魔王を名乗るロリ
タチの悪い熱を出した硝子を看病したとき、彼女の吐しゃ物を掃除したことがある。そのときは妹に対する心配が先だって汚いなどとは不思議と思わなかったけれど、今回ばかりはさすがに汚いと思ってしまう。たとえそれが美少女の吐いたゲロだとしても汚いものは汚い。
間に合わなかったとはいえ、追加で吐く可能性が高いということで少女を女子トイレへと押し込み、ひとまず大河はゲロをぶちまけられた衣服を脱ぎお手洗いに併設された水道で洗っていた。幸いズボンにまではかかっておらず、上半身裸になるだけでギリギリ済んでいる。
「一風変わったイベントを求めてはいたがこういう路線は求めちゃいないんだよなぁ……」
ぶつくさ言いながら水を吸った制服を絞る。それを複数回念入りに繰り返すうちにあの酸っぱい香りがほとんど消すことに成功する。それを日差しが当たる位置に干し、少しでも乾いてから着ることにした。
やがて少女もよたよたとした足取りで女子トイレから出てきた。さっきまで「おげーうげー」という嘔吐が何度か聞こえていたことからなかなかの悪戦苦闘だと思われる。
少女の手には空になったペットボトルが握られている。大河の飲みかけではあったが、うがい用に必要だと思いトイレに籠る際に渡しておいたのだ。
上半身裸の大河を見ても照れた様子を見せない少女だったが、少々申し訳なさそうに俯き頭を下げた。
「……すまない。多大な苦労をかけた。謝罪してもし足りないほどだ」
「いやそんな大げさな……って謙遜できるほど人間できてない俺だけど、あれだな、こんな日もあるって思うしかできないよな」
「すまない……」
フォロー下手な大河ではどう足掻いても少女を立ち直らせることなどできない。なので多少強引だと知りつつも話の流れを切り替えることにした。
「それにしてもキミ、日本語喋れたんだな。てっきり外国の人だと思ってたよ」
「……? 何故だ? 貴様らと同じ日本語だと思うのだが」
「いやそうじゃなくて……」
予想外の返答に戸惑う大河。奇抜なファッションセンスもそうだが地毛と思われる金髪に紅の瞳、どれも日本人離れしている。あるいは外国人の両親とともにこの近くで暮らしている可能性もあるが、これだけ目立つ風貌をしていれば大河の耳に噂の一つや二つ入ってくるはずだ。
厠だの貴様だのと今時の日本人ですら使わなさそうな単語を使っているのは、てっきり誤った日本知識を何者かに植え付けられたせいかな? と漠然ながら捉えていた。
どう答えたものかと窮しているうちに、少女は何故だか意を決したように大きく深呼吸をした。吐いた後は新鮮な空気を吸いたくなる気持ちはよく分かる。にもかかわらず少女はまたもや嘔吐を我慢する仕草を見せた。
「おいおい、大丈夫か? こんなところで何やってたかは知らないけど、早く家に帰って休んだ方がいいぞ」
「ふ……。心配いらん。魔力が薄いことに加えこの悪臭。しかしそれにもようやく慣れてきたところよ」
「悪臭……? さっきのゲロのせいじゃないのか」
「違うっ」
強めに否定された。試しに鼻で空気を吸い込んでみるが特別臭いとは思わなかった。近くに交通量の多い道路があって、排ガスやらなんやらで臭覚が強い人にはややキツイのかもしれない。
ともあれ少女が言う通り明らかに顔色は良くなってきている。体調が良くならないままなら家まで送り届ける必要があるか、と考えていたが杞憂に終わりそうだ。
大河は洗ったばかりでぐっしょりの制服に袖を通す。
「もう大丈夫そうだな。かといってあんまりほっつき歩いちゃ駄目だぞ。今日はまっすぐ家に帰るように」
「む……」
曖昧な返事を確認し、大河は踵を返して帰路に就くことにした。それを阻むようにして不意に少女が声をかけてきた。
「――少年、一つ問うてもいいか?」
幼く見える容姿に似合わぬ大人びた声音を受け立ち止まる大河。
「なんだい少女。ちなみに俺は御前大河ね」
「なぜ見ず知らずの私を助けた? 手を貸す義理などなかったはずだ」
そんなことを尋ねられると思っていなかったので、大河は少し答えに窮した。
「なぜ……か。理由なんて大層なものはないよ。困っている人がいれば声をかけるし、倒れている人がいれば手を差し伸べるし。そんなもんだろ」
「それは私の普通ではない。……私がかつていた時代では、困っているものがいても誰も助けない。勝手に生きて勝手に死ぬ」
急に生き死にの話をされてさらに言葉に詰まる。そんな過酷な場所でこれまで生きてきたのかと。
少女はなおも続ける。
「それが摂理だった。強き者が君臨し、弱き者が排斥される。それだけだった。……強きと弱きが入れ替わることもあったが」
「世紀末みたいだな」
少女の語る世界があまりに作り話すぎてつい軽口を叩く大河。しかし少女の瞳は冗談を受け止める素振りも見せない。
「そして少年。貴様は弱き者だ」
