ep.93 天橋立
第三学年 八月八日 日曜日
天橋立
澄みきった青空の下、鬼伝説の残る大江山を越えると目の前にパッと青い海が広がった。
海岸沿いを潮風と陽光を切って走る感覚はこの上なく心地いい。
快適な走りを楽しんでいると陸奥の松島、安芸の宮島と並び日本三景と称される天橋立が視界に飛び込んできた。
天橋立は大江山麓の野田川から流された砂を与謝の海からの押し返しにより生じた全長三・六キロメートル砂嘴であり、それを彩る大小七千本からなる壮大な松並木は、与謝野蕪村をもって『はしたてや松は月日のこぼれ種』と言わしめる。
駐車場にバイクを止めた二人が、まずはその全貌を見渡そうとリフトに乗り展望ビュースポットへと駆け上ると、そこには阿蘇海と宮津湾に身を臥していた天橋立という名の龍が今まさに天に舞い上がろうとしていた。
この壮大にして神秘的な景観に圧倒されながら佐那はやや興奮気味な口調で言った。
「ほんまにええわ、ここはほんまに好きやわ」
「ほんまや、いつ来てもここはええ、俺も大好きやで」
「何百年、いや何千年かな?
私らにしたら永遠と言っていいほどの年月、幾人もの人がこの景観を見て同じように感動してきたかと思うと、なんか素敵やね」
「詩人やな」と一文字がツッこもうとしたとき、
「なんて、言ってみました」と佐那は照れ笑いした。
二人がしばらくの間、空と海と自然の融和を楽しんでいたとき、何かを思いついたような表情で佐那が言った。
「せや、一君、ここに来たからには股のぞきしとかんとあかんのとちゃう?」
(股覗き?)
一瞬、セクハラおやじさながらの低俗な考えが脳裏をよぎる、隣で純粋にはしゃいでいる佐那を見てそんな自分にうんざりした。
「一君、どないしたん?やらへんの?」
「いや、橋立名物をここでやらんでいつやるんや!」
言うなり一文字は股のぞき台に飛び乗ると、天橋立に背を向けおじぎをして自分の股の向こうを眺めた。
佐那も一文字の隣で同じように股から天橋立を眺めた。
そこでは転地の逆転した飛龍観が松並木を空に浮き上がらせていた、それはまるで、
「天にかける橋やね」
澄んだ声で佐那はそう言った。
文殊水道に掛かる廻旋橋を渡ると、そこからは神々が天に向うための橋である。
古の伝説を持つ神の橋には多くの観光客が往来し、その神秘性に活気が入り混じり否がおうにも一文字と佐那の心を躍らせた。
どこまでも続く松並木の中を歩いていると佐那はつい思ってしまう。
「江戸時代の人とかってこういう道を歩いて旅してたんかな?」
「確かに、飛脚とか三度笠をした旅人とか似合いそうな雰囲気あるもんな」
「うん、なかなかええ想像力やわ」
松と松の隙間が、陽射しと陰を交互に演出する中で、佐那が指差して言った。
「一君、あそこに御茶屋さんがあるから行ってみいへん」と、
佐那の指の先にあった御茶屋で二人はみたらし団子を注文した。
出てきたみたらし団子はふっくらした餅にトロリと香ばしいたれが絡み合い二人の舌を満足させるものだった。
「おいしいわ~、やっぱりお餅は伸びて伸びて柔らかいのがええね」
「ほんまによう伸びるわ」
と言いながら一文字が咥えた餅を引っ張ると餅はパチンとすぐに切れた。
入道雲をバックに夏の乾いた風が松を揺らすと静かな時間が流れていることに気付かされる。
「それにしても、なんかのどかやね」
「珍しいな」
「なにが珍しいん?」
「ほら、こんな時、いつもやったらマシンガン女が出てきて、せっかくの雰囲気を台無しにするやんけ」
ぷっと吹き出して佐那は言った。
「ほんまやね、優子は自分でよう言うてるもん、私、何が赦せへんって間が赦せへんって」
「なるほどな~、じゃあ、これからの永嶋さんには平穏な時間は無いってことやな」
「せやで~、永嶋君は覚悟せんとあかんで~」
顔を合わせて二人は笑った、どうということも無い事が妙に可笑しくて、二人は笑った。
海水浴のシーズンだけに浜辺は大いに賑わっている。
