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大河の死後

 大河がゆっくりと目を開くと、そこは白い――いや、白と呼ぶべきかどうかもわからない空間だった。


 足元も、空も、境界がない。ただ淡い光だけがどこまでも広がっている。


「……ここ、どこだ?」


 声を出してみるが妙に軽い。耳に返ってくる響きもどこか遠い。


 身体を起こそうとしてふと違和感に気づいた。痛みがない。ついさっきまで全身を焼くように襲っていたはずの痛みが、跡形もなく消えている。


 代わりに無と言うべき静謐があった。風も音も匂いもない。五感のうち視覚しか機能していないようだった。


「夢……?」


 呟いてみるがまるで現実味がない。それどころか、妙に頭が冴えている。


 不意に、目の前の空間がゆらりと歪んだ。


 水面に石を落としたような波紋が広がり、そこに映像が浮かび上がる。映画のスクリーンのように、景色が形を成した。


 ――葬儀場だった。


 白い菊の花。焼香の列。重たい空気。


 その中心によく見知った二人――可憐と堂本が立っていた。二人は険しい面持ちをして焼香台の前で手を合わせている。


 特に印象的だったのは、制服を着崩すタイプの可憐がきっちりと学校指定の濃紺のブレザーを着こなしていて、常にポジティブだった表情はあまり見たことがないほど重苦しかったことだった。


「小学生の子を庇ってトラックにひかれたんですって。居眠り運転だったみたいよ……」


 静寂が支配する場にひそひそ声がいやに響く。


「まだ高校生でしょ……? かわいそうに……」


「ご両親も仕事の都合で遠方だったみたいで……」


「妹の硝子ちゃんもずっと寝込んだままで……」


 戻る際に可憐は大河の両親に頭を下げ、そのまま葬儀場の外へと出て行った。堂本は彼女を止めようと一歩踏み出しかけて、やめた。


 葬儀場の扉が開いた瞬間、外気が流れ込んだ。空は厚い雲に覆われ、大粒の雨が降り続いている。


 可憐は傘を差さずそのまま軒下を離れた。冷たい雨粒が濃紺のブレザーに点々と染みを作る。


「夢なら醒めてほしいと何度願ったか……」


 顔を上げ、真正面から雨を受け止める。


「けれど……夢じゃないんだな」


 彼女の頬を濡らす雨の冷たさ、感触が紛れもない現実であることを告げていた。


「昨日、『またな』って言えなかった」


 可憐の握る手に力が入る。


「家の大事な用事があって急いでて、少し待ったんだけどタイガーは掃除当番で時間がかかりそうだったから……『まあいいや』って。どうせ、明日も、また会えるからって……!」


 大河としてはまるで気にしていなかった部分だ。立場が逆ならあいさつせず放って帰ったかもしれない。


 しかし可憐にとっては殊更大切なことのようで、


「こんな私を親友と呼んでくれたのに……それに慣れ切っていたんだ。だからいつも別れ際に『またな』って――『今日もありがとう』って伝えたかったのに!」


 彼女にとっての「またな」は日ごろの感謝の言葉だった。そんな意味があったのかと、大河はつい面食らう。友達でいてくれてありがとう、なんて大河も気恥ずかしくて声に出さないだけで常に思っていたことだった。


 泣いている親友に声をかけてやりたいと思った。けれど一切届かない。そんな歯がゆさを抱いていると、映像がゆっくりと滲むように切り替わった。



 ――そこは薄暗い部屋だった。


 カーテンは閉め切られ、昼なのか夜なのかも分からない。机の上には手つかずの弁当箱と空のペットボトルが並び、床にはコンビニ袋が無造作に転がっている。


 しかし大河にとって見覚えのある部屋だった。視界を振ると、ベッドの端に硝子が座っていた。


 髪は伸び放題で手入れがおざなりな状態で、頬は痩せ細っている。膝を抱え、焦点の合わない目で床を見つめていた。スマートフォンの画面にはいくつもの通知が並んでいるが、彼女はそれを開こうともしない。出不精な気質のある硝子だったがあまりに異常な光景だった。


 一階からは怒鳴り声が響いていた。聞き覚えのある――まさしく両親の声だった。


「だから言ったじゃない! 無理やりにでも大河をあっちに連れて行っていれば――」


「お前は硝子を連れて行こうとしたが大河のことはちっとも気にしていなかったじゃないか! 都合よく話すんじゃない!」


「あなただって――――!」



 互いを責め合う両親の声が硝子の部屋にまで突き抜けてくる。硝子は耳を塞いで、ただただ自分の殻に閉じこもるばかりだった。


 ラブラブ夫婦というわけではなかったが、さほど喧嘩の多い両親ではなかった。どちらかといえば母親が強く、父親の方が最終的に折れることが多かったため深刻には至らなかったのか。


 映像がまた切り替わる。


 曇った空の下、住宅街の道を硝子が歩いていた。足取りは頼りなく、風に押されるようにふらついている。まるでどこへ向かうのかも決めていないようだった。


 ふと、彼女の足が止まる。そこは見覚えのある交差点だった。


 所々剥がれた横断歩道。少し錆が目立つ信号機。そして、アスファルトに残る薄いタイヤ跡と落とし切れない血の跡。――紛れもなく大河が命を落とした場所であった。


 硝子はしばらくそこを見つめていた。伸びた前髪のせいで彼女の表情が伺いづらく、今何を思っているのか定かではない。やがて硝子はぼんやりと車道へ足を踏み出す。


 遠くでクラクションが鳴った。次の瞬間、強烈なヘッドライトが視界を白く染め上げる。


 急ブレーキの甲高い音が響く。耳を覆いたくなるような鈍い衝突音が炸裂する。映像の遠くで少女の小さな身体が吹き飛ばされて――――



 ――――映像はそこで途切れた。白い空間だけが再び静かに広がる。


 白い空間の静寂の中で、大河はしばらく動けなかった。胸の奥が重く、息をすることすら苦しい。


 喉の奥からかすれた声が漏れる。


「なんだよ、これ……」


 現実逃避にも似た一言。けれどそうでもしないと精神を保てそうになかったのだ。


 可憐に重い後悔を残したこと、自身の家庭を崩壊させたこと、硝子が事故に遭ったこと。そのいずれもが大河の死に起因している。


「俺の、せいなのか……?」


 大河以外誰もいない空間で、その慟哭はあえなく溶け消えるかに思えた。


「――その通りだ。少なくともキッカケではある」


 背後からそれを受け止める人物が現れた。


 大河は反射的に振り返る。そこには先ほど神社で別れたはずの少女――ベルフェリア・スカーレットが静かに佇んでいた。



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