤魔化すように咳払いした。
とはいえ、まだ父との魔術研究の時間には早すぎる。
時間まで研究資料を読み直しても良かったのだが、グランハルトは久し振りにヴァイオリンを手に取った。
……自身の気持ちを落ち着かせるために。
楽譜に縛られず、自由に掻き鳴らす。
奏でた旋律はまるでたおやかな波のようで、グランハルトの心を優しく撫でるようだった。
誰かの演奏も好きだ。
けれど、今はこうして自由の中で優しい波に流されていたい。
グランハルトは目を伏せて、静かに踊るように……溶け合うように、音と一体となっていった。
暫くすると、ふとした休符の合間に廊下から何やら忙しない足音が聞こえた。
「……なんだ?」
扉を開けて、廊下を覗き込むと――走ってきたリリィと目が合う。
「あっ……殿下!」
「騒々しいな。何があった?」
「申し訳ありません、殿下。先日、防衛結界をすり抜けた侵入者を保護っ……いえ、確保されたそうです!」
乱れていた髪を直して報告するリリィの目には、焦燥感が滲んでいる。
その報告を聞いたグランハルトは、訝しげに眉を下げた。
「……“保護”?」
言葉を丁寧に扱うリリィが敢えて少し柔らかい言葉を使ったのを、グランハルトは見逃さなかったのだ。
防衛結界とはアイゼンラントを包むように薄く張られている不可視のエーテルの膜で、二種類の効果がある。
一つは外部からの魔術や攻撃に備える、盾としての効果。もう一つは、外部からの侵入を感知する、センサーとしての効果だ。
アイゼンラントへの入国は、四つあるいずれかの関所を通る他無い。
それなのに先日、初めて“関所ではない場所から”侵入されたと連絡を受け、国内の警戒を強めていた所だったのだ。
「まさか……野生動物だったとか?」
「いいえ! それが……幼い少女とのことです。随分と大人しくしているらしく、心配で……。私はこれから彼女と面会しますが、殿下も御同席されますか?」
「……いや。気にはなるが、私は父上との約束があるから辞めておこう」
「承知致しました。それでは、行って参ります」
「ああ」
失礼します、と深く礼をしてまた廊下を小走りに掛けていくリリィの背中に、グランハルトは思い出したかのように声を掛けた。
「リリィ」
「……っ、はい!」
「迷い子や亡命者であれば、丁重に持て成してやってくれ。それに、君になら心も開きやすいだろう」
「は、はいっ! かしこまりました!」
リリィの目から不安気な色が消えた。
やはり、侵入者と言えど罪の無い子供であれば、優しく接してあげたかったのだろう。
グランハルトはリリィの迷いが晴れたのを見て、そっと安堵の吐息を漏らした。
「……もう行っていい。引き留めてすまなかった」
グランハルトはそれだけ伝えると手でひらりと宙を切り、自室に戻った。
「……子供、か」
言葉に出してみるとやはり、何とも言えない――ざらりと胸に残る奇妙な違和感があることに気付く。
そもそも関所を通らずに侵入出来たというのは、果たして本当に“ただの”子供なのだろうか?
