3話
グランハルトは、今夜予定されている父との魔術研究にどうにも気乗りできずにいた。
魔術研究そのものは嫌いではない。寧ろ心が躍る。
けれど、父と二人きりで向き合う時間は――どうしても苦痛を伴う。
母が死んでからというもの、以前にも増して結婚を急かされていることもあり……とにかく、居心地が悪い。
できることなら、第三者のいる公的な場でしか会いたくなかった。
しかし、父との“微妙に開いている心の距離”は、今に始まった訳ではない。
そもそも父は国務以外では多くを語らず、優しく笑うことも少ない。
特に息子達に対してはそれが顕著で、挨拶はすれど雑談らしいものは月に二度あるかどうか。
そんな子供時代を過ごしたが故に、グランハルトは『父は何を考えているのか分からない。少し怖い人』と勝手に苦手意識を持って育った。
その不和は28歳になった今さらに増して、いつの間にか父ではなく、“国王陛下”としてしか見られなくなっていた。
徐々にそうなった……ということもある。
だが幼い頃に父親の役割が、別の者に移り変わってしまったことが大きいのだろう。
「……、……」
ふと、グランハルトは目を伏せる。
――あれは私が10歳になり、母から白魔法と父から黒魔法の訓練に加えて、新たに剣術訓練が始まった年だ。
剣の指南役には兄と同じく、王国騎士団長のユストゥスが就いた。
顔合わせの日。幼い私は目元に傷のある、背の高い彼が怖くて、上手く挨拶を返せなかった。
けれどそれを叱らずに、朗らかに笑い飛ばしてくれたのを覚えている。
第一印象は“怖い”だったものの、彼は物事を教えるのが上手い。
何が苦手で、それをどう克服すればいいのか。
それを的確に教えてくれるので、自分の成長を感じられたし、それが楽しく思えた。
次第に私は、ユストゥスとの訓練が待ち遠しいと思うようになっていく。
出来なかったことが出来るようになる。
これを繰り返していけば、大好きな兄――クリストハルトに近付けるような気がしたからだ。
兄のようになりたい。
兄のように、立派な人にならなくては。
最初はそんな……純粋な憧れだけだった。
私の名前を呼ぶ柔らかい声も、頭を撫でてくれる手も。賢さを兼ね備えた品の良さも、全て好きだった。
当時、兄は15歳。
歳相応の無邪気で優しい笑い方をする兄を、大人達はこう呼んだ。
――神童、と。
そう呼ばれる度、兄の瞳が昏い色を纏う。
神童。
ただ魔術師として素晴らしい、と褒め称えるだけの言葉ではない。
それは――“敵を穿つ兵器”として恐ろしく秀でている、という意味だ。
大人たちの言葉は、兄をただの子供ではなく『国を守る兵器であれ』と自由を奪い、兄を縛り付ける。
“神童”とは、強い祈りであり……呪詛だった。
けれどそれは、“誰も殺さずに民を守りたい”と願う、優しい兄の気持ちに反している。
だから、私は兄がそう呼ばれることが心底嫌だった。
兄は崇められ、畏怖される神童ではない。
ましてや、人の命を屠る兵器でもない。
心優しい、ただの子供で……自慢の兄なのだ。
それを一番に知っているからこそ、自分もその横に立たねばと思っていたし、共に立ちたいと強く思っていた。
早く、強くなって隣に立たなくてはいけない。
兄だけに、その荷を背負わせる訳にはいかない。
もう兄に、無理に作った笑顔をさせたくない。
私は来る日も来る日も、訓練を続けた。
剣を握る手が赤く裂けようと、エーテル切れで気絶しようと……中には、意味の無いこともあったかもしれない。
けれど、やっとのことで何かを得ても、兄は既にその先を歩んでいる。
その背中は『こちらへ来るな』と語っているかのようで、影すら踏ませて貰えない。
そうした繰り返しの中で、やっと気がついた。
……私では、兄に届かない。
時間や年齢だけの問題ではない。
私には、兄のような天才的な素質がない。
