第11話:ダンジョンと巨竜の爪痕 ll
残存魔力の最後の火花によって白熱化した剣の白い光が、呪われた地理のシルエットを暗闇の中に浮かび上がらせていた。
ここはただの平凡な洞窟ではない。
地下1キロメートルの深淵には独自の気圧が存在し、太陽を知らない生物たちの悍ましい生態系が、湿った石壁にへばりつく濃厚な空気を満たしていた。
脱臼した左肩を庇いながら、俺は周囲の床を睨み据えた。
足元を埋め尽くしていたのは、崩落によって粉砕された土砂と、分厚い層をなす【岩蜜(いわみつ / イワミツ)】の泥だった。
岩の割れ目から滴り落ちるその半透明の琥珀色の粘液は、まるで山そのものが脂を流しているかのように、濃厚な獣臭を放っている。
その滑らかな泥の中から、黒ガラスのような硬質の細い葉を持つ【針シダ(はりしだ / ハリシダ)】の群生が、地底の風に震えてキチキチと不快な音を立てていた。
地上の惨劇は、未だこの深層を潤し続けている。
潰れた村人たちの血肉が岩を伝って滴り落ち、地底の捕食者たちの巣へと直接流れ込んでいた。
『前方、距離12メートルに動体反応』
濡れた敷布を泥の上で引きずるような生々しい音が、石の静寂を破った。
針シダの隙間から這い出てきたのは、3匹の【殻ヒル(からひる / カラヒル)】だった。
体長1メートルに及ぶその盲目の環形動物は、黒檀のような節状のキチン質の甲殻に覆われている。
目はないが、その頭部は放射状の牙を孕んだ吸盤の口になっており、新鮮な肉の熱を感知して、ウネウネと不気味に開閉を繰り返していた。
奴らは死体の血を、そしてフレヤの存在を嗅ぎつけたのだ。
『距離:12メートル。接触まで4秒。肉体制限あり。――解:非対称の窒息戦』
「むし、きた」
俺は幼児の短い言葉を口にしながら、フレヤの無防備な身体の前に這い出た。
「きたないの、あっちいけ。ねえちゃんに、さわるな。めっ、するぞ」
ジェレミアスの剣の柄を右手で握り直す。
熱せられた金属が幼児の皮膚を焼き、水ぶくれを作ったが、前世の戦場で肉を引きちぎられた痛みに比べれば、こんなものは微々たる雑音に過ぎない。
この小さな腕では剣を振るうことはできない。だが、密室でのサバイバル(生存競争)に必要なのは美しい剣技ではなく、冷徹な生物学的排除だ。
最初の一匹が、吸盤の口を限界まで広げて突進してきた。
『距離:3メートル。接触まで1秒。――起爆』
俺は避けることなく、幼児の体重を後ろへ預け、花崗岩の床を支点にして剣の先端を奴の口の真ん中へと突き入れた。
白熱する鋼鉄が、殻ヒルの柔らかい内臓を一瞬で沸騰させる。
ジュウジュウという悍ましい音と共に、アンモニア臭の混ざった白い煙が噴き出し、怪物はキチン質の甲殻を岩に叩きつけながら狂ったようにのたうち回った。
残る2匹の殻ヒルは動きを止め、その盲目の頭部を宙で激しく振った。
自分たちの狩り場に現れた、異常な熱源を警戒しているのだ。
野生の防衛プロトコルが作動した奴らは、琥珀色の岩蜜の泥の中へと、ゆっくりと後退していった。
剣を引き抜くと、白熱していた刃の輝きが失われ、迷宮の冷気が再び視界を閉ざし始める。
ここは地上から1000メートル下、俺たちをただの餌として扱う世界だ。
だが、この幼児の脳髄に宿るベテランの戦術は、まだ一発も弾切れを起こしちゃい
焼き焦げた『殻ヒル』の不快なきしみ音が消え失せ、辺りにはアンモニアと沸騰した体液の生臭い悪臭だけが残された。
残りの2匹の怪物は、再び濃厚な『岩蜜』の闇の中へと姿を消した。
直近の周囲は、再び岩と瓦礫、そして静寂だけに戻る。
俺は細身の剣の柄から手を離した。
右手のひらは生肉のように剥がれ、鋼鉄の熱による水ぶくれで埋め尽くされている。腕から折れた鎖骨にかけて、激しい震えが走った。激痛のスパズムで視界がかすむ。
『ダメージコントロール』
俺は血の味のする唾を飲み込みながら、心の内で己に命じた。
『医療物資はない。鎮痛剤もない。残されたのは、肉体の純粋な生存抵抗値だけだ』
まともに動かない両脚を引きずりながら, 俺は四つん這いになって、一緒に落ちてきた古い布の包みへと近づいた。
運んできた物資の状況を確認しなければならない。血に染まった指先で、湿ったキャンバス生地を弄る。
2つの重い袋はまだそこにあった。どうにかそれを開けると、ジェレミアスとフォン・カルスキー男爵から奪った金貨と銀貨の輝きが、鉄刃の消えゆく光の下で鈍く明滅した。
この深層の生存においては現時点で何の役にも立たないが、未来においては命綱となる資本。
金属の隣では、厚手の革で装丁された書物たちが、キャンバス地に守られて無傷のまま残っていた。『濃密な炎』の高度な制御に関する魔導書、そして教会の変異体記録簿は無事だ。
奥底には、もう1本の細身の剣が、傷一つない状態で静かに横たわっていた。
『資材の安全を確認』
一瞬だけ痛みを忘れさせるような満足感が、胸の奥に湧き上がった。
『武器はある。情報は手に入れた。資本もある。足りないのは、安全な拠点の確保だけだ』
地面に置いた剣の刃を見つめる。
魔法の熱によるマグネシウムのごとき白い輝きがパチパチと爆ぜ、急速に鈍いチェリーレッド(赤黒い熱)へと衰退していく。残存エネルギーが底を突きかけていた。
迷宮の、長く歪んだ影たちが再び領土を広げ始め、細胞の壁のように俺たちの周囲を狭めていく。
俺は最後の力を振り絞って這い進み、フレヤの身体にぴったりと寄り添った。
気絶したままの彼女の肉体を、俺の破れた幼児の服の端で再び覆う。
すべてを飲み込もうとする暗黒の最中、俺は動く方の右手を伸ばし、布地の隙間から彼女の冷え切った指先を探し当てた。それを力一杯、握りしめる。
「ぼく、ここに、いるよ」
幼児のかすれた声で、完全な暗黒のなかに呟いた。
鋼鉄の最後の熱が完全に消え去り、俺たちは地下世界の底知れぬ空白へと、静かに塗りつぶされていった。
「ねえちゃん、まもるからね」