それでも遊泳禁止区域は人がまばらだった。
遠くでは夏の海を楽しむ子供達の騒ぎ声がするが、辺りにあるのは波の音とあぶら蝉の声くらいのものだ。
そこに佐那の声が割って入った。
「立位で十字締めを決められたら相手の上になってるほうの腕の下から潜り抜けたらええねんで、ポイントは逆から抜けたらあかんねんで」
「逆から抜けたらどないなるん?」
「じゃあ、行くで」
「行くでって、」
佐那が一文字の左右の襟を手を交差させて握り、親指の端を頚動脈にあてて手首を返すと一文字はギュッと締め上げられ、呼吸さえもままならない。
「はい、一君、こっちの下の手のほうから潜って」
呼吸困難な中、言われた通り一文字は潜ると、今までとは比にならないほどに頚動脈が圧迫される。
一文字が「あかん、あかん」と言ってからしばらくして佐那が手を離した。
「うへ、苦しかった、もっとはよ離してくれや」泣き言を言う一文字をたしなめるように佐那は言った。
「少しは苦しい思いをしたほうが、覚えれるからね」と、
可愛い顔をしているが、こと合気道になると本当に厳しい。
まあ、これも一文字にとっては佐那の魅力の一つだったのだが・・・
その後も四方投げで相手を倒した後の腕の極め方、四教の手の内、剣の切り返しのコツ、等、合気道の話に花が咲いた。
しばらくして、話が一段落ついた時に一文字が言った。
「そう言えば、先月、進路面談があったやんか、みんなどうするんやろうな?」
「どうなんやろう。そう言えば、優子は京大に行って法律の勉強をするって言ってたわ」
「法律?弁護士にでもなるつもりか?
いや、あいつは守りより攻撃やから検事のほうが向いてるような気がするな」
「うん、確かにそういうふうにも見えるけど、実は防御も堅くて攻守共に安定してるで、優子はどちらも出来る万能タイプやわ」
「う~ん、確かに隙はないな・・・」
「永嶋君はどないするんやろ?」
「あいつは北海道の国立大学を受けるとか言ってたな。
これでめでたく遠距離恋愛成立や、林はしゃべるの好きやから電話の応酬やろな。
まあ、もっとも受かればの話やけどな」
「受かればか・・・そう言えば私ら、受験生やねんな、なんか今ひとつ実感沸かへんけど、」
「ほんまやな、そういや、卒業後、佐那はどないするつもりや?」
「私?私は仏教系の大学に行ってその道の勉強をするつもりやで。
それから今よりも、もっと上達したいから合気道も頑張るねん」
キラキラ輝く漆黒の瞳を遠い空に向けて、力強く言った佐那の言葉は希望に溢れていた。
「そっか、佐那らしいな」
「一君はどないするつもりなん?」
「俺か?俺は・・・」
聞かれると困ってしまう、こうしたい、ああしたい、明確な夢など決まっていないのだ、
「俺は、文学部に行こうと思ってるねん、意外にもそういうの結構好きやねんで」
「ほんまに意外やわ」
と微笑む佐那に心の中で言ったあげた
(そうやろ、そうやろ、だって今決めたからな)
ただ、これだけは前から決めていた事だった。佐那の瞳を見据えて一文字は言った。
「俺も合気道を続けていくつもりや。だから、一緒にその高みを極めようや」
「・・・・・・・・・」
一瞬の沈黙の後、佐那の白い顔に浮かぶ薄い唇が喜びに緩むと、すっと頭を下げた。
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします、それとこれ」
佐那の挨拶に一文字は丁寧に応じつつ、ポケットからカラスの形をしたお守りを取り出し佐那に手渡した。
受け取った佐那は不思議そうにそれを眺めている。
「三本足・・・やた烏?」
「そうや熊野三座のやた烏のお守りや。それを今日の約束の証にしようや」
「ええね、それ」
「ええやろ」
「これ私が持っててええの?」
「もちろんや、誕生日おめでとう」
一文字の祝福を受けた佐那は満面の笑みを浮かべていた。
それは命を賭けても守りたい笑みだった・・・