……少なくとも、魔術師ではありそうだが。
何も騒ぎになっていない所を見ると、敵や罠の類でも無さそうだ。
では一体、何者なんだろう――。
そんな事を考えていると、約束の時間がついそこまで迫っていたことに気が付く。
香を焚いた所為もあってか、寛ぎ過ぎてしまった。
「……しまった」
父のことだ。少しの遅刻でも、ねちっこく弄んでくるに決まっている。
……それだけは、回避したい。
グランハルトは、慌てて机に出していた荷物を掻き集めて、飛び出すように部屋を後にする。
その背に、王子としての優雅さはない。
あるのはまだ未熟な人間の――剥き出しの幼さだけだった。
昇降機で地下階に降りたグランハルトは、廊下を小走りに――しかし足音は立てないよう気を付けて、父が待つ研究室の扉の前に立った。
軽く呼吸を整え、最後に深く息を吸う。
「……失礼します」
扉を引くと金属の蝶番がぎい、と軋んだ音を立てて開く。
なんとか約束の時間には間に合ったようだ。
けれど小走りで来たグランハルトの肩は、息をする度にまだゆるく揺れていた。
対するヴォルフガングは淡く発光するシャンデリアの下で、優雅に魔術構造図を机に広げていた。
ほんの一瞬、視線をグランハルトに寄越したが、直ぐにまた手元の図へと視線を落とす。
「父上、本日は宜しくお願い致します」
「うん」
……父にしては、素直な返事だった。
だが、ヴォルフガングがグランハルトの僅かな隙を見逃す訳がない。
「……グランハルト。息が乱れているようだが、何があった?」
「え?……いいえ。何も」
「ほぉう、濁したか。何かやましい事でもあるのかね?……まあ、そのままおめでたい話が聞けるのであれば、私としても喜ばしい――」
「……父上」
「おお、怖い。冗談だ」
いつも通りの地下階独特の、じめっとした空気と軽口が肌に纏わりつくようだった。
母が死んだ場所であるというのに。
……まさか、何とも思っていないのか?
「……父上。態々私をからかうために、呼び付けた訳では無いのでしょう? そんなことより、早く本題に移って頂けますか。時間は有限なのですから」
「はあ……やれやれ。生真面目で遊び心のない息子を持つと、冗談の一つも言えないな」
「……、……」
……父と話していると、どうも調子が狂う。
だから最後には決まって、口を閉ざすだけの細やかな抵抗しか出来なくなるのだ。
「さて。……では、そろそろ始めるか」
捲れていた図の角を直し、ヴォルフガングは漸く顔を上げて、グランハルトと視線を合わせた。
いつにも増して、薄暗い部屋でヴォルフガングの紅い双眸に見つめられると、何故だか睨まれているのだと錯覚してしまう。
洞窟の中から蛇に睨まれているような――あの、幼少の頃から少しも慣れることの無かった、父の瞳。
……けれど、今は。
“逃げたい”よりも、その奥にある“何か”を覗きたいという――使命感に似た、不安混じりの好奇心が勝ってしまっていた。
「……父上。資料、拝読致しました」
「ああ、どうだった? 初感は」
「とても美しい魔術だと思いました」
――貴方が作ったにしては、とは言わなかった。
こほんと軽く咳払いをし、グランハルトは言葉を続ける。
「……術式構造は勿論ですが、その効果も素敵です」
ほう、とヴォルフガングは口に微笑みを湛えながら、グランハルトの次の言葉を待つ。
「魔法戦争で結晶化した土地を癒し、再度人類が住める環境に戻す……。難民を受け入れない代わりに、アイゼンラントが世界のために出来る、“正しき力”だと感じました」
『国を真に守るためには、自国の力だけではなく“世界の安定”が必要だ』――その思想は当代の王、ヴォルフガングが掲げる思想そのものだ。
父らしく派手で、気障で……無謀にも思える程に大きな話。
けれどこうして実際に、世界の問題にメスを入れる天才的な父の力を見ると、胸の奥底がじわりと熱を持つ。
本当に、素晴らしい。
……悔しい程に。
父を聖人だと信じていない。
愛してもいない。
それでも尚、魔術師としての父は尊敬に値すると心から思える。
それくらい強く憧れてしまう瞬間があるのだが――グランハルトはやはり、盲信はしない。
