2話
「失礼致します、リリィです。グランハルト王子殿下、今……宜しいでしょうか?」
凛とした高い声が聞こえるとアルフレートは反射的に身を引き、慌てて乱れてもいない服装を正した。
先程までの真剣さは消え、今は叱られる前の犬のようだ。
「……退け」
そんな目の前の大男をあしらうように軽く押し退けて、グランハルトは執務室の扉へ向かう。
扉を開けると、見上げたリリィと目が合った。
「わっ!」
返事よりも先に扉が開いたことに驚いたのか、リリィが目を見開いて一歩下がる。
「で……殿下!? 申し訳ありません、殿下の御手を煩わせてしまって!」
「煩わせる? ほう……私には、扉を開ける程度の力も無いと思っていると?」
「えっ?! いえ、あの。そういう意味では……」
リリィの眉が困惑したように下がる。
……本当は困らせたい訳ではない。
けれどグランハルトはこうすることでしか、部下との上手い距離が測れなかったのだ。
「冗談だ。気にするな」
……いつからこんなに不器用になったのだろう。
なんとなく自分に嫌気がさし、グランハルトの口から息が漏れた。
「……入れ」
「はっ、……はい」
グランハルトが静かに促すと、困惑しながらもリリィが頭を下げて一歩進み出る。
不安そうに手元のバインダーを触っていたリリィだったが、執務室を見渡すと小さく「あっ」と呟いた。
執務室の中にいる、下官のアルフレートを捉えたのだ。
「アルフレートさん、こちらで何を? お任せしていた、備品の確認は?」
「はっ、はい。終了して、報告書出しました! あと俺、今日はグランの邪魔してません! ちゃんと仕事終わった、って確認して――」
「こらっ、アルフレートさん。……またその呼び方」
「え? あっ。ご、ごめんなさい!」
肘をつき、二人のやり取りを眺めていたグランハルトがふと、呟くように口を開いた。
「……リリィ、本題を。アルフレートは後で叱ってやってくれ」
「はっ。失礼致しました!」
そう短く答えて一歩踏み出したリリィに気圧されたのか、アルフレートは小さく呻きながらすごすごと机から離れていった。
「こちら、ご拝読ください」
「ああ」
リリィが恭しく差し出した分厚いバインダーを、グランハルトは片手で受け取った。
やけに重厚な、革張りのバインダー。
ただのバインダーなのに……そう思った時、国章の型押しがあしらわれているのを見て合点がいった。
「……父上からか」
「はい。魔術研究の資料だそうです」
開くと分厚い紙束が金のクリップで丁寧に纏められている。
「……“循環魔術”」
グランハルトは初めて聞く魔術の名前を、ゆっくりと確かめるように指でなぞりながら呟く。
この、神経質な筆跡。
見間違えるはずが無い。
父――ヴォルフガングの文字だ。
「父上が、何と?」
「『明日の夜に魔術構造仕様書の仕上げを行う。それまでに資料をきちんと読んでおくように』……とのことです」
「……そうか、ありがとう。しかし、今の私は魔法を――」
“使えない”。
言わずとも、その言葉は伝わったらしい。
リリィは悲しそうな顔をした後、申し訳なさそうに視線を逸らした。
「……、……」
不自然に空いた間は、窓の外の風の音を大きくする。
グランハルトはじっとリリィを見つめ、彼女の次の言葉を待った。
「陛下はまだ、殿下のことを諦めてはおられません。……王妃殿下も、クリストハルト王子殿下だって、きっと――」
「いや、もういい。リリィ、ありがとう」
「……っ、……はい」
何か言いたげだったリリィの手が、空を切るように落ちる。
けれどそれ以上は何も言わず、俯いてぐっと言葉を飲み込んだ。
クリストハルト。
今は亡き、アイゼンラントの第一王子だ。
大好きだった兄の名は、今はただ……呪いのように重い。
『クリストハルト王子殿下もきっと』――その後に続く言葉など、想像に容易い。
しかし、グランハルトはどうしてもそれを受け入れられない。
……許せないのだ。
守りたいものも守れず、力を失ってもなお――生き延びてしまっている自分の生を。
「父上は、『魔術師として落ちぶれた今でも、出来ることを見つけよ』と仰りたいのだろうな。全く、相変わらず人使いが荒い御方だ」
グランハルトは自嘲気味に笑って、現実から目を背けるようにバインダーを閉じた。
背中から射し込む夕日の色とは対照的に、心から色が無くなっていく。
どんなに努力をしようとも、結果が伴わないのであれば価値は無い――と、父に“存在の是非”を判じられたように感じたのだ。
ふと、視界の端で光が揺れた。
風が、動いた。
「……グラン。俺は、違うと思うよ」
俯いていた視線を声の方へ向ける。
そこには――リリィの数歩後ろで大人しく、壁際でじっと控えていたはずのアルフレートが、いつの間にか目の前に立っていた。
苦しそうに、絞り出すように吐き出された声に乗る感情は、複雑すぎて掴めない。
「何だ、アルフ。違うって」
「陛下は、グランの事を試したいだけじゃない。きっと、頼りにしてるからだよ。グランが積み上げてきたもの、俺はちゃんと知ってる」
「……、……」
「グランのこと、自分の“代わり”みたいに思ってるんじゃないかな。だってそうじゃなきゃ、こんな重要なこと相談なんかしないよ」
「自分の……代わり? なんだ、それ」
静かにグランハルトの口からふっと息が漏れたが、笑いには程遠い。
けれど確かに、胸の痛みが一瞬だけ和らいだのを感じた。
「へ、変かな? でも……それくらい自信持って、信頼してると思う」
……信頼。
あの父が?
