38.前聖女、ヘレン・セーデルクヴィスト
視察を全て終え、帰る前日の夜。
いつものように……となってしまったくらい、毎夜訪れていたアテナ様の私室に、今夜もまた呼び出されていた。
「フィーは本当に移り気ですね」
隣を歩いていたリアンが口を尖らす。ああ……昨日セレーネ様に呼び出されていたことか。もちろん、リアンも本気ではないのだろうけれど。
「セレーネ様は既婚者ですし、公務です。内容についてはこちらの尊い第一王子の話でした」
「でも、とても綺麗な方でしたよ」
こちらを見上げる瞳には、少しの期待が見えて。自然と笑みが漏れた。
この辺りには……うん、あまり人はいないな。確認して、彼女の耳元に口を近づける。
「俺にとっての一番はいつもリアンです。分かっているでしょう」
言って離れれば、先ほどより近くなった距離で機嫌良く歩いてくれた。
その姿に、こちらも口元が緩んで息を吐く。
ただ、二人で歩くだけで、他国にいるというのに。ひどく落ち着いて、柔らかい雰囲気の中、アテナ様の私室まで歩いた。
「さて、今日は真面目な話をしましょうか」
部屋に入って、いつもの視察や恋愛話を軽くした後。
アテナ様のその言葉で空気が変わった。
「リアンも、フィーもヘレン様のことが気になっているんでしょう?」
リアンの前の聖女。リアンの叔母であるヘレン様。
彼女が亡くなってから、紛い物の聖女となったリアン。亡くなったはずなのに……俺の先見で見える生きたヘレン様の姿。
「私も多く会っていたわけではないから、本当に話せることだけだけれど……ヘレン様はね」
アテナ様は、一度そこで切って。虚空を見上げて、その姿を思い出したのか長く息を吐いた。
「きっと、誰よりも――――聖女らしい、聖女だったわ」
そうして、語られるヘレン様の姿は。
基本的に、俺達の認識から離れたものではなく。
だからこそ、歪に感じた。
◇ ◇ ◇
「十二歳でヘレン様は信託を受けて、その前の聖女様から聖女を引き継いだそうよ」
「今のリュオール以上に安定していた、グランフェルトをずっと守っていたの」
「完璧に。その身を尽くして」
「だからこそ、国民には見えづらかったのかもしれないわね。今のリュオールも……同じ」
当たり前のように送ることが出来る日常も、平和も。
「聖女にずっと守られていて日々が過ごせているだなんて、認識のしようがないものね」
ただの象徴であるならば、意味がないと切り捨てる人間がいても――――反聖女派がいたとしても、おかしくはない。
「反聖女派に唆された先王が間違いだったなんて認識も……聖女がいなくなって災厄に晒されるようになってから、ようやく広まったものですしね」
狂王と知られているとはいえ、自国の王を貶めるような内容。それでも、リアンはそれを口にする。
「聖女を拐かすなんて……あってはならないことです」
「それには同意するわ」
その発言とともに送られた視線の方を見れば、パラス様が微笑んでいた。
リュオールでは絶対に起こさせないという自信と決意のようなそれに――――上手く答えることはできない。
「それからしばらくして、ヘレン様は亡くなられたけれど……とても、良くしていただいたわ」
瞳を細める彼女からは、憧憬の念すら窺える。
「ねぇ、初日の食事会の時のこと……覚えてる?」
「はい……ええと、アテナ様が食事を取り分けてくださって、私達の仲について他国では気をつけるように仰っていて」
「うん、その後。私達が結婚できるか調べたのが、あの嫌みったらしい第一王子のノアだって言ったじゃない?」
ああ、パラス様と結婚されているという衝撃発言の後の、ノア様の話か。
「それを命じたのは、ヘレン様だったのよ」
自分は、神にその身を捧げているというのに。
『貴女達は……幸せになってね』
ヘレン様が、アテナ様にかけられたその言葉は、
『…………聖女はね、神様以外好きになっちゃいけないのよ』
『聖女だから――――』
幼い頃のリアンが同時期に聞いたものとは、かけ離れていて。
「ヘレン様には……その、恋仲だった方が……?」
思いついた可能性は、静かに首を振るアテナ様によって否定される。
「でも」
反対に、
「聖女を拐かした先王が崩御して、その後、姪であり、現聖女である貴女の両親が亡くなって……ヘレン様も亡くなられた」
アテナ様の提示した可能性は。
「果たしてこれは――――偶然、かしら」
否定する理由はなく、その流れで成り立った紛い物の聖女は。
応えることのできる口を結び、前聖女によく似た瞳を震わせていた。
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