急に言葉で突き刺してくる。だが図星だった。大河は自身を強いと評価したことはない。それはそうと自分より年下の少女に言われるとくるものがある。
少女と目が合う。逸らすことを許さない、力の籠もった瞳だった。
「再度、貴様に問う。なぜ私を助けた?」
瞬間、木々が風に揺れ葉が擦れ合う音が妙に大きく聞こえた。それはあたかもこの空間そのものが総毛だった風に錯覚する。
厨二的問答とはいえ彼女の眼は真剣そのものである。先ほどのように茶々を入れて答えるのは真摯ではないと分かる。
大河は己の中でほんの数秒答えを探る。それはすっと言葉となって口を衝いて出た。
「キミがどんなところで過ごしてきたか、まるで分らないけど……ホントに当たり前のことなんだ。電車で高齢な人が立っていたら席を譲るし、迷子がいればそっと声をかける。力がなくたってそれくらいできるさ」
「当たり前のこと、か」
求めた回答と異なっていたのか、少女は訝し気に眉をひそめた。硝子が以前「女子は共感の生き物なんだよ」と言っていた。となれば「強者は傲慢に生きるべき、弱者は隅っこで震えてろ」とでも答えればご満悦だったのか。そうするのは簡単だが、一人の男としてのプライドに反する。
「確かにキミの知っている人たちはそうじゃなかったかもしれない。多分俺が当たり前と感じている優しさも、昔は当たり前じゃなかったのかも」
「その通りだ。遥か昔の戦国の世――いや、それよりも前。人はもっと簡単に他者を殺していた。他者を思いやる者なぞまるでいなかった。生き死にがずっと身近でその余裕がなかったのだろう」
「戦国時代以前って……そんな昔の話をしたつもりはなかったんだけど」
どうにもスケール感が少女と合わない。
その少女は納得がいかないような表情である。大河としては無理に少女を説き伏せようだなんて考えていないため、別に彼女が消化不良で終わろうとも関係ない。ただ願わくば「そういう考え方もあるか」くらいには共感してほしいと思った。
太陽が雲に隠れ、二人の立っている場所を陰が覆う。常に広がっていた喧騒から隔絶されたかのように無音の世界に支配される。少女はまだ答えの続きを待っているようだった。
「……優しさって文化なんだよ」
「文化?」
「誰か一人が他者を重んじても文化にはならない。だけど皆が少しずつでも世の中を良くしようとしてきたんだ。時に悪用されようとも、少しずつ……」
「…………」
「大げさだけどね。今その優しさが文化として根付いているから、当たり前って表現を使っちゃうのかなぁ」
押し黙る少女を横目に頬を掻く大河。柄にもなくやや詩的な言い回しを使ってしまった。知り合いに聞かれていたら当分の間これをネタにからかわれること間違いなしだろう。
少女はその間大河の価値観を咀嚼して理解しようとしているようだった。感性が合わないと切り捨てるのは簡単だが、一度は聞き入れようとする姿勢には好感が持てた。
静かな時間だった。基本的に沈黙が苦手な大河だが、少女がどんな答えを返してくれるのか不思議と期待を抱いていた。
少女が言葉を紡ごうとして、ふっと息を入れる。
「……ふむ。伝えたいことは大まかに理解できるが楽観的とも言えるな。しかし――貴様がこの時代を好いているのは解することができた」
「いやまあ凄い好きかって言われるとそうじゃないけど。嫌いよりの好きって感じ」
「どちらなのだ貴様は……」
意中の女子を掘り下げられたかのような気恥ずかしさが突如湧いてきて、大河は反射的にはぐらかしてしまう。
少女は大河から視線を外し、眼下に広がる街並みを見やる。その眼差しはどことなく寂しげな風に映る。
「ひとまずは……そうさな。貴様の信条が真か否か、この目で確かめてやろう」
信条と呼べるほど高尚なものではない。だが、いかにも厨二病特有の大げさな言い回しである。大河は温かい目で特に訂正しなかった。
少女は大河に向かって僅かに頭を下げ、
「此度の件、貴様には多大なまでの迷惑をかけた。この礼は近いうちに必ず」
「ま、気長に待つよ。忘れた頃にやってくるくらいでちょうどいい」
他人にゲロをかけられたなんて強烈な記憶、忘れたくても忘れられないだろうがフォローの意味を込めて言い返す。
微かに名残惜しむように少女は本殿を一度見つめて、背中を向けて立ち去ろうとする。
「あ、そう言えば」
と、大河は何の気なしに少女を呼び止めた。彼女は振り返らずに背中越しに続きを待っている。
「少女、少女と呼んでいたけど肝心の名前を聞き忘れていたよ。せっかくだしキミの名前を教えてくれないか?」
「…………」
逡巡の間を置いて、やはり少女は振り向かなかった。
「ベルフェリア・スカーレット。――かつてこの地に君臨していた魔王さ」
刹那、強烈な風が大河の顔を打つ。思わず目を瞑ってしまって、次の瞬間には少女の姿は跡形もなく消え失せていた。




