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第5話:分岐点と不眠の夜


這うようにして過ぎていた時間が、突如として加速し始めた。


 それに合わせるように、俺の身体も動き出す。


 3歳。俺の足はようやく、バランスという名の神秘を解き明かした。


 ただ歩くだけじゃない。今や家の中を走り回り、家具にぶつかり、セレナの腕からすり抜ける毎日だ。


 もつれていた舌も、ようやく回り始めた。


 まだ『R』の発音が怪しく、声もかん高いホイッスルのようだが、まともな文章を口にできるようにはなった。


「一人にしてくれ」


「自分でできる」


「腹が減った」


 これが俺の、現時点における最大の戦果だ。


 少なくとも、怯えた新兵のような喃語ばぶばぶで意思疎通を図る必要はなくなった。


 周りが俺を『無力な肉の塊』として見なさなくなったのをいいことに、俺は必死で文字を学ぼうとした。


 だが、ホセの家にある数少ない、湿気臭い古書に並ぶのは、あのルーン文字のような旋律的なアルファベットだ。


 それを解読しようとするだけで、文字通り頭痛がしてくる。


 見知らぬ文字の中に規則性を見出すのは、完全に敗色濃厚な戦いだった。


 ――そして、本当の拷問は夜に訪れる。


 睡眠だ。


 普通の3歳児なら、2時間も遊べば泥のように眠るはずだ。


 だが、俺は違う。


 俺の脳は狂ったままだ。前世、33歳で迎えた死と、あの戦争の傷痕トラウマを引きずっている。

 目を閉じるたびに、過去の泥濘が脳裏に染み込んでくる。


 塹壕の冷気。


 1939年の銃声の残響。


 ポーランドで倒れていった戦友たちの悲鳴。


 目の奥を刺すような激痛が、俺を夜明けまで叩き起こし続ける。


 まだ完全に癒合ゆごうしていない幼児の頭蓋骨にとって、大人の人生のトラウマは、処理しきれない過剰情報でしかなかった。


俺の目には消えない隈があり、ホセはそれを「激しい気性」のせいだと笑っていたが。


 しかし、そんな慢性的な疲労も、ある春の日の午後にすべて吹き飛ぶことになる。


 場所は、裏庭。


 フレヤが丸太の切り株に腰掛け、ぶつぶつと文句を言いながら、取り憑かれたように額を掻きむしっていた。


 セレナはキッチン、ホセは村に出かけていて留売(留守)だ。


 俺は重い地元の神話本を引きずりながら、おぼつかない足取りで彼女に近づいた。


「掻くのをやめろ、フレヤ。血が出るぞ」


 ポーチの階段を必死に登りながら、俺は声をかけた。


「だって、すごく痒いんだもん、ダリオ……」


 フレヤはもどかしそうに髪をかき上げながら、泣き言を言った。


「ここに、二つのトゲが刺さってるみたい。昨日からずっと痛いの」


 俺は彼女の2歩手前で足を止めた。


 フレヤが太い三つ編みを分けると、こめかみのすぐ上の、生え際が見えた。


 ――俺の身体が凍りついた。


 手から滑り落ちた本が、鈍い音を立てて草の上に転がる。


 トゲなんかじゃない。虫刺されでもない。


 それは、エボニー(黒檀)のように黒く、光沢があり、硬い、二つの小さな突起だった。


 皮膚からわずか1センチほど突き出ているだけだが、その形状は紛れもなく円錐形。


 つのだ。


 小さく、鋭く、そして絶対的な現実としての、角。


 退役軍人としての俺の理性が、一瞬でショートした。


 炎の剣も、物理法則の崩壊も、見知らぬ言語も受け入れてきた。


 だが、俺を実の姉のように世話し、泣けば抱き上げ、這い這いが上手くいかない度に腕に掴まらせてくれた11歳の少女の頭に――俺の故郷ポーランドなら『悪魔の刻印』と呼ぶべきものが生えてきているのを見て、頭から冷水を浴びせられたような衝撃が走った。