「心から美しいと思っております。……ですが、この魔術には一国家だけでは抱えきれない程、危険な側面もあるかと」
「ふむ。……その心は?」
グランハルトは資料を読んだ時から、これがただの環境エーテルをコントロールして“土地を癒すだけ”の魔術ではない、と思っていた。
……最初は、気の所為だろうとも思った。
しかし資料を読み込む程、違和感は疑惑に。
そして今、僅かに笑った父の目元を見て、疑惑は確信に変わった。
父の狂気じみた、魔術への執着。
自分に分かって、父が分からない道理は無い。
つまり、父は試しているのだろう。
苦虫を噛み潰したような顔で、グランハルトは胸に渦巻いたものを言葉にしていく。
「循環魔術が触れられるのは、環境エーテルだけではなく……理論上、“体内”エーテルにも触れられますでしょう?」
足先から冷えが這い上がり、体が強ばるのを感じる。
手に汗を握る程緊張しているのは生まれて初めて、“父の行動を制限しよう”としているから……かもしれない。
けれど、言わなくてはならない。
……アイゼンラントのために。
「単刀直入に申し上げます。成否はともかく、非魔術師にエーテルを強制的に流し――」
喉が閉じ、声が消える。
それでも口を開き、喉から声を絞り出した。
「……魔術師を、“人為的に作る”ことが理論上可能。……そうですね?」
改めて口にすると、なんと恐ろしい考えか――と思わずに居られない。
――魔術師を“人為的に作る”魔術。
それは、魔法が強大な力として確立されたこの世界では、あまりにも強烈に甘く香る猛毒だ。
そんな強大な力を、争いを避けて安定を追い求めているアイゼンラントが持って良いのだろうか。
この力は正しい。
けれど同時に、深く昏い……人の意志を踏み躙るような悪にも成りうる。
「貴方はこの力を、一体どのようにお使いになるつもりですか。まさか、大規模な軍事利用を……」
グランハルトの血のように紅い双眸が、ヴォルフガングを睨む。
けれど、ヴォルフガングの眉が僅かに動いただけで、いつもの余裕を崩さないまま口元に手を当てくつくつと笑った。
「……安心しろ、グランハルト。お前が心配するような使い方はしない。倫理的に問題があるからな」
「……、……」
「大丈夫だ」
一瞬だけ間を置いて、ヴォルフガングは続けた。
「神に誓って、な」
「……その御言葉、信じます」
言葉ではそう答えたものの、グランハルトの心には蟠りが残る。
どうしてもこの、“魔術狂い”の奥底にある昏い何かを拭いきれない。
もし、仮に父が人の道を逸れそうになったら。
その時は、自分が️父を――。
それが、アイゼンラントの血を継ぐ者の責務だというのなら。
……迷いなど、無かった。
ふと、図面に目を落としたグランハルトは思わず息を呑んだ。
資料には無かった循環魔術の構造式群の中に、見間違いようのない形――“あの魔術”の一部が潜んでいたからだ。
「父上、これは……!」
グランハルトの切羽詰まった声に、ヴォルフガングは音も無く笑い、口を開く。
「……そうだ。循環魔術は、フランツィスカと共に開発した“排撃魔術”を基盤としている。お前も構造の一部は、見覚えがあるだろう」
やっと真面目に話す気になったらしいヴォルフガングの顔から、ふっと笑みが消えた。
もうここには軽口を吐く男は居ない。
空気をも凍らせる『紅き死神』の二つ名に相応しい、アイゼンラントの王。
ただ、その人が居る。
「あの排撃魔術を……基盤に……」
グランハルトは思考を整理するために呟いたが、思わず口の中で言葉が途切れた。
排撃魔術――それは、白魔法と黒魔法を掛け合わせた複合魔術だ。
元々は父と母が長い研究の末に生み出した魔術であるが、継続的な使用には向いておらず、緊急時以外には用いる事を禁止されている。
その源流を更に遡ると、バルトロメウス前王の代に研究されていた“奪命魔術”に辿り着く。
こうして代々アイゼンラントの王族達は職務の一環として、国と民のための魔術研究と開発を繰りしてきた。
その血の責務は、まだ幼かったグランハルトや兄も例外ではなく――魔術研究をしていたからこそ、あの悲劇は起きたのだ。