グランハルトの逡巡を見抜いたのか、アルフレートが肩を竦めながら言葉を足した。
「少なくとも、俺にはそう見えるよ」
ちらりと不安そうに覗き込んでくる顔がなんだか可笑しく感じて、つい顔が綻んだ。
「……、……うん。ありがとう」
ぎこちない笑みのグランハルトを見て、アルフレートは安堵したようにくしゃりと笑う。
そのまま嬉しそうにリリィに振り返り、弾む声で問い掛ける。
「リリィさんもそうですよね!」
胸の前で静かに手を握っていたリリィだったが、その声に驚いて少し跳ねた。
「は……はい、私もそう思います! それに殿下の長所は、武術や魔法の才だけではありませんから!」
リリィが笑い、背筋を伸ばす。
背の低さも相俟って幼く見える彼女だが、まるで今は“忠誠心”をそのまま描いたかのような騎士の顔をしていた。
「……殿下は、いつも一歩引いて……全体を見ておられます。私達が見落とすような、小さなものまで」
次第にリリィの表情から緊張が解け、ふわりと花が香るように口元が柔らかく綻ぶ。
「そういった洞察力は……殿下の、“常に強く、正しくあれ”という御心の元でこそ、真価を発揮するのだと思います。そんな殿下を、我々は――」
何かを言いかけた瞬間、彼女ははっと何かに気づいたように顔を引き締めた。
慌てて咳払いをしたリリィが、再び上官の顔になる。
それが妙に愛らしくて、ついグランハルトは声を出して笑ってしまう。
「ふふふっ。……ありがとう、リリィ」
「いえ、その……出過ぎた真似を……」
少し照れているのか、困惑しているのか。
慌てて口元に当てた小さな手では、頬に差した赤色を隠しきれていない。
それに気が付いたアルフレートが和やかに笑うと、張り詰めていた空気が柔らかくなる。
……幸せだ。
間違いなく。
けれど、今はその“幸福”が重く感じてしまう。
愛される価値も、生きている理由も無い――そう思ってしまう自分には、それがあまりにも眩しくて……痛いのだ。
魔法を使えない、“第一王子の代わりになれない弟”なんて必要ない。
兵器にもなれず、彼等を守れないなら……この国に必要ない。
王族とは、常に強く正しく、民を守れる王の器であり続けねばならないのだから。
――自分のせいで命を落とした、兄のように。
そうなれないのなら、私はただの大量殺人犯だ。
幸せにはなってはいけない。
……幸せになる資格など、ない。
“兄の代わり”になること。
それは、あの日の後悔を忘れないための自分に課した呪いで、生きる指標だった。
けれど、魔法が使えなくなった今、その呪いはもう絶対に解けない。
……だから、どうか。
上辺だけでも、愛さないでほしい。
贅沢な悩みだと分かっている。
けれど、今はそう願うことでしか心を守れなかった。
――その夜。
結局️、執務室で話した後はアルフレートに誘われるまま、三人で夕食を摂ることとなった。️
穏やかで楽しい時間はあっという間に過ぎ、二人と別れた後、グランハルトは真っ直ぐ自室に戻る。
寝支度をし、あとはベッドに入るだけ。
だが、その足はカーテンの隙間から見えた、城下街の灯りに吸い寄せられてしまった。
……この時間のアイゼンラントは特に好きだ。
城下街の活気のある明かりがより鮮明に瞬き、華やかに彩られるから。
対岸に位置する王室の住まい――フリートホーフ城の明かりは大半消され、仄暗い。
けれど、その暗さや静けさは墓場というより、揺りかごのように温かいものだ。
少なくとも、今のグランハルトにとっては心地のいい闇だった。
今更、あの灯りを羨ましいとは思わない。
それでも、幼い頃に諦めた“普通の幸せ”をふとした瞬間に求めてしまう。
あれに手が届く事はこれからもずっと無いのだと、頭では分かっている。
……それでも。
「……兄様は、今の私をお赦しになりますか?」
敢えて薄暗くした部屋に、グランハルトの声が静かに落ちる。
家臣達も概ね仕事が終わり、早ければもう眠りに着いている者も少なくない。
階下や廊下から音はなく、自分の呼吸が聞こえる程静かだった。
……だから、なのだろうか。
まるで遺書に似た、淡い死への思いが心の奥底から湧き出してくるのは。
死にたいわけじゃない。
全てを放棄したいほど、絶望しているわけでもない。
ただ、今の自分はあまりにも“何も成せない人間”になってしまった気がするだけだ。
魔法も使えず、何ひとつ成せないまま。
ただ呼吸をして揺蕩うように生き、やがて静かに終わっていくのではないか。
そんな漠然とした無力感が、じわじわと心の隙間を染め上げていく。
死にたいのではない。
生き方が分からなくなっただけなのだ。
けれど仮に――噂通り、本当に自分が血晶病であったら?
