ep.92 お誘い
第三学年 七月二十一日 水曜日
宝塚ゆずり葉高校 階段踊り場
踊り場の大きな鏡の前で佐那が何やらゴソゴソやっている。
今なら分かる、佐那は正面打ちからの二教・裏のイメージトレーニングしているのだ。
それにしても相変わらずといったところか。
「人目がここにあるで!」
言ってやると佐那は背筋をビクリとさせて振り向いた。
驚きの表情が一変、安堵に変わる。
「もう、一君、驚かさんといて。
まあ、でも一君でよかったわ」
「よかったな佐那、それよりびっくりしたやろ?
俺、ここまで気配消してきたからな」
「ほんまに?
まあ、でも、確かに気がつかへんかったから、そうなんかな?」
「いや、熱中しすぎてただけやろ」と一文字はツッこんでやろうかとも思ったが、とりあえずはそっとしておいてあげた。
「二教・裏か、この技を道場ではじめて食らったときは驚いたな」
「せやったね、あの時、風兄ちゃんが技掛けたら、一君ストンって尻餅ついてたっけ」
「やかましいわ、いらんこと思い出さんでええねん」
「ごめん、ごめん」と、からかうような口調で謝りながら佐那は楽しそうに笑った。
「せや。それよりな、八月八日って空いてへん?」
「えっ、八月八日?」
「忙しいか?」
「ううん、別にええよ。でも、どないしたん?」
「実はな、来週、親戚のおじさんからバイク貰えんねん、せやから一緒にどこかツーリングでも行かへんか?」
「ツーリング?
今までペーパードライバーやったんちゃうん、人なんか乗せて大丈夫?」
「大丈夫や、銀ちゃんのバイクに何回も乗せてもらってるし、八日までにみっちり練習しとくからな」
「そうなん、それやったらええよ。
で、どこ行くん?」
「せっかくやから遠出してみるか?
まあ、佐那の行きたいところやったらどこでも連れて行くで、遠慮なく言ってみ?」
「ほんまにどこでも?」
「ほんまにどこでも」
「どこでもか~、せやね~」
いつもの癖だ、佐那は指先で長い髪をクルクルと巻いては解き巻いては解く、何度か繰り返した後に思いついたようだ。
両手をポンと軽く叩くと嬉しそうな表情を浮かべて言った。
「大江山、いく野のみちも遠ければ、まだふみのみぬ天橋立」と、
「なるほど、大江山経由で天橋立か、そりゃええな」
応じながら一文字は心の中で林に感謝した。
「岡君やったら、多少遠いところでも佐那はついて行くと思うで、誘ってみ」
この後押しがあったからこそ一文字はなけなしの勇気を奮って佐那を誘うことが出来たのだ。
林はこうも言った。
「もちろん、八月八日で」と、やはりあの女は味方にするとこの上なく心強かった。