その現実に絶望した幼い私は、ついに兄ではなく――自分を守るために線を引いた。
嫌いになったわけでも、無関心になった訳でもない。
ただ、自分とは違うのだと――心に線を引いた。
それは、あまりにも幼い“諦め”の形だ。
それでも尚、私は兄の背中を追うことは辞められなかった。
どんなに遠く届かずとも、兄は私のなりたい姿であり……守りたい人だったから。
そんな想いを抱きつつ、その日も私は兄が書き物をしているのを遮って、気の抜けた声で言う。
「兄様、遊ぼぉ!」
「わっ、グラン」
私が抱きつくと、反射的に兄の手が止まる。
見ると、兄は勉強中だった。
見たこともない魔術式が書かれており、どんな効果を齎すかも知らないもの。
兄はそれを思い出しながら、ノートに書き写していたのだろう。
……そんな時でも、兄は私の頭を優しく撫でてくれる。
それが嬉しくて、つい兄を見ると甘えてしまうのだ。
「兄様、森に行こうよ。勉強なんか後で出来ますよ!」
「うーん。これだけ書かせてくれるかな?」
「やだ。兄様はもう勉強なんか必要ない!」
私が駄々を捏ねると、兄の手が優しく旋毛に沿って私の頭を撫でる。
「そんなことないけどなあ。……あっ、そういえば。最近、付与魔術が安定してきたんだって? すごいね」
突然に振られた、得意な黒魔術の話。
大好きな兄に見ていて貰えていることが嬉しくて、つい声が大きくなる。
「す、少しもすごくありません! 兄様と比べたら、全然!……全然、全く」
「そんなことないよ! グランはもう十分……」
兄が少し困ったように微笑み、何か言いかけて口を閉ざした。
音もなく暗がりから剣の指南役、ユストゥスが音も無く現れたからだ。
「……お話中、失礼致します」
「ああ。ユス」
兄が短く彼の名を呼ぶ。
友人に向けるような、気軽さを含む声。
……なんとなく、それに少し嫉妬してしまう。
けれど今はそれよりも、兄の勉強を邪魔していることを怒られると思って、反射的に兄の背に隠れた。
「……、……」
ごめんなさい――いつ声に出すべきか迷っていた時、ユストゥスが柔らかく温かに私の名を呼んだ。
「……グランハルト王子」
「なっ、なんですか」
「私は王子が、夜な夜な訓練場で訓練をしていることを知っていますよ」
「えっ」
……ああ、もうだめだ。
普段の倍、怒られる――そう思った私は裏返った声で謝る。
「ごっ、ごめんなさい! 少しでも鍛えなくてはいけないと思ったんです! 私は兄様みたいに強くないから!」
そこまで一息で言うと、じわりと後悔が足元からせり上ってくるように感じた。
どんな理由があれど、こっそりと夜間に行動したことを完全に認めてしまったからだ。
……今度こそ、怒られてしまう。
毎朝の寝坊のことや、よく訓練室の鍵を閉め忘れてしまうこと。
そしてきっと、夜食に厨房のチーズを拝借していたことまで。
今まで知られていないと思っていた全てが、ついに全て明るみに出るのだろう。
どうしよう。
もう、逃げられない。
私は額にじっとりと脂汗を感じながら、恐る恐る口を開いた。
「ゆっ……ユストゥスは、このことを母と……父に言いつけますか……?」
その言葉に少し驚いたのか、ユストゥスは目を丸くして短く息を吸う。
「いえ、とんでもない」
そのまま微笑んだかと思うと、そっと腕を広げてふわりと包むように私を抱きしめた。
「……えっ?」
思いもしなかった彼の抱擁に、口から上擦った声が衝いて出る。
彼は私の反応に構わず……けれど少し苦しそうに、言葉を選びながら続けた。
「……強くあろうとする事は、真に立派なことです。ですが……まだ、王国の“剣”は私に任せて頂けませんか。剣や魔法よりも、もっと“大切なもの”を学んでからでも……遅くはありません」
「……、……」
「ですので、その時まで私が王国の剣で在り続けます。王国と、民と。……そして、貴方達を御守り致します」