もうすぐ、自分が死んでしまうのだとしたら。
まだ……今の自分でも出来ることが、残されているのだろうか。
血晶病。
発症して今まで生き永らえた者はおらず、全員が何らかの理由で命を落とす。
……まるで、死刑宣告のような病だ。
しかし、血晶病の本当の恐ろしさは致死率だけではない。
その、症状にある。
最初は、ただの不調だと感じる些細なものらしい。感情が乱れ、魔術師であればエーテル不調が表れるなど。
それだけなら、誰にでも起こり得ることだ。
次に、記憶の欠落と痛覚の麻痺。
言語の消失。
その果てに――体の内側から、“赤黒い結晶”に食い破られる。
その“末期症状”を迎えた罹患者は、個体差はあれど最早人ではなくなる。
血に飢えた、ただの……獣だ。
その頃には身体のリミッターが外れ、身体が壊れても我を忘れて、狂ったように暴れ続けてしまうらしい。
暴走の果てにあるのは、魔術師や力ある者に“処分”されるか、成長し続ける結晶に臓器や脳を貫かれて死ぬか。
……どちらにせよ、まともな死に方じゃない。
死の安寧を得るためには、害獣のように殺されるか……もしくは、逃れようのない死しかない。
血晶病とは、人の尊厳を破壊する。
そんな、忌まわしい病なのだ。
血晶病に対抗すべく、世界中から優秀な魔術師や研究者が集い、立ち上がった対策組合なるものがある。
けれど今は実質、“罹患者の殺処分機関”でしかない。
️組合には研究の透明性と軍事転用の禁止条項を求め、アイゼンラントも参加している。
……あれが人の世を脅かす病だからこそ、根絶させるため加盟したのに。
まさか、自身に血晶病の疑いが向くなんて、当時は思いもしなかった。
「……血晶病、か」
ゆっくりとカーテンを閉め、窓に背を向けたグランハルトの目に、マントルピースの上で鈍く光るナイフが映る。
幸いまだグランハルトの体には、血晶病を表す赤黒い結晶の兆候は無い。
だが仮に、自分が血晶病であったとしたら。
自身の生の末に、忠義を捧げてくれた者へ牙を剥くのだとしたら。
その先に自己の喪失と、選べぬ死しか無いのだとしたら。
その前に、自分を、この手で――――。
はっ、と短く息を吸う。
「……違う! 何をしている」
グランハルトはいつの間にか握っていたナイフを払い落とすように、マントルピースの上に戻す。
手に残った冷たく重い銀の感触が、自分がいつもの自分でない、と感じさせた。
「だめだ、今は。今は……まだ……」
どっと疲労が押し寄せる。
……いや、気が付かないようにしていただけだったのかもしれない。
そうだとしても、今日は眠ってしまった方がいいだろう。
そう思ったグランハルトは、サイドテーブルに置いたバインダーから目を逸らしつつ、そのまま寝床に就いた。
翌朝。
隙間なくカーテンを締め切ったグランハルトの部屋には、当然朝日が届いておらず、闇に包まれたままだ。
代わりに家臣たちの足音が廊下から聞こえて、今は夜中ではなく朝なのだと理解する。
「……、……」
薄く瞼を開いて時計を見ると、いつもの起床時間よりもかなり早い。
ならば、もう一眠りしてしまおうか。
そんな欲に勝てず、グランハルトは再び瞼を閉じた……その時。
「グラン」
柔らかな朝の空気に混じり、兄の優しい声に名前を呼ばれたのがはっきりと聞こえた。
「……っ!?」
もういないはずの兄の声に驚き、目を見開いて飛び起き、部屋を見渡す。
「……兄様?」
返事は無い。当たり前だ。
ばくばくと早鐘を打つ胸を押さえ、目を瞑る。
……死んだ兄がいる訳が無い。
そんな事は分かっているのに、こうも鮮明に聞こえるとつい探してしまう。
「……兄様」
すっかり二度寝をする気持ちは消え失せ、グランハルトはベッドの縁に座ると、手持ち無沙汰な感覚に囚われた。
何となくサイドテーブルに手を伸ばし、バインダーを手に取った。
朝の空気に触れたせいか昨日より冷たく、重く感じる。
『夜までにきちんと読んでおくように』
言葉足らずな父の事だ。
“読む”だけではなく、『より高みを目指すために、勉強をしておけ』と言っているのだろう。
……落ちぶれた魔術師となった、私に。
「……悪趣味な御方だ」
皮肉めいた言葉がつい、口を衝いて出る。
誰に聞かせるでもない愚痴は部屋に消え、グランハルトは観念した様子で、ベッドサイドのライトを付けた。