「な、……何だ、それは」


 せっかく身につけた流暢さが一瞬で崩れ、声が吃る。


 フレヤは、その真っ直ぐで深い瞳を俺に向けた。


 俺の顔に浮かんだ絶対的な恐怖を見て、彼女の目に涙が溜まっていく。


「ホセ叔父さんが……お母さんの血筋だって」


 怯えたように自分の角の先端に触れながら、彼女は震える声で囁いた。


「『濃密な炎』に適性があると、11歳を過ぎた頃から身体が変わり始めるんだって。ダリオ……私、変かな? 化け物になっちゃったのかな?」


 俺は彼女を凝視した。


 寝不足で疲弊し、この発見による過剰な刺激を受けた俺の脳みそは、反応するまでに数秒の遅れを要した。

 そして、恐怖の背後から、さらに冷酷な現実が俺の背筋を伝った。


 生後1ヶ月も経たない頃、あの最初の夜にホセとセレナが話していた内容が脳裏をよぎる。


 ――耳の長い娘を持つコヴァリック家。


 ――ドワーフ(小人)になってしまった水車小屋の倅。


 ――8歳にして巨体となったヴォランスキ家の子供。


 12年周期のドラゴン


 誰一人として容赦しない、残酷な遺伝の宝くじ。


 この世界において、魔法ちからとは裏庭で気まぐれに訓練するような『才能』だけではない。


 ある者にとっては、それは『宣告』なのだ。


 聖職者はそれを【加護(祝福)】と呼び、錬金術師は【検体(素材)】と呼び、王は【兵器】と呼ぶ。



 そして、薄暗がりのなかで娘を抱きしめる母親は、どんな言語にも翻訳の必要がない、たった一言でそれを表現する。


 ――【呪い(破滅)】だと。


 もし村の誰かが、ホセやセレナ以外の人間が、フレヤが髪で隠し方を覚える前にこの角を見つけたら。


 どうなるかなど、想像もつかない。


 だが、塹壕と占領地で揉まれてきた俺の古い直感が、胃の腑の底で警鐘を鳴らしていた。


 決して、碌なことにはならないと。


 これまで自分自身に対して抱いていた嫌悪感や、故郷ポーランドの古い宗教的ドグマは、奇妙な共感へと変質していった。


 この世界では、ルールが違うのだ。


 魔法には肉体的な代償が伴い、この土地の遺伝子はまともな人間の解剖学など理解しちゃいない。


 俺が頭の中に戦争の亡霊トラウマを宿しているのなら、彼女は肉体に炎を宿している。


 そして、俺たちのどちらも、そんなものを望んで背負ったわけじゃない。


 俺は超人的な精神力で身体を動かし、彼女に歩み寄ると、3歳の小さな手で彼女の膝を不器用にポンと叩いた。


「化け物なんかじゃない」


 落ち着かせるように、分隊長サージェントが部下に命令を下すような毅然としたトーンを意識した。幼児のかん高い声のせいで、少し説得力には欠けたが。


「それは『武器(道具)』だ。セレナの剣と同じ。それにさ、もし村の奴らが姉ちゃんに突っかかってきても……文字通り、頭突き(頭脳)で黙らせればいい」


 フレヤは俺の言葉に驚いたように瞬きをし、涙を流しながらも、小さく鼻を鳴らして笑った。


 見慣れた温かい眼差しで俺を見つめる彼女。


 俺はその二つの小さな黒い角を見つめながら、遅かれ早かれ、いつか別の誰かがこれを目にすることになるだろうと考えていた。


 そしてその日が来れば、どこかの誰かが決めるのだ。


 その角が【祝福】か、【素材】か、【兵器】か、それとも【破滅】かを。


 俺に残された一抹の信仰にかけて願う。


 それを最初に決めるのは、他の誰でもない、俺たちであってくれ、と。



第2話


見習いたちの監督官である司祭、ジェレミアス神父。


 彼は三十五歳になったばかりで、その整った顔立ちは人々に深い信仰心を抱かせるに十分な説得力を持っていた。説教の場では、彼の穏やかな声が慈愛に満ちた響きで聖堂を包み込む。


 しかし、執務室の閉ざされた扉の裏側では、その聖職者の仮面は容赦なく剥ぎ取られ、冷徹な支配者としての本性が姿を現すのだった。


 ある暑い日、ジェレミアスはフレヤが頑なに厚手のフードを被り続けていることに疑念を抱いた。彼は魔力の習熟度を確認するという口実で、彼女を一人執務室に呼び出した。


 静寂に包まれた部屋で、彼は一切の感情を排した声で、彼女に隠しているものを見せるよう命じた。

 フレヤが震える手でフードを下げると、そこには皮膚を突き破り始めた黒檀のような小さな角の先端があった。司祭の瞳に驚きはなく、ただ冷酷な計算だけが宿っていた。


「残念だよ、フレヤ」


 ジェレミアスは銀の指輪を弄びながら、逃げ場を塞ぐように彼女の周囲をゆっくりと歩いた。


「教義において、その変異が何を意味するかは理解しているね。それは祝福ではなく、教会が排除すべき異端の証だ。この事実が知れ渡れば、君が王都の施設でどのような『調査』を受けることになるか……想像に難くないだろう」


 絶望に打ちひしがれるフレヤに対し、司祭は静かに、しかし抗いようのない威圧感をもって告げた。


「だが、私が沈黙を守ることもできる。条件は、私への服従が絶対であり、盲目的であり、無条件であることだ。今日から、君の身体も魂もすべて私のものとなる。あらゆる屈辱の中で私を満足させることを学び、私が命じた時は膝を突き、必要ならば君の不届きな罪をあがなうために私のブーツを舐めるがいい。君はこの神殿の中で、私の物言わぬ所有物となるのだ。拒むか、あるいはこのことを叔父たちに話すなら、明日には君を連行するための檻付きの馬車がやってくる。そして私を信じろ、王都の実験室から生きて戻った者は誰もいない」


 司祭の言葉の一つ一つが、逃げ場のない重圧となってフレヤにのしかかる。彼女の瞳に絶望の色が濃くなるのを確認すると、ジェレミアスは満足げに机へと戻り、まるで事務作業を終えたかのように平然と書類に目を落とした。


 その日の夕方、家に帰ってきたフレヤの顔は死人のように青ざめていた。


 彼女は何も語らなかった――。








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