「ユストゥス。……大切なもの、って何?」
そう言うとユストゥスの腕が緩み、ゆっくりと離れる。
彼の琥珀色の瞳が私と兄を交互に見つめた後、まるで眩しいものを見るかのように細まった。
「……答えは、もう近くにあるものです。王子がそれを見つけるお手伝いを、私にさせて頂けませんか?」
あの日以降、「父上」という言葉を口にする度、胸の奥に空虚な響きが残るようになった。
物腰柔らかなユストゥスとは違い、父はいつも飄々とした態度で、弱さや手の内を見せない。
今何を考え、感じているのか予想もさせてくれない。
常に他人を掌で転がしているような――有り余る程の、王の余裕。
良く言えば、優雅。
悪く言えば……人を小馬鹿にするような。
だからなのか……何となく、話しにくい。
そんな父への気持ちは、5年前に不自然な形で迎えた母の死を境に、確かな“拒絶”へと変わった。
確証がある訳ではない。
だがあの日、確かに私は見た。
母の、最期の瞬間を。
そこに至るまでの経緯は思い出せない。
それでも、あの“生々しさ”だけは――これが現実だったと告げていた。
何にせよ、父は母の死について重大なことを隠していることは明白だ。
誰にも言ったことはなかったが、あの日から私の胸には、そんな確かな確信があった。
――遡ること、今から5年前。
アイゼンラントが中立国として認められる前で、私が23の年だ。
当時は、エルシグと連合国が戦争の真っ只中だった。
アイゼンラントは当事国ではないが、国境付近での戦闘を確認したため領域保全作戦を行使。両軍を押し返すため、父も私も戦場を駆け回っていた。
戦いはいい。
自分の価値を知れるから。
とはいえ……長引く戦争に、確かな疲労を感じていたことを覚えている。
その記憶は、唐突な目覚めから始まる。
日時も分からないその日、私は何かの台の上でふと目を覚ました。
部屋は薄暗く、息が詰まるような湿度の高い密室。
天井から吊るされている、簡素なアンティーク調のシャンデリア。魔術関連の古書と、資料や瓶が隙間なく並ぶ本棚。
馴染み深い部屋の様相を見れば、今いる場所は直ぐに理解できた。
ここは……城の地下に位置する、魔術研究室。
つまり、今横たわっているのは、研究室の中央に置かれた巨大な作業机の上だろう。
こんな妙な場所で眠っていた理由は分からない。
それよりも、淀んだ何かが身体にじっとりと纏わりついていることの方が気になった。
――気持ちが悪い。
そう思って起き上がろうとしたが、身体が鉛のように重く、指一本すら自由に動かすことが出来ない。
誰か居ないかと助けを呼ぼうにも、掠れた空気が喉から漏れ出るだけ。
明らかに何かがおかしい。
早く……ここから逃げなくては。
そう思うのに、身体は全く言うことを聞かない。
ただ、得体の知れない恐怖が腹の奥底からせり上がるのをじっと耐えることしか出来なかった。
「……、……」
天井を見つめ続け、次第に部屋の明かりに目が慣れてきた――その時。
仰向けに寝ている自身の、右脚の先。薬剤棚がある壁に、何か奇妙なものが見えた。
赤い液体と……“ぷるりとした破片”。
それらが飛び散り、塗り潰すように壁一面を赤黒く染めている。
加えて鼻の奥をつんと突く逃げ場のない、甘い鉄の匂い。
間違える訳が無い。
あれは、血と……肉だ。
「……、……」
近くに何かの死体があると言うのに、私の頭はやけに冷静だった。
少なからず、焦燥感に駆られる場面……だというのに、やけに冷静な自分に気が付きぞっとした。
見るな、と頭の中では警鐘が激しく鳴っている。
けれど身体はそれを無視し、視線がその赤をゆっくりとなぞる。
……見るな。
見るな。
見るな。
視線の辿り着いた、その先。
赤黒い血溜まりの中央にぼんやりとではあるが、“何か”がある。
距離があるせいで、すぐには分からない。
だが目を凝らすと、ゆっくりと“それ”の形が闇の中に浮き上がる。
――それは、人の“下半身”。
膝を折り畳み、行儀良く座っている……死体。
損傷の状態を見ると外からではなく、内側から“弾けた”ようだった。
上半身は無い。断面に見える骨らしきものが、てらてらと血に濡れて鈍く光っている。
何だ、これは。
なんて惨く……痛ましいのだろう。
それなのに。
……それなのに。
どうして、こんなにも温かく……心地いいと感じてしまうのだろう。
悍ましくも奇妙な感覚に囚われながら、その死体が纏う紅い布が目に付いた。
見慣れた紅の、ベルベッド。
アイゼンラントの国章を象った白銀の髪飾り。
それは母、女王フランツィスカのものだった。
つまり、これは、母の…………。
この場にそぐわない高揚感と幸福感を感じながら、それでも私は動けない。
目を、逸らしたかった。
母の遺体からも、気持ちの悪い感情を抱えた自分自身からも。
……何もかも、全てから。
その時、視界の端で母だったものに、誰かがそっと手を差し伸べる影が落ちた。
ゆっくりと、繊細な硝子細工でも触るかのような手付き。
取り乱すでもなく、怯えるでもない。
その指先に感情の熱は無く、全てを受け入れているかのような。
シャンデリアの灯りが揺れ、影が伸びる。
その輪郭は――父、ヴォルフガングのものだ。
暫く母の遺体を見つめていた父は、何かに気がついたように、勢いよく立ち上がる。
振り向き、作業机で横たわる私を覗き見るように駆け寄られた。
乱れた髪もそのままの父の紅い眼は、珍しく何かを迷うように翳っていて――。
……次に私が目を覚ましたのは、いつもと何も変わらない、自室のベッドの上だった。
母の死を悼む国葬は、厳かに行われた。
国民への死因の説明は、長年の魔術行使による疲労だと公表された。
だが、本当の死因は調査しても明かすことが出来なかった――らしい。
原因不明の死。
否、そうでは無い。
……きっと、“言えない”のだ。
次第に城内に活気が戻ってきた頃。
改めて母の死について、父に聞いてみた事があった。
「……父上。お聞きしたいことが」
「うん? 何かね」
「母上が崩御なさった日。父上は、研究室で母上に何をなさったのですか?」
短く、鋭く、正確に。
父の不自然を突くと、整った顔が僅かに歪んだ気がした。
「……、……」
普段であれば、真っ直ぐ相手の真意を見透かすように覗いてくる目が、一瞬、揺れた。
まるで、不都合な何か……“犯してしまった罪を隠した”かのように。
少なくともそう思わせる、何か後ろめたさのようなものがあるように感じた。
「それと……レタの不在についてもお聞きしても? 長年、母上に仕え続けていた彼女が、母上に献花すらしないのは、彼女らしくありません」
彼女――レタは、王国騎士の中でも特に優れた一人として選出される“王の槍”を担っていた、母の側近だ。
だと言うのに、彼女は母の葬儀に顔を出さなかった。それだけでは無く、数週間経った今も姿を表していない。
真面目な彼女の人柄をよく知っているからこそ、死亡でも追放でもない今の状況に、強い違和感を感じていた。
「父上。お答え願えますか」
「グランハルト。お前は……私やレタが、王妃を殺したと思っているのか?」
「いいえ。忠誠心の高い彼女が、母上を殺めるとは到底思えません。勿論、父上にもそのような理由があるとも思えませんが」
いつもの威厳のある態度を崩してはいないが、不自然に空いた間が父の動揺を表している。
「フランは……王妃は、私が到着した時には死んでいた。レタについては……私も分からない。お前も何か知っているのなら、教えてくれ」
珍しく、父の声が揺れた。
「……そうですか」
それ以上の会話は早々に打ち切られ、そのまま父は足早に書斎へと消えた。
やはり何か、後ろめたい気持ちがあるからだろうか。
遠ざかる父の背は、その時だけ王ではなく……ただの、弱い人間のそれに見えた